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お念仏を申す生活法話

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じいちゃんの祥月命日です

2020-12-30
 今日12月30日は照哲前々住職の祥月命日です。
昭和41年に往生されて55回忌になります。
80歳で私が中学2年でした。

 小学生の頃から夜じいちゃんの処に泊まりに行くのが
私の日課になっていました。
 庫裡から離れた所に家がありそこに一人で居たのですが
夜は私が一緒に寝ていたのです。

 一緒に居る時間が長かったので
いろんな話をしたり聞いたりしたと思うのですが
あまりそんな記憶がありません。
 余計なことはしゃべらない無口なじいちゃんでした。
外見からして笑った顔をあまり見たことがない
頑固な感じで子ども心にちょっと怖かったです。

 ご門徒皆さんからじいちゃんの話を聞くのは
歩いて三佐中のご門徒のお家に
お参りしていたということですが
大分の町中まで歩いて行っていたという話も聞きました。
 ナマンダブナマンダブとお念仏申す声が聞こえて
お参りされていたといいます。

 それから近所の子どもをよく怒っていたことを
思い出します。
 鐘撞堂の塀に上ったり悪さをしてのことですが
大きな声で怒っていました。
 私も同じ子どもの頃のことで
ひやひやしながら見ていたことを思い出します。
「円光寺のじいちゃんによう怒られよった」と
今は懐かしい思い出話です。

 戦前戦中戦後の困難な時代を第十六世の住職として
豪快快活な坊守のばあちゃんと一緒に
円光寺を護ってきてくださったということです。
 住職の役目坊守の役目それぞれに個性も違いますが
こうして皆さんにその人となりをお話できることを
本当に有難く思います。

 今朝鐘を撞いて西の空を見たらどんより冬の雲の間に
きれいな真ん丸お月さんが出ていました。
 外は大きな風が吹いています。
何やら今日明日明後日と強い寒波が来るということです。

 日々変わり行く自然の営みの中にあって
真実変わらないお念仏のみ教えを
今日もこうしてお朝事のご縁で
皆さんとご一緒させていただける有難さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.30)


鬼とは一体誰のことでしょうか

2020-12-29
 映画『鬼滅の刃』が興行収入324億円を記録し
歴代一位になったという話題です。
 映画公開から72日目の達成ということで
コロナの状況下で映画館に約2500万人が押し寄せて
日本の人口の5人に一人が観たという計算です。

 映画館は三密の極みです。
感染防止対策をしっかりしマスク着用でまさに命がけです。
 すごく話題になっていることが話題になって
原作もテレビも観たことがない人で
映画館に行く人も多いと聞きます。

 大正時代の物語で家族愛兄妹愛がテーマということで
映画を観終わって感動で涙する人が殆どといいます。
 興味深いのは鬼滅といって鬼退治です。
桃太郎の鬼退治を連想しますが
勧善懲悪の単純なものではないようです。

 鬼とは一体誰のことかなと思います。
罪を犯し地獄に堕ちた亡者を裁き責める地獄の鬼です。
 赤鬼は貪欲、青鬼は瞋恚、黒鬼は愚痴という
欲の心怒りの心愚かな心の三毒の煩悩の象徴です。

 阿弥陀仏の智慧の光明に照らされて
あらゆる煩悩を兼ね備えた凡夫と知らされた
浅原才市さんは
自分の肖像画に二本の角を書かせて
鬼の心をもった才市のありのままの姿と言われ
鬼のこの私をこそ救わずにはおかないという
南無阿弥陀仏のお慈悲のおはたらきを
有難く喜ばれたのです。

 鬼の寺参りといい
鬼の口から念仏といわれます。
 この口です。
人の悪口や噂話がよく出る口
愚痴もため息もでるこの口です。
 色んなものを食べてはうまいまずいと言い
命を奪っていくこの口です。

 この口からお念仏が出てくださるのです。
凡夫の鬼の心から出た念仏ではありません。
 阿弥陀さまの大きな大きな南無阿弥陀仏のおはたらきが
この身に届いてくださって
煩悩具足の凡夫の身をそのまま
お念仏申す身にさせていただく
本願他力回向のご法義であります。

