南無阿弥陀仏のいのちのバトンにつながって
2021-01-19
コロナ禍でテレビ番組の制作も地方取材ができません。
そこで今までのものを編集して放送しています。
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」は長崎編ということで
昨日放送がありました。
21年前の2000年の録画です。
鶴瓶さんも21年前と今とでは大分変わっています。
私たちは他人の変わり様はよくわかりますが
自分はそんなに変わっていないと思っていても
写真など映像で見ると明らかに変わっています。
21年前当時20歳で結婚し子どもがいた青年が
現在は42歳になって21歳と19歳の子どもと一緒に
リモートでテレビ出演していました。
子どもがちょうど親の年齢になったということで
他の家族も子や孫ができて家族が増えています。
番組のゲストが「人類の歴史ということを思います」と
ふと言っていました。
命のつながり命のバトンです。
親から子へ子から孫へと命の歴史です。
私たちはいつまでもこの人間界に居るわけにはいきません。
誰しもみんな必ずこの命を終えていかねばなりません。
そのことだけを考えると何か悲しくなりますが
お念仏のご法義を聞かせていただきますと
この命終えて死んだらしまいではなくて
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏と成り
無量のいのちをいただいて
これからもずっと生き続けるというのです。
南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに
生かされて生きている私たちなのです。
お念仏はいつから始まったかというと
無始よりと言われます。
始めが無いようにはるか遠い昔からということです。
そしてその大本が阿弥陀さまなのです。
この私は何か分からないうちに自然発生的に
この世に生まれて来たのではありません。
阿弥陀さまのご本願大きな願いがあったのです。
阿弥陀さまの願いがお念仏のおはたらきとなって
綿々と受け継がれ私のところに届けられたということです。
この目には見えないけれども
私たちのご先祖有縁の仏さま無量の諸仏方が
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私のことを思ってくださり願ってくださり
ご一緒してくださるなかに
今日もお朝事のご縁をいただいたことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.19)
お寺参りのご縁に仏法聞かずに帰るのは何ともったいない!
2021-01-18
仏事は仏さまの事仏さまのご縁です。
お寺の法要行事であり
皆さんのお家でいいますと年回のご法事や月参り
そして有縁の方のお葬式です。
このお朝事も仏事仏さまのご縁です。
私たちの仏さまは阿弥陀如来さまです。
阿弥陀さまはすべての生きとし生けるものを
分け隔てなく必ず救う仏さまに成ってくださったという
南無阿弥陀仏のご法義み教えです。
阿弥陀さまがこの私をこそ救うというご法義です。
私のために開いてくださったお念仏のお救いなのです。
仏さまのご縁をいただけよ
阿弥陀さまのご本願を聞信して
お念仏申す身になってくれよとのお勧めです。
今日の御文章さまにもご縁に遇って信心いただけよと
蓮如上人のお心がひしひしと伝わってまいります。
ただこの私です。
仏さまのご縁に遇うことの難しさです。
お寺にお参りするのは仏さまのご縁に遇うことですが
お寺にお参りしても
仏法のご縁に遇わずじまいに帰る人を見かけます。
毎月常例法座のご縁に婦人会の皆さんに
清掃奉仕をしてもらいます。
このお掃除もまた仏さまのご縁なのですが
お掃除が済むとすっと帰られる方がいらっしゃいます。
多分用事があってお掃除の時間だけ都合をつけて
お寺に来てくれたのでしょう。
本当に有り難いことですが
もったいないなと思います。
一か月に一度のご法座のご縁で
お掃除の当番でいったら4か月に一度のご縁です。
お掃除に来られて仏さまのご縁です。
ご法座にお参りさせていただくご縁です。
ご一緒にお勤めをしてご法話聴聞させていただきます。
