南無阿弥陀仏の言葉になった仏さま
2021-01-29
新型コロナウイルスのワクチン接種がいよいよ日本でも
医療従事者から順次行われることになるようです。
ワクチンを注射で体内に入れます。
注射と聞いただけで痛いと思うのが私たちのようで
そのことが一つ話題になっています。
今はイギリスをはじめアメリカや
西欧の国々で接種が始まっています。
ワクチン接種の映像が送られてきます。
見ると今度の注射は筋肉注射ということで
筋肉に届くように直角に注射を打っています。
私も毎年インフルエンザの注射を打っていますが
インフルエンザをはじめ日本の注射は
皮下注射といって直角ではなくほぼ斜めに打つ注射です。
イメージ的にどちらが痛いかというと
直角に打つ方でしょう。
実際に送られてきた映像では
顔をしかめて受けている人がいました。
この映像はあまり人に見せないでくださいと
専門のお医者さんが言って
今は注射針も進歩改善され極めて細くなり
殆ど痛さは感じないとまで言われていました。
注射は痛いという先入観固定観念です。
それは実際にこの身で経験した本当のことです。
小学校の頃何かの予防接種でしたが
ものすごく痛かったことを覚えています。
みんなも痛い痛いと言っていました。
そのトラウマでしょうか私は注射されるときは
注射から目をそらし軽く目をつむるようになりました。
最近は必ずといっていいほど
看護師さんが注射する時に「ちょっと痛いですよ」とか
声をかけてくれて少し安心するところがあります。
言葉です。
声をかけてくれて気持ちがつながります。
針を生身に刺すのですから多少なりとも痛いのです。
論理的には注射を打って痛いのは仕方ないから
我慢しなさいと説明はつきますが
「痛いね痛いね私もよくわかっていますよ」と
共感してくれる人にまかせられる安心です。
言葉の力です。
「痛いの痛いの飛んでけ」とお母さんがケガをした
子どもの傷口に手を当てて言ってくれると
ケガの状況は何も変わりませんが
何か安心して痛さが和らぐような感じになります。
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の言葉になった仏さまです。
南無阿弥陀仏は阿弥陀さまのお喚び声といいます。
阿弥陀さまの御木像や御絵像に耳をあてても
阿弥陀さまの口から南無阿弥陀仏と
実際に声が出ることはありませんが
南無阿弥陀仏と聞こえてくるのです。
今日も何度も何度も南無阿弥陀仏が聞こえてきます。
阿弥陀さまの声ですが
私の声でもあり隣の人の声でもあります。
お念仏申してお念仏の声が聞こえてきます。
「我にまかせよ必ず救う」のお喚び声です。
「いつも私が一緒だよ。安心しなさい大丈夫だよ」と
お念仏の声に励まされて今日一日も生かされて
生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.29)
阿弥陀さまは私たちの善悪を問いません
2021-01-28
今国会が開会中で国会審議の中継を観ていますが
いつもの与野党の駆け引きばかりが目に付いて
何とも厭な気持ちになります。
野党議員は二人の与党議員が緊急事態宣言下に
夜銀座のクラブに行ったことを問題にして
そんな議員が所属する与党が
国民に自粛を求めて
言うことを聞かない者には罰則を科すような
法律をつくる資格があるのかと追求します。
国民に選ばれた議員で構成される国会は立法機関で
様々な法律を審議し決定して施行します。
与党野党といって全ての議員が
国民から委託された国会ですが
与党は野党に言うだけ言わしておけという態度だし
野党は与党議員の言動を注視し
週刊誌報道や言葉尻を切り取って
その人を責め立てることに終始します。
国会は本来人間個々の言動の善悪を
互いにチェックする場ではありません。
緊急事態宣言下の国家の危機です。
今はコロナ感染拡大防止のために国として何ができるか
与野党を超えて互いに英知をしぼって審議する時です。
国民の生活と安全を守ると言われても
一体何をしているのかと思いたくもなります。
私たちの人間関係でいえば
あいつの言うことは絶対に聞かない
あいつの言うことには何でも反対するといったものを
国会にそのまま持ち込んでいるような愚かな姿に見えます。
今日もまたワイドショーで国会のことを取り上げ
コメンテーターが国民受けする気の利いた
思い思いのコメントを寄せると思いますが
そうしたワイドショーのコメントそのままに
野党議員が菅首相に対して
「あなたの言葉には力がない
そんなことでは国民がついていかない
本当にあなたは首相として大丈夫ですか」
と詰め寄った場面ではさすがに菅首相は
「私は首相として精いっぱいやっています。
悩みながらもやっています」と切り返しました。
誰しも先の見えないこのコロナ禍にあって
それぞれの立場で皆さん精いっぱいやっていると思います。
確かに人それぞれに個性があり
演説をさせたら素晴らしいパフォーマンスで
聴衆を引きつける人がいますし
言葉足らずといわれても地道に実績を重ねる人もいます。
菅首相は先の強烈な批判に
「それはあまりにも失礼ではないですか」と
いつになく感情を露わにしていましたが
気持ちはよくわかります。