 今年も残すところあと三日です。
やり残したことはありませんか。
 あっという間に過ぎ去っていくこの一年この一日です。
お念仏を申すなかに今日も一日
いのちを大切に心豊かに生き抜かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.29)


お寺の掲示板のことば

2020-12-28
 コロナ禍にあって生活に困窮し
孤独のなかに生きている人が
困難な状況の中でお寺の掲示板の言葉に
勇気づけられたという話題です。

 お寺の掲示板です。
円光寺もお寺の掲示板そして町角掲示板に
毎月言葉を書かせていただいています。
 今月のことばは
「朝夕に 名号六字の 鐘がなる 帰って来いと 喚んでいる」
です。

 松村和子さんの『帰ってこいよ』の歌を重ねて思います。
大きく声を響かせて歌うあの歌です。
 1980年の歌で今から40年前私が28歳の時です。
カラオケができた頃で私もよく歌ったものです。

 この歌はまさに阿弥陀さまのお心だと
お取り次ぎいただきました。
 阿弥陀さまが「帰ってこいよ」と
名号六字の南無阿弥陀仏に込められて
この私を喚んでくださっているというのです。

 あの歌の情景を思い浮かべます。
青森が舞台です。
 青森から遠く離れた都会に仕事や勉強で出ていった子に
色んなことがあるけれども帰る所はここだよと
子を思うせつない親心です。

 年末年始のこの時期です。
古里に帰省するのが当たり前のようなことが
今年はコロナ禍でできません。
 古里に帰ることができません。
懐かしい人に会うことがかないません。

 ただ帰る所があるということです。
そこは私のことを思ってくれてる人がいるところです。
 帰る家があるという安心のなかに
今年はちょっと寂しいお正月ですが
遠く古里に思いをはせ気持ちを同じくして
一緒に新年を迎えられるということでしょう。

 帰る家がある安心です。
何か当た前のようで当たり前ではない有難いことです。
 還れる家があるからこそ私たちは頑張って
生きて往くことができるのです。

 この人生にはいろんなことがあります。
思い通りになって嬉しいこともありますが
思い通りにならなくて苦しみ悩むことも多く
思いがけないこともあって不安になることもあります。

 そしてこの人生を終えていきますが
私たちは命終えて帰るところを
阿弥陀さまのお浄土と聞かせていただきます。

 帰って来いよと喚んでくださる阿弥陀さまのお心は
いつも私はあなたのことを思っているよ
どんなことがあってもあなたのいのち
そのまま引き受けたから安心して
あなたはあなたのいのちを輝かせて生きて往こうねと
喚んでくださる南無阿弥陀仏のお喚び声といただきます。

 掲示板を見てくださる方もいらっしゃれば
スーッとその前を通り過ぎていく方もいらっしゃいます。
 その人人の人生の歩みの中で
仏さまの言葉に生きる力をいただく人がいればとの思いで
これからも掲示伝道の言葉を届けていきたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.28)


命の終わりを望む患者そのとき医師は家族は

2020-12-27
 昨日「命の終わりを望む患者そのとき医師は家族は」
というテーマのテレビ番組を観ました。
 治る見込みのない病気の患者に
延命治療をするかどうかの選択です。
 本人の意思によるものですが
一旦延命治療がなされたら途中で止めることは
死を意味し日本の法律では許されていません。

 テーマの副題は
「京都ALS事件の衝撃命をめぐる葛藤の記録」でした。

 一概にこうだよということではありません。
個々個別の揺れ動く選択重い決断です。
 死と向き合うなかでその人その人の
家族を含めて大きないのちの選択です。

 そしてこれはこの私が引き受けていかねばならない
選択でもあるのです。

 昨日は二人の患者さんのケースで
お医者さんが二人出てまいりました。
 医師としての専門知識をもって
患者さんとしっかり向き合い
相談していくことですが
お二人それぞれに患者さんへの対応の違いを思いました。

 これまでにお医者さんのお話を聞かせていただくなかで
医師は患者の病気を治すことが役割任務で
患者の死は医師の敗北として
死に至らせない治療を最大限施すのが
医師の倫理と受け止められているように思います。

