本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

ひっくりかえる

2021-02-08
 6時の梵鐘を撞きに玄関から鐘楼に向かう時
山門の左上空南東の方角に三日月が見えました。

 朝に月を愛でるのも一興です。
いつも注意して見ているわけではありませんが
ふっと目に飛び込んできます。

 一週間ほど前には鐘を撞いて鐘楼から玄関に帰る時に
西の空に満月がきれいに見えました。

 月は日々形を変えて動いています。
同じ場所からこの目で見るから
月が動いていることがわかるということですが
実はこの私も月も動いているんですね。

 地動説といって宇宙の惑星はみんな太陽の周りを
周期的に動いているのです。
 科学的に証明されることですが
昔は天動説といって地球を中心に太陽や月や惑星が
地球の周りを動いていると信じられていました。

 この目で見る太陽は東から昇り天上を動いて
西に沈んでいきますし
誰が見ても月も星も毎夜ある位置が違っていますからね。

 ただ地球自体が動いているということで
私たちの見る目が動いていたのです。

 16世紀にコペルニクスが地動説を唱え
17世紀にはガリレオ・ガリレイが
天文学で天動説を否定したのです。
 これに反発したのが当時の権威の象徴である教会です。
太陽を宇宙の中心とする地動説は
神を宇宙の中心絶対的なものとする考え方を
ひっくり返すものだったのです。

 「天と地と大地は神が創造した」という
聖書の内容を否定することで
ガリレオは宗教裁判にかけられ地動説は異端とされて
裁判の最後に「それでも地球は回っている」と
つぶやいたという逸話は有名です。

 天動説から地動説へと
ものごとの見方が180度変わってしまうことを喩えて
コペルニクス的転回といいます。

 太陽の周りを地球もその他の惑星も
全て動いているということで
仏教が説く諸行無常の法です。
 ありとあらゆるものは無常で常なるものは一つもない
常に移り変わっているという真理です。

 仏教はお釈迦さまが悟られた真実まことの教えです。
仏さまの教えは宇宙の法則道理なのです。
 お釈迦さまは宇宙の真実を悟られたのであり
創造されたのではありません。

 お釈迦さまは真実まことの仏の教えを人々に説かれ
お経さまとして後の世の私たちに伝えてくださっています。

 仏法に遇ってほしい真実まことの法を聞いてほしいと
私たちにお勧めです。
 日々変わり行くこの世の中にあって
自己中心のものの見方に固執し生きては苦悩し迷う私に
真実変わらない仏法を依りどころに
生きてくれよというのです。

 親鸞聖人は南無阿弥陀仏一つのおはたらきで
すべてのものが分け隔てなく救われる
お念仏の救いの法を明らかにしてくださいました。

 私が自力で学問修行を積んで悟りを開く仏道ではなく
阿弥陀仏のご本願のお心おはたらきにおまかせして
お浄土に生まれて悟りの仏に成る道です。

 自力の仏道から他力の仏道に
まさにコペルニクス的転回です。
 ひっくり返るのです。
私が私がという見方から仏さまがという見方に
ひっくり返るのです。

 冬の寒くて暗い朝だからこそ
月がくっきりは天上に見えます。
 月を眺めて天体ショーを楽しみながら
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲の中に生かされてある
お念仏申す身を有難く聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.8)


「やあ久しぶり!元気やった?」

2021-02-07
 昨日NHKの『ブラタモリ』は湯布院が舞台でした。
湯布院がどうして全国的に有名な温泉地になったのかが
テーマでした。

 鉄道という交通手段です。
江戸時代には大分別府から湯布院を経て日田福岡に行く
街道があったということです。
街道の交通手段は徒歩です。

 明治に入って馬車ができ馬車道が整備されます。
そして鉄道です。
 馬車道に沿うように鉄道が敷かれるのですが
今の湯布院駅を中心とした町には
街道も馬車道も通っておらず
そこで鉄道を湯布院の町に引き込んで駅ができ
人の往来が増えて今の湯布院の繁栄に
つながったということです。

 私たちの三佐の町もどんどん変わってきています。
大きな看板のニトリがもうすぐオープンです。
その前にアベタウンというホテルと飲食店の複合施設が
一昨日できました。