この私のために開いてくだださったご縁です。
お寺に参って仏法聴聞のご縁に遇わずじまいに帰るのは
何とももったいないことです。
信心いただきお念仏申す身にさせていただくのは
宿善まかせと今日の御文章さまにあります。
信をとれ信をとれという思いがあり
仏さまのご縁に遇ってほしいと勧めても
信心の行者にしてくださるのは
阿弥陀さまのお仕事なのです。
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞くことなく
どこまでも自己中心に自分の都合で生きている私たちです。
仏さまに背を向けるような生き方をしている者こそ
放っておけない見捨てないというのが阿弥陀さまです。
追っかけるように追っかけてきてお慈悲の中に摂め取り
南無阿弥陀仏のおはたらきで
御仏前に座らせていただくのです。
阿弥陀さまのご本願のお心に叶うことができているのか
親鸞さまが喜ばれるようなことができているのかと
お念仏申し南無阿弥陀仏のお心に引き当てて
日々日暮らしさせていただきたいものです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.18)
阪神淡路大震災から26年です
2021-01-17
阪神淡路大震災から26年になります。
四半世紀が過ぎて
町の佇まいや人々の暮らしは大きく変わりましたが
家を失い愛する人を亡くして失意と悲しみの中で
困難な生活をされている方が今もなおいらっしゃいます。
今のコロナ禍に重ねて思います。
震災後20日程して大阪から電車で神戸に入りましたが
川を隔てて大阪の町は人で賑わい普段の生活でしたが
神戸の町はライフライン水道ガス電気の復旧が十分でなく
不自由な生活を強いられてまるで別世界でした。
このたびのコロナ禍の困難な生活は世界中に及び
日本中どの場所でも感染防止対策が呼びかけられています。
この目に見えないコロナウイルスと向き合うなかで
緊急事態宣言が出されて生活面で様々な制約がなされ
我慢しなさいということです。
震災の時は我慢しなさいではなく
我慢するしかなかったのです。
食べるということの譬えです。
食べるものがないから我慢しなさいということと
食べるものはあるけれども我慢しなさいということです。
コロナ禍の状況は普段の生活は物理的には可能なのです。
食べるものはあるのですが我慢しなさいと言われるのです。
つらいですね。
どれだけどこまで我慢すればいいのかわかりません。
つい自分一人ぐらい我慢しなくてもという
甘い思いもでてきそうです。
政府専門家知事医療関係者から
「特に若い方にお願い」という発言がよく聞こえてきます。
若い方は感染しても症状が出ない重症化しないといわれ
現実は若い人の感染者が多く人と接触する機会も多くて
他に感染させるリスクも多いことが指摘されているのです。
これまでの経験知と科学的な立証で
新型コロナウイルスについて分かったことも多く
ワクチンの接種も始まりましたが
政府の感染対策も行き当たりばったりという感じで
いつ収束するのか見通しがたたず
まだまだ混乱の中に右往左往しているような現状です。
お釈迦さまは「人生は苦なり」とお示しです。
人が生きることは様々な困難が伴い
思い通りにいきません。
それは私一人の問題ではなく
生活ぶりがそれぞれ違う
私たちが生きる社会の問題でもあります。
多くの困難な状況の中から逃げ出すこともできず
私たちは困難に向き合って生きていかねばなりません。
苦しみ悩み迷う中で前に進むことができず
その場に立ちすくむこともしばしばです。
阿弥陀さまの本願念仏の救いのみ教えに
聞かせていただきます。
本願成就の南無阿弥陀仏のおはたらきで
すべてのものを必ず救うと教えます。
ナンマンダブツとお念仏を申して困難な状況が解決する
という教えではありません。
本願を信じお念仏申す身にさせていただくのです。
私一人だけでなくみんながお念仏申す身になって
みんなが共に生きる社会になることです。
浄土真宗の教章に
自他ともに心豊かに生きる社会を目ざしてとあります。
どこまでも自己中心に生きる私たちですが
お念仏申すなかに阿弥陀さまのお心を聞かせていただき
私にできる精いっぱいのことを