 医者は病気を見て病人を見ないと言われます。
病人を見ていないわけではありませんが
病気を治すことについてはやはり医者は専門家です。
 私たちは全くその病気に立ち入ることはできません。
病気のことは医者にまかせる以外にありません。

 ただこの私のいのちのあり方については
病気になった時だけではなく健康な時も
老いた時も若い時もいつでも
このいのちをそのまま阿弥陀さまにおまかせするのが
浄土真宗の救いです。

 必ず救うまかせよとおはたらきくださっている
南無阿弥陀仏のおはたらきにそのまままかせばいいのです。
確かに確かにまかせられるのです。

 どんなに治療を尽くしても延命したところで
どんな人もこの命を終えていくのです。
 力なく終わるのですが
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま
彼の土に参るべきなりと
阿弥陀さまのお浄土に往き生まれることができるのです。

 延命して生きていればこそ楽しみや喜びがあります。
子どもの結婚孫の誕生に立ち会えます。
 ただ生きていればこそ苦しみ悩むことも多く
自分の意思さえも思い通りにならない事態にもなります。
 わがいのちのあり方について
覚悟をもっての選択です。

 人に生まれて仏法に遇うことの一大事です。
わがいのちのあり方を仏法に聞かせていただきましょう。
 お念仏の先人は
若い時に元気なうちに仏法を聞いておけよといわれます。

 命終わる時が来ます。
それは私のことであり大切な方のことでもあります。
 阿弥陀さまの本願念仏の救いのみ教えを
聞かせていただきます。
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お念仏申すなかに人世を生き抜き
命終わる時阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏に成らせていただき
ずっと南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに
後に遺った方々とも共に生かされて生きていくのです。

 死んだらしまいの命を生きているのではありません。
お念仏申すなかに仏と成るいのちを
今ここに共々に生かされて生きているのです。

 日頃からお念仏のみ教えに聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.27)


煩悩の氷がそのまま菩提の水となる

2020-12-26
 今日の御和讃です。
「無碍光の利益より」で始まります。
 阿弥陀さまのさわりない光明のおはたらきで
煩悩の氷が菩提の水になると
阿弥陀さまのお救いを讃えられます。

 お正信偈さまの中に「不断煩悩得涅槃」とあります。
浄土真宗のご法義の特徴です。
 煩悩を断ぜずして涅槃と得るなりといいますが
そのお心を取り間違えて
煩悩を断ぜずして涅槃を得るとは悟りを開くということで
もう私はすでに悟りの仏に成っていると聞かれた方がいて
それは即身成仏という仏教の他宗派の教えなのです。

 即身成仏とはこの身この世で仏に成るということです。
浄土真宗のご法義は
私たちは煩悩をずっと抱えて生きる煩悩具足の身なので
この身この世で仏に成ることはかなわないというのです。

 どこまでも固く冷たい煩悩の氷です。
ただ縁あって私たちは阿弥陀さまの無碍光のお救いに
遇わせていただいて
そのままお念仏申す身にさせていただいているのです。

 煩悩具足の凡夫の身がお念仏申す身にさせていただいて
必ず煩悩の氷が解けて菩提悟りの水になるというのです。
 阿弥陀さまのお仕事南無阿弥陀仏のおはたらきです。
だから確かなのです。
だから頼もしいのです。

 氷の私がどんなに頑張っても氷は氷のまんまです。
仏さまのような心を起こすこともあるかもしれませんが
どこまでも自己中心に生きる愚かな煩悩具足の凡夫です。
 欲の心怒りの心愚かな心を持ち合わせたこの私を
そのまま必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私と共に生きてくださる阿弥陀さまなのです。

 この身この命はいつか終わりが来ます。
その時そのまま必ず菩提の水にさせていただくと
今聞かせていただくのです。

 死んでから後聞くのではありません。
今聞かせていただく今の救いなのです。

 毎朝こうしてお正信偈さまとご和讃を拝読し
親鸞さまのお心を聞かせていただいて
お念仏を申す身にさせていただいた喜びいっぱいに
今年もあとわずかになりましたが
一日一日を大切に生き抜かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.26)


円光寺
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