 現代の身近な交通手段は自動車で
縦横無尽に走る道路がある所が集客のポイントです。

 三佐は道路交通の要所です。
アベタウンは大分東警察署の跡地です。
 三佐田の交差点を起点に北は昭和電工へ南は鶴崎の町へ
東西には40Mと俗称される臨海産業道路が走っています。
 三佐は人がたくさん集まる
うってつけの便利な場所なのです。

 それで三佐は人が増えているようですが
実際に住んでいる人はそんなにいません。
 昔からの人もいるのですが
いろんなものができ人や車の出入りが多くなるなかで
旧知の人に会うことが難しくなりました。

 これからはアベタウンやニトリで「やあ久しぶり!」と
近所の人に会うこともあるのではないでしょうか。

 こうした賑やかな三佐の現状のなかで
お寺が埋もれた存在になっているように感じます。
 お寺は本来門徒さんだけでなく
地域の皆さんが寄り合う所でした。

 今のお寺は何かの時だけのお寺になってしまっています。
お葬式や法事の時にお願いするお寺です。

 仏教お念仏のご法義は死んでから後だけではなく
生きてる私たちのために開かれたご法義です、
 日常生活の中で皆さんが行き来できる所が
お寺なのです。

 お寺に参って「やあ久しぶり!」と
互いに声をかけ合うのもいいですね。
 私たちは皆さんそれぞれ生活ぶりが違いますから
一緒に何かを共同ですることは中々難しいです。

 だからこそお寺に参って
阿弥陀さまの前に座らせていただき
手が合わさってナンマンダブツとお念仏を申すなかに
横を向いたらお互いに「やあ久しぶり!元気やった?」と
声をかけ合いつながっていけるような
お寺が皆さんの居場所になっていきたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.7)


わが身のあり様が問われます

2021-02-06
 森さんの女性蔑視発言について
日本の組織社会のあり方を思います。
 東京五輪組織委員会のことですが
昨日の動きを見ていると組織を守るという流れが
大きく調整されたように感じます。

 森発言を受けて謝罪会見直後の
テレビ番組では
森さんは会長を辞めて裏側から五輪を支えることで
誰が会長辞任を迫るのかとの意見が続出しましたが
昨日の番組では
森さんは本当はいい人なんだ
森さんがいないと五輪はできなくなるといった
旧知の人たちの声が大きく取り上げられ
菅首相はじめ政府の関係者からも
謝罪をしたし一件落着という幕引きの様相です。

 ただ批判や反発の声は収まりません。
森さんと日頃関係のない一般の人たちです。
 SNSへの投稿を中心に世論です。
トップがこんな発言をする日本は
世界からどう思われているか
恥ずかしい辞任してほしいといった最大級の批判です。

 ただこのことを組織に持ちかえると
組織の自浄作用も吹き飛んで
いかにして組織を守るか維持していくかという
分別が見事なまでに早速はたらくのです。

 組織の誰もが関係者が
みんな黙り込んでしまいます。
 今回の森発言で会議の出席者に笑い声が起こり
その場で苦言を呈する人がいなかったといいます。
 森さん個人の問題も重いですが
それ以上に組織の問題です。

 森さんを担いでいる人周りの取り巻きです。
みんな敢えて発言しません。
 その場の空気に決して逆らわない
分別をもったわきまえた人たちです。

 ものを言わない言わせない会議は
ただの通過儀礼で到底会議の体をなしません。

 このお寺の組織についても反省させられます。
お寺を守るといって何を守るのかです。
 お寺の建物の護持もそうですが
第一に私たちのお念仏のご法義です。

 ご法義中心のお寺になっているか
阿弥陀さまのお心にかなったことができているのかと
お念仏に聞かせていただきます。

 往生浄土と阿弥陀さまが決めてくださったお念仏の道を
共々に歩ませていただく私たちはお念仏の同朋です。

 いろんな問題をかかえるこの現実社会にあって
お念仏申すなかに謙虚にわが身を振り返り
私にできる精いっぱいのことをさせていただくことです。

 果たして私のあり様はどうなのか
お念仏に聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.5)


