南無阿弥陀仏の根っこにつながって共に生きる
2021-06-13
今日は仏教壮年会の例会で
朝早くから境内を掃除くださりありがとうございます。
ちょうど雨があがってよかったです。
いつもはこの後のミーティングでお話していますが
今月の法語カレンダーの言葉
「信心というのは 凡夫が 仏さまと同じ命を
共有するという 出来事」についてお話します。
何か新しい言葉の表現のように聞こえますが
浄土真宗のご法義を聞かせていただきます。
私たちのいのちのあり方です。
私たちは人の世に生まれこの命を生きています。
この命を私一人の命といただいて
隣の人の命と私の命は違うと受けとめていませんか。
お念仏のみ教えを聞かせていただくと
私たちのいのちは根っこのところで
つながっているというのです。
私という命の花をそれぞれが咲かせるといって
南無阿弥陀仏の同じ根っこにつながって
お念仏の花を咲かせるのです。
この身は煩悩具足罪悪深重の凡夫と言われます。
極悪非道な行いをする人を見て思うことはあっても
自分自身にそんな自覚はありません。
親鸞聖人は阿弥陀さまの真実の智慧の光明に
照らし出されたご自身を
煩悩具足罪悪深重の凡夫といただかれたのです。
私が救われる種の一つも何も持ち合わせていない
凡夫の身を見抜かれて
阿弥陀さまは必ず救うというのです。
凡夫の私にあれこれ注文して
救いの条件を付けるのではなく
阿弥陀さまの方で凡夫のこの私が救われる全ての手立てを
南無阿弥陀仏に成就してくださった教えなのです。
お念仏申すところもうすでに
南無阿弥陀仏の大きないのちのお慈悲のおはたらきの中に
生かされてあるというのです。
それは私一人だけのことではなく隣の人も隣の人も
みんな南無阿弥陀仏の大きないのちにつながってあると
聞かせていただきます。
今の救いです。
凡夫の身そのままの救いです。
悲しいことに私たちは凡夫の身を
生きていかねばなりません。
欲しい欲しいと欲の心をおこします。
思いがかなわないと怒りの心が出てまいります。
どこまでも自分中心に生きて真実本当のことに気づかない
愚かな私であります。
その凡夫の私が仏さまのご縁をいただいて
そのまま念仏申す身にお育ていただくのです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでこの世を生き抜き
人の命終えてそのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏のいのちにさせていただくのです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
そのまま聞かせていただきましょう。
南無阿弥陀仏の根っこにつながって共に生きるお互いが
人の命終わってこれからもずっと
南無阿弥陀仏につながって生きていくと
聞かせていただきます。
先に往かれた皆さんの大切なご先祖有縁の仏さまとも
共々につながって生かされて生きているのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申してくれよとのご催促です。
阿弥陀さまの方から「お願いだからわが名を称えておくれ
そのまま浄土に生まれさせ仏にさせる」と
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりの中に
お念仏申して「まかせよ救う」の
お喚び声を聞かせていただき
「おまかせします阿弥陀さま」と
御礼をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.13)

「お願いだからわが名を称えておくれ」と阿弥陀さまのご催促です
2021-06-12
今のコロナの時代を有事とか非常時と言われます。
菅首相は「国民の命と生活を守る」と繰り返し強調します。
有事とは国民の命と生活の安心安全に事ある
非常な事態のことで最も深刻な例が戦争です。
日常通常の生活が思い通りにならないことですが
この非常時に国民の生活を制限することにもなって
今は東京はじめ10都道府県が非常事態宣言下にあります。
私一人だけの問題ではありません。
国民みんなが思い通りにならない
このたびのコロナ禍の生活です。
私たちは人それぞれに思いをもって生きています。
自分の思いがかなったら幸せなのでしょうが
思い通りにいかなくて自分一人が不幸を背負い込むように
他を羨み憎み怒ることもあります。
仏法はありのままの私を
そのまま見せてくださる教えの鏡です。