させていただきたいものです。
1月17日の阪神淡路大震災の日に思いを致し
コロナ禍の現実に向き合って
お念仏の日暮らしをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.17)
宗祖親鸞聖人の祥月御命日です
2021-01-16
今日1月16日は親鸞聖人の祥月の御命日です。
ご本山京都西本願寺では9日から今日16日まで
御正忌報恩講法要が例年通りお勤まりです。
ただ今年はコロナ禍で法要のあり方が随分違っています。
ご門主さま前門さまがご出座してのお勤めはいつも通りですが
昨日法要のようすをリモートで観ますと
内陣に出勤する僧侶や外陣で雅楽声明される讃嘆衆の僧侶も
間隔を広くとっていつもよりずっと少ない人数です。
そして全国各地から押し寄せるようにお参りされる
お同行ご門徒衆の姿がありません。
ご法話もリモートで全国の皆さんに届けるということです。
コロナ禍のなかで各地のお寺さんも様々な工夫をして
法要行事をお勤めされていると聞きます。
御正忌報恩講だけはお勤めさせていただこうと
浄土真宗門徒の心意気です。
中止ではありません。
宗祖以来綿々と受け伝えられてきたお念仏のみ教えです。
お念仏の伝灯を受け継ぎ後世に伝えていくお役目が
今を生きる私たちにあるのです。
阿弥陀如来の本願成就の南無阿弥陀仏のお心を聞かせて
他力の信心をいただきお念仏申す身にさせていただいて
お浄土参りさせていただきます。
お念仏相続するなかに
お念仏申す生活をさせていただき
お浄土への人生を共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.16)
糸の切れた凧
2021-01-15
テレビのニュースで幼稚園の園児が
凧あげをしている様子を観ました。
正月の子どもの遊びは
凧あげやコマ回し羽根つきが定番ですが
今は凧あげできるような広い場所がないこともあって
凧あげを見かけることが少なくなりました。
糸の切れた凧といいます。
凧あげといって凧が独りすっと空高くあがるわけではなく
凧に糸をつけうまく糸を操ることで凧があがるのです。
糸の切れた凧はそのまま風に吹き飛ばされて
どこかに落ちていってしまいます。
仏さまのみ教えに重ねて思います。
凧とはこの私のこと阿弥陀さまが操る南無阿弥陀仏の糸と
味わわせていただきます。
南無阿弥陀仏のおはたらきにつながった
阿弥陀さまと私です。
どこまでも自己中心に生きて苦悩し迷う私を
そのまま必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきです。
阿弥陀さまの願いを聞こうともせず
私は大空を自由に飛びたいと必死に頑張りますが
どんなに頑張っても大空に飛び立つことすらできません。
「我にまかせよ必ず救う」の南無阿弥陀仏の
お喚び声がかかります。
「はいおまかせします」と気づいたら
凧の私はそのまま南無阿弥陀仏の糸につながって
大空を舞っていたのです。
私が私がと何か自分一人の力で
頑張って生きてきた私でしたが
実はどんなときもいつも私につながって南無阿弥陀仏と
喚び通しに喚んでくださっていたのです。
糸の切れた凧は制御不能の状態の私のすがたです。
どこに飛んでいくのかわからない不安な私です。
旅に喩えるとさすらいの旅をしているようなものです。
風の吹くまま気の向くままと
さすらいの旅は自由気ままで格好よく憧れますが
風の吹くまま気の向くままといって
一体どこに行くのでしょうか。
旅の行く先も知らず大事なことは帰る処がないのです。
帰る家があるからこそ旅を楽しむことができるのです。
この人生の旅の行く先はどこでしょうか。
どんな人にも人生の旅を終える時が来ます。
阿弥陀さまはこの人の命終わって往く処を
お浄土と決めてくださって
南無阿弥陀仏とおはたらきなのです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲に抱かれて
いろんなことがあるこの人生の旅ですが
そのままお浄土へと生きて往けるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.15)