同じ社会に生きる私たちです。
どんな人もいのちあるものは
みんなつながっているのであり
お互いに敬い合って生きることが
仏さまの教えの根本です。
私たち人間がすることで善いこと悪いことといっても
その善悪のものさしは私のものさし私の都合はからいです。
私たちの善悪は私の都合で
善かったり悪かったりするのです。
人それぞれで善悪のものさしが違うことを心に入れて
お互いの思いを尊重し合っていくことが
私たちの社会のあり方の肝要だと思います。
阿弥陀さまは私たちの善悪を問いません。
善いことをしなさい善いことをしたら救うと言いません。
悪いことをしたら救わない罰するとも言いません。
阿弥陀さまは私が生まれるずっと以前から
私のことを見て取って思うてくださり
南無阿弥陀仏となって私を喚び通しに喚んでくださって
「我にまかせよ必ず救う」とおはたらきなのです。
私もあなたもどんな人もみんな
阿弥陀さまの大きなお慈悲に抱かれてお互いに
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.28)
親鸞さまのお言葉は私の身近な法語です
2021-01-27
仏さまのお言葉を法語といいます。
お正信偈さまは親鸞聖人が書かれたものですが
私たちにとってはより身近な法語です。
とはいえ漢字ばかりですからそのまま聞いても
すっと耳に入ってくるというものではありません。
親鸞さまの当時も今の私たちと同じように
仮名交じりの日常会話でした。
歎異抄というお弟子の唯円坊が
書かれたといわれるお書物に
親鸞さまの常日頃の仰せがたくさん載っています。
同じお念仏のみ教えを聞かせいただく私たちにとって
大変身近な法語として温かくもまた厳しくも
聞こえてきます。
歎異抄第二条に関東からお弟子さんたちが命がけで
京都の親鸞さまをたずねてくる場面が記されています。
その目的はただ一つ親鸞さまに往生極楽の道を
聞かせていただくためだったのです。
まさに浄土真宗の肝要です。
当時関東のお同行の間でお念仏のお救いについて
様々な異義があって
その不審を直接親鸞さまに聞こうとされたのです。
親鸞さまのお答えは
「親鸞におきては ただ念仏して
弥陀にたすけられまいらすべしと よき人の仰せをかぶりて
信ずるほかに 別に子細なきなり」でした。
親鸞さまが常々仰せられてることで
その他のことは知らないと言うのです。
私は法然さまから「ただ念仏して阿弥陀さまに救われ
往生させていただくのである」と聞かせていただき
それを信じているだけだというのです。
浄土真宗の肝要は
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われるという
往生極楽の仏道のご法義です。
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
往生浄土の仏道を歩ませていただき
命終えて浄土に生まれ
南無阿弥陀仏の仏と成らせていただき
この世に還って来て
衆生を救うおはたらきをさせていただくのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
生かされて生きて往く仏道を歩ませていただくことに
ぶれがないのです。
私たちの日々の生活は
迷いの中にあって揺れ動いています。
そんな私をしっかり抱き取ってくださってある
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせお念仏申して
今日も一日往生浄土の道をご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.27)
阿弥陀さまのお仕事
2021-01-26
阿弥陀さまのお仕事は
南無阿弥陀仏のおはたらき一つです。
南無阿弥陀仏の大善大功徳を
私たちにあたえるお仕事一つです。
私たちの日常はいろんなことがあります。
思いがけないこともあれば
思い通りにならないことで悩み苦しみ迷います。
私の思いを成就したいと神や仏に祈願しますが
順調に人生がいっているときはどうでしょうか
神仏に背を向けたような生活ぶりではありませんか。
阿弥陀さまは自己中心の煩悩に振り回される私のことを
見て取って必ず救うと本願を起こし成就して
南無阿弥陀仏のおはたらきの
仏さまに成ってくださったのです。
自分の都合に合わせて
阿弥陀さまにたのむのではありません。
阿弥陀さまの「まかせよ救う」のおはたらきが
先手なのです。
「おまかせします阿弥陀さま」と
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかすときに
私はすでに阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
救われてあるのです。
阿弥陀さまの本願を疑う心を離れて捨てて
他力に帰せよというのです。
煩悩具足のこの身を生きる限りは
私が私がと思いはからい欲の心怒りの心愚痴の心が
次から次に湧き起こってまいります。
だからこそお念仏の声の仏さまとなって
私のところに来てくださり