私が私がとどこまでも自分を中心に
自分の思い通りに生きようと欲を張り
思いがかなわないと怒りの心を燃やし苦悩し迷う私を
仏さまは愚かな凡夫と見抜かれて放っておけず
すべてのものを分け隔てなく救うとご本願を建てられ
救いの手立てをすべて南無阿弥陀仏のお名号に成就されて
喚び通しに喚んでくださっていると聞かせていただきます。
万徳施名のおはたらきが私に至り届いたすがたが信心で
私の口からお念仏が出てくださるのです。
「お願いだからわが名を称えて聞いてくれよ」
とのご催促ですが
自分のことで生きることで精いっぱいの私は
阿弥陀さまに背を向けて頑張って生きています。
頑張れば頑張るほど心を固く閉ざし
周りが一層見えなくなる私を見て取って
この仏さまは決して見捨てることなく
いよいよ寄り添い見守って共に生きてくださるのです。
南無阿弥陀仏のお救いのおはたらきです。
「お願いだから南無阿弥陀仏とわが名を称えておくれ」と
お念仏申すところに「私がいるよ大丈夫だよ」と
阿弥陀さまがご一緒くださり
「あなたを必ず浄土に生まれさせ仏にさせる」と
おはたらきなのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.12)

家族葬という葬儀の簡素化です
2021-06-11
今日お葬儀のご縁をいただきます。
最近のお葬儀は決まって「家族葬です」と言われます。
何をもって家族葬というのか
いろんな家族葬のあり方があって違います。
家族だけの葬儀というなら
どこまでを家族というのでしょうか。
昨日のお通夜もこの前のお葬儀も
人数的には30人ほどの方がお参りして
一般的な葬儀のようでした。
多くのご親族がお参りでした。
親族も家族という範疇なのでしょう。
家族葬には一般の近所の方やお友だちのお参りは
ご遠慮いただくということを聞きます。
家族葬は内々の葬儀ということで
司会がないとか弔辞や喪主の挨拶がないとか
香典返しの御礼状や品がないとかなどなど
これまでの葬儀にあっていたものがないことが多く
それもそれぞれの家族葬で内容が異なります。
家族葬といわれる葬儀の簡素化です。
必要最小限の内容でなるべく無駄を省くことで
葬儀社も低料金の葬儀を競って宣伝しています。
私たち僧侶の目から見ても
数十年前の大人数の葬儀は必要ないものも多くあり
お弔問の方に気を使って
ご遺族のご心労もあった大きかったと思います。
家族だけで大切な方と最期の時間を
ゆっくり過ごすことに異論はありません。
葬儀の簡素化ということでいえば
今まで縁もゆかりもない葬儀社の斎場より
お家の御仏前で葬儀を行ったらどうでしょう。
お寺でのお葬儀もいいのではありませんか。
日常の生活の場を通して
お通夜のご縁で最後の夜を家族一緒に過ごし
葬送のご縁でお念仏申してお浄土に送るという
浄土真宗の葬儀の流れ意味です。
簡素化というなかで大事な葬儀の意味が忘れられて
家族葬という形にとらわれてしまっている
ような感じがします。
私たち僧侶の責任を思います。
日頃から浄土真宗の葬儀の意義を話してきたでしょうか。
仏事のことはお寺に聞いてくださいと言いますが
今は使い勝手のいいインターネットが重宝されて
お坊さんは相談しにくい存在になっているようです。
昨日のお通夜で気になったのは司会がいないことで
合掌するタイミングが分からないように思いました。
黒い礼服に身を整えた大人数の方々が
隣の人を横目で見ながら落ち着かない様子です。
僧侶の導師に合わせたらいいことですが
合掌しても中々お念仏がでません。
昨日はお勤めが終わって私の方から
「ご一緒にお念仏申しましょう」と言いましたが
お念仏の声は殆ど聞こえませんでした。
日頃からお念仏が身についていることの有難さです。
大切な方のお葬儀のご縁で合掌しお念仏申して
「大変お世話になりました。有難うございました」と
御礼ができるのです。
そして私たちのご法義でいえば
南無阿弥陀仏とお念仏を申すところに
先にお浄土に往かれた方が仏さまとなって
還って来られるという教えです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりの中に
大切な方とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただける
私たちの浄土真宗の葬儀のご縁の有難さ尊さを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.11)

私の遺骨の行方は?