「#わきまえない女」

2021-02-05
 東京オリパラ組織委員会森喜朗会長の
女性蔑視発言が波紋を広げています。

 女性が多い会議は時間がかかって前に進まない
そこはちゃんとわきまえてほしいという趣旨です。
 これまで何度も問題発言があった人ですが
昨日の謝罪会見は上から目線の物言いで
聞いていてとても嫌な気持ちになりました。

 さっそく日本国内海外でも大変な反響があり
SNSで「#わきまえない女」の投稿が
続いているといいます。

 わきまえるとは分別するということで
分別がある人間になって大人と言われたりもします。

 仏教はこの分別心を
自己中心のものの見方はからいとらわれ煩悩の心で
私たちの苦悩迷いの原因と教えます。

 何が善いか悪いか判断する分別ですが
自分の都合に合わせた善悪の判断で
分別するものさしが人それぞれで違うのです。

 私とあなたの関係でいうと
お互いの違いを認め合うのではなく
自分の都合で善悪を判断し
そこに偏見や差別が生まれるのです。

 仏教の智慧を無分別智といいます。
分別を超えるところに真実のものの見方があると説きます。

 私たちは人それぞれに人格をもち
一つ社会に生きています。
 お互いに違いを認め合い敬い合って
共に生きる社会でありたいと思いますが
自己中心に生きてお互いに傷つけ合い
生きにくい社会にもなります。

 コロナ禍でオリンピックの開催が危ぶまれるなかで
今回の問題です。
 今日もいろんな方が様々な意見を発信されると思います。
その人の立場や性別といった違いを超えて
皆さんが自分のことと考えてほしいと思います。

 分別がいけないことではありません。
私たちが生きるということは分別していくことですし
ただ自分の分別を相手に
押し付けるものであってはならないし
波風を立たせないように自分の意見を仕舞いこんで
分別しわきまえるようなことでは
また同じことの繰り返しで
結局は森発言を認めることにもなります。

 森発言で嫌なのは「人が言っていた」という言い方です。
あなたはどうなのか!
 うまく責任逃れしているような言い方ですが
森さんご自身の分別発言です。
 酒を飲みながら仲間内で話すことと
公の立場で場所で言うこととは違います。

 分別のある人ならわかりそうなことですが
発言の責任は重大です。
 自らの発言に対して
自ら分別をわきまえてほしいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.5)


コロナ禍でのリモート生活

2021-02-04
 コロナ禍で不要不急の外出自粛ステイホームが要請され
リモートという新しい生活様式が生まれています。

 会社に出勤することなく自宅で仕事をし
学校の授業も自宅で受けられるということです。
 ワーケーションといって観光地やリゾート地で
働きながら家族と過ごす生活も提案されています。

 都会から地方に移住する人も増えているといいます。
定年後に夫婦で人生の楽園を求めてということだけでなく
若い30代40代で家族で田舎生活をする人が増えています。

 今の生活を見直すということです。
東京首都圏では今の時間もうすでに自宅を出て
通勤通学の電車に揺られている方も多いと思います。
そして夜遅くまでデスクワークや営業など大変な仕事です。
体力的にも精神的にもすごいストレスがあるのでしょう。

 豊かな自然環境の中で生活面での不便さはあっても
自分たちの思い通りの生活ができるって憧れるところです。

 ただ私たちがどこに日暮らししようとも
この社会の仕組みは全てつながっていることを
コロナ禍の生活で思い知らされました。

 一つ不具合が出ればみんなが不具合になってしまう。
もうどうしようもないと言っていいほどの今の現状です。

 コロナ禍での私たちの生活です。
生活様式が変わりました。
 コロナが収束しても元通りの生活に戻るのか
甚だ不安です。

 私の立ち位置です。
生きる依りどころをどこにもつのかが
本当に大事になってきます。

 生活しないといけませんから
経済的な依りどころです。
 そして精神的な依りどころです。
揺れ動く心の支えです。

 日々変わり行く混沌とした時代にあって
真実まことの仏さまの教えを聞かせていただきましょう。

 お寺から仏教の発信です。
お寺のつとめお寺の存在理由です。

 お寺も生活があります。
今の生活をしっかり見つめるなかに
何ができるのか何をしなければいけないのか
お寺に私が生きてる意味が問われることです。

 皆さんとご一緒にお念仏のみ教えに
聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.4)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
0
5
4
0
2
2
TOPへ戻る