口に称えさせ耳に聞かせておはたらきなのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申すことは
そのまま南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくことです。
「我にまかせよ必ず救う」のお喚び声に
「おまかせします阿弥陀さま」と
阿弥陀さまの大きなお慈悲に生かされて
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.26)
現生正定聚不退転の位に住す
2021-01-25
昨日大相撲の初場所が千秋楽で
西前頭筆頭の大栄翔が初優勝しました。
歳を重ねるにつれて相撲が面白くなり
大相撲のテレビ観戦が日々楽しみになってきました。
勝負が早くつき勝ち負けがはっきりしていることが
誰にでもわかりやすくてついつい観てしまいます。
ずっと外国出身力士の優勝が続いて
興味がそがれることが多かったのですが
最近は番付最上位の横綱不在の場所も多く
本当に一番強い力士がいなくて
誰が優勝してもおかしくない状況です。
初場所の優勝力士の顔ぶれを見ると
6年前に大関琴奨菊が
日本出身力士で10年ぶりに優勝を果たし
6場所続けて初優勝力士が誕生するということで
去年は幕尻の徳勝龍が優勝しました。
今回の大栄翔も平幕の力士ですが
大関関脇小結の役力士に全勝しての優勝です。
誰が勝ってもおかしくないというと面白いですが
大相撲には番付があって
番付通りの成績が期待されるところでもあります。
番付下位から上位を目ざして頑張れることですが
精進努力稽古を怠ると負け越して
下位に落ちるということで不安が伴う厳しい世界です。
ただ例外が横綱です。
横綱に上り詰めると下に落ちることはないのです。
だったら大安心ということですが
横綱にふさわしい成績をあげられなかったり
ケガや病気で休場が続くと後は引退ということです。
生身の体を張っての大変厳しい勝負の世界です。
体力の限界がいずれ来ます。
横綱にあがったものの責任を全うすることができず
引退に追い込まれた横綱もたくさんいます。
さて仏教は迷いの私が悟りの仏に成る教えです。
仏に成りたいと願いを起こした菩薩が
自ら修行し五十二段階の位を積み重ねていく成仏道ですが
ある段階までは上がっては下がりと
大相撲の番付のような難行苦行の仏道です。
それも仏に成りたいとも思わない私たち凡夫には
到底かなわない仏道であり
私たちは所詮救われないのかというと
親鸞聖人は法然聖人から
凡夫のために開かれた仏道があることを聞かれたのです。
それが念仏一つで救われて仏に成る仏道だったのです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでどんな人も救われる
阿弥陀さまの本願他力のみ教えです。
阿弥陀さまのご本願のお心を聞かせて信心いただき
お念仏申す身にさせていただくと
菩薩の最上位である弥勒菩薩と同じ位につくというのです。
この身を生きる限りは煩悩具足の凡夫に変わりませんが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
必ず仏に成るお念仏の仲間にさせていただき
お念仏申してお浄土への人生を生き抜き
この命終わってそのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて
南無阿弥陀仏の仏さまにさせていただくというのです。
今は現に仏ではありませんが
仏に成るいのちをいただいて生きているのです。
私たちはこの身を生きている限りは
仏さまからは遠い存在なのです。
俺が俺が私が私がと自己中心の煩悩の心を
ずっと持ち合わせて生きているお互いなのです。
阿弥陀さまはこの煩悩具足の凡夫をこそ必ず救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきの仏さまに
成ってくださったのです。
この私をこそ必ず救うとおはたらきです。
私が救われたいと思って
阿弥陀さまにお願いする仏道ではありません。
阿弥陀さまから見たら背を向けた私に
本願を信じ念仏申す身になってくれよと
願いおはたらきなのです。
私に頑張れとか何か条件付きのお救いではありません。
阿弥陀さまは私が救われていく全ての手立てを
南無阿弥陀仏に成就しておはたらきです。
そのご本願のお心おはたらきを聞かせていただき
お念仏申す身にさせていただくのです。
現生正定聚の位に住すといわれます。
不退転の位といい必ず仏にさせると
阿弥陀さまが決めてくださったといいます。
不退転の位ですから横綱です。
でも後は引退ではありません。
お浄土に生まれてさとりの仏さまに成るのです。
死んだらしまいではないのです。
仏さまに成って南無阿弥陀仏のおはたらきで
この世に還って来て衆生を救うという
大きなおはたらきがあるのです。
南無阿弥陀仏のお念仏一つで救われるご法義です。
「まかせよ救う」のお喚び声に
「おまかせします」とお念仏申して
今日一日も日暮らしさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.1.25)