2021-06-10
昨日別府の鶴見霊園で墓じまいの
お勤めをさせていただきました。
鉄輪から明礬に上がる所で
自然環境に恵まれた景色のいいところです。
緑が美しい扇山に連なる山々を背景に
おそらく数千基のお墓が並ぶ大きな墓苑です。
高度経済成長期に大きなお葬式が一般的に行われ
海の見える山の墓苑が注目されお墓を求められる方が
多かったのではないでしょうか。
お父さんとお母さんのお遺骨を取り出し
円光寺の納骨堂に納骨しました。
施主のご門徒さんは今は別府にお住まいで
別府霊園の方がお参りするのに実は近いのですが
見晴らしのよい墓苑はアクセス的には不便な所にあり
高齢で車の運転が難しくなれば
中々お参りしにくいというのです。
管理会社の方に聞くと最近墓じまいが多くなって
お寺や近くの納骨堂に改葬するところが
増えてきたというお話です。
お寺の納骨堂に預けたら大丈夫
安心ということでしょうが
お寺参りのご縁ができるという大切な意味があるのです。
少子高齢化社会になり
これからお仏壇やお墓を誰が見ていくかという問題が
個々のお家で様々に出てまいります。
まだ先の話と思わないで今から皆さんも
ご自分のこととして考えてみてください。
どんな人も命終えて死んだらおしまいではありません。
何も遺すものはないといってもご自分の遺骨は遺ります。
先日太平洋戦争の東京裁判で死刑になったA級戦犯の方が
処刑されて直ぐ火葬され東京湾上空から
海に散骨されたという報道がありました。
遺骨が遺って神格化されないようにということでした。
散骨したらどこにお参りしたらいいのかということです。
この目に見える形ではお遺骨であり埋葬されたお墓です。
私の遺骨の行方です。
お家のお墓に先に逝った家族と一緒に納骨されるといって
何百年も何千年もずっとというわけにはいきません。
お墓に納骨壇にお遺骨がいっぱいで
後に入らないという物質的な問題です。
皆さんの四代五代前のご先祖のお遺骨はどこにあるか
といってこの目で見ることはできません。
およそこの辺に埋葬されたと聞いても
どこにという所まで到底分かりません。
でも確かにご先祖はいました。
数を数えきれないほどたくさんのご先祖がいて
私が今ここに生きているのです。
私の命の大恩人のご先祖を偲ぶ縁の一つがお墓です。
お墓参りのご縁で仏法に出遇い
お念仏申させていただく有難さです。
昨日納骨堂にお遺骨を無事納骨し
お勤めし終わって安心されたのでしょう。
少し涙ぐんでいるようでした。
仏さまのご縁をいただく有難さを
ほっと安心して思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.10)

古い人間も新しい人間もみな共にお念仏につながっているのです
2021-06-09
今朝の大分合同新聞の「灯」欄のコラムから
「古い人間になりそうです」というお話です。
歳を重ねて段々と世の中についていけなくなったと
始まります。
パソコンやスマホが中心のネット社会になり
このコロナ下で私たちは古い人間といわれるようです。
今は現金を持たなくても日常生活に不便はないようで
コンビニの会計や駅の改札など
スマホで難なくスルーできます。
私などの古い人間はやはり手元に現金がないと
何か心もとない不安にかられます。
お金がこの目で見える安心です。
時代の大きな変わり目です。
コラムでは戦後価値観が180度変わる中で
欧米式の生活スタイルが入ってきて
日本人の暮らしぶりも徐々に変わり始めたとありました。
筆者は小学5年生で
周りの生活が見るからに変わっていく中で
明治生まれの親のいる家庭に
新しい生活が中々やってこなかったといいます。
そこでつい母親に「時代遅れの、旧式人間」と
言ってしまったことを思い出して
今自分も古い人間になったようで
親の思いが分かるようだというのです。
まだまだこれから世の中は変わって行き
私もどんどん古い人間になっていきそうです。
ただ今の新しい人間も古くなっていくのです。
古い新しいといって古い人間も新しい人間も
共に同じ社会時代に生きているのです。
生活ぶりは変わっても
人がこの世に生まれて生きて老いて病んで
死んでいくことに変わりはありません。
古いも新しいも共に生死の苦悩を抱えた迷いの凡夫と
阿弥陀さまは見抜かれて
「まかせよそのまま救う」と南無阿弥陀仏のおはたらきを
分け隔てなくしてくださってあります。
この同じ社会に生きている私たちは
南無阿弥陀仏に共々につながって生かされて生きていると
聞かせていただきます。
何か自分一人で頑張って生きているようで
実は私たちはみんな根っこでつながっているのです。
南無阿弥陀仏のお念仏のつながりです。
世の中のことはこれからも変わって行き
戸惑うこともたくさんありますが
私たちが生きる根っこのお念仏のみ教えは変わりません。
お釈迦さまから2500年の仏教伝播のなかで
親鸞さまから750年蓮如さまから500年の星霜を経て
今こここの私に届けられたお念仏のみ教えをいただいて
どうぞ皆さんの周りの方隣の人に
お念仏のみ教えを伝えてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.9)
