私たちの終活は宗教活動の宗活です
2021-05-30
終活です。
人生の終わりに臨んで死と向き合い
最後まで自分らしい人生を送るための準備で
終末医療のことや財産分与
そして葬儀やお墓のあり方などについてです。
70歳過ぎの団塊の世代の方のお話です。
団塊の世代は日本の高度成長期にあって懸命に働いてきて
定年を迎えこれからのことを考えるとき
自分の葬儀やお墓のあり方が気になるといいます。
自分が喪主になり父母を送った経験から
葬儀の大変さを身をもって知っているというのです。
少し前の話ですが大人数のお葬式が一般的でした。
現役の喪主の仕事関係のお参りが多く出費も大変で
大切な家族と別れを惜しむことが
ままならなかったといいます。
そこで自分の葬儀は子どもに迷惑をかけたくないと
とにかく安くて簡素なお葬儀ということで
家族葬という葬儀がこの十数年一気に多くなりました。
自分の葬儀は何でも自分で決めたら
遺った者も困らないだろうという配慮でしょう。
しかし故人の遺言通りに葬儀を行うお家もありますが
実際に葬儀をするのは亡くなった方ではなく
後に遺った者ですから喪主遺族の思いもあって
遺言通りにいくかわかりません。
終活のカウンセラーのお話です。
私の葬儀はこうしてほしいと常々家族に話をしておくこと
でも最終的には遺った者におかませするぐらいの気持ちで
終活を進めたらいいですよというアドバイスです。
人一人の一回きりの葬儀で
これまでにも色んなケースがあって
後から何でこんなことをしたのか
こうすればよかったと後悔することもあるそうです。
散骨については
海に散骨した後で故人をどう偲ぶ弔っていくのか
お墓参りや仏壇に手を合わすこともかなわず
どこにお参りしてどこに手を合わせたらいいのか
という話です。
長野から就職で東京の会社で働いて定年を迎えた方が
子どもは東京で生まれ育ったので長野に墓をしまって
東京の近くにお墓を求めたら子や孫もお参りしやすくて
いいだろうと子どもに相談したそうです。
ところが子どもは
「ぼくたちは東京で生まれ育って古里がないから
お墓のある長野を古里にしてお墓参りに帰るよ」と
言ってくれたそうです。
子どもは子どもで
考えてくれているんですね。
夫婦で宗教が違うというケースです。
夫は仏教で妻はキリスト教です。
妻が「あなたのお葬式はキリスト教でしてもいいね」
と聞いたそうです。
自分の思いはあっても葬儀は喪主が勤めるのですから
「あなたがそうしたいならそれでいいよ」と
夫は答えたいいます。
そして「でもどっちが先に逝くかわからないので
あなたのお葬式は仏教でいいね」と付け加えたという
ちょっと微笑ましい夫婦の会話ですが
中々話しづらいことですが
日頃から話しておくことが大切です。
そして私たちの終活は
宗教活動の宗活ということです。
阿弥陀さまのお念仏のみ教えに
聞かせていただくことが肝要です。
終活は死んだらどうなるのかというテーマで
死に向き合うことで実は今をいかに生きるかという
生死の大きな根本問題なのです。
誰もが生死するという私の問題ですが
他人事のようにしっかり向き合うことがなく
まだ先の話といってこの身の上にその時が必ず来ます。
仏法に遇わせていただくことは
生死の私の問題をお念仏のみ教えに
聞かせていただくことなのです。
「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のお救いの法に
私の生死をまかせてお念仏申す身にさせていただきます。
お念仏申す人生を歩み命終わる時にそのまま
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏に成り
この世に還って来て
人々を救う南無阿弥陀仏のおはたらきをさせていただくのです。
阿弥陀さまの大きなおはたらきの中に
あなたも私も先に往かれた方も共につながっていることを
今こここの私が聞かせていただくなかに安心して
お念仏申して今日一日も生かされていきてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.30)
私たちは南無阿弥陀仏のご法義につながった念仏家族です
2021-05-29
5年前の書籍を読み返しています。
葬儀法事やお墓のあり方に関することですが
家族の形態が急速に変わって
仏事のあり方も従来通りのことでは
考えられないという指摘です。
若い世代に「誰が家族か」と尋ねると
祖父祖母は「家族」ではないと答えるといいます。
つまり祖父祖母はおじやおばと同じ
「親族」という関係で捉えているというのです。
皆さんはどう思われますか。
祖父祖母は家族ですか?親族ですか?
今の家族の実態を象徴することだと思います。
祖父祖母と一緒に暮らしていないのです。
祖父祖母は父母の実家に居て
孫はお盆や正月に行くところなのです。
日頃の生活の中でのつながりがないなかで
おじやおばと同じ親族という見方になる
ということでしょうか。
おじやおばに似た関係であれば
葬儀に行くだろうか
墓参りに行くことはどうだろうかと
考えさせられます。
その結果亡くなった大切な方を
忘却するスピードが速まって
葬儀には参列しても墓を建てる守るという意識も
自然と希薄になるというのです。
今まで当たり前だった葬儀やお墓のあり方が
若い人の感覚では急速になくなっていってるといいます。
葬儀の現状を見ても今は特にコロナ禍で
家族だけの小規模な葬儀になって
孫ばかりでなく遠方の子どもも
親の葬儀に帰ることは殆どありません。
法事には孫の姿は見えません。
祖父母が元気な時は盆や正月に帰っても
葬儀や法事には「もう帰らなくていいよ」と
親が言うんでしょうか。
家族の形態はこれからも変わっていくといいます。
4年前の若い人の家族の見方が
私たちにも広がってきているのかもしれません。
血縁地縁という濃い人と人とのつながりが
ますます希薄になってきています。
葬儀法事のあり方が変わりお寺のあり方が変わります。
ここはお寺が変わるチャンスと受け止めて
お寺からこれからの葬儀のあり方や納骨事業の提案を
していきたいと思います。
私たちは南無阿弥陀仏のご法義につながった
念仏家族です。
今日の御和讃に
「超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ
十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す」
(超日月光が私に他力の念仏をお教えになった
すべての世界の仏がたはあらゆるものを
ひとり子のようにお哀れみになる)と
仏さまは私たち一人一人をひとり子のように
思ってくださるといただきます。
お念仏のご縁つながりのなかに
私たちはお互いに生かされ支え合って生きている
念仏家族で安心です。
これからは祖父母の家と親の家と子の家が別々で
生活もそれぞれ違うということも珍しくなくなります。
家族の形態は違っても
それぞれのお家の事情にあわせて
お念仏のみ教えをいかに伝えていくのか。
変わっていかねばならない
これからのお寺の大きな課題です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.29)
凡夫の身をそのままお念仏申す身にしてくださる
2021-05-28
3年後の2024年から学校の教科書が
デジタル教科書になるそうです。
デジタル教科書は紙と同じ内容をデータ化し
パソコンやタブレット端末で利用するものです。
紙の教科書が当たり前だった私たちの世代にして
今の学校現場は想像を絶するものがあるようです。
小さい頃からネット社会で育ってきた
若い世代の人にとっては
逆に紙媒体の旧来のあり方が機能的でなく
使いにくく生きにくい社会に映るのでしょう。
昨日思い立って過去のいろんな資料を
ほんの一部ですが整理しました。
断捨離です。
資料といって紙の山です。
殆どが何年もそのままにして
見ることがなかったものばかりです。
個人的な資料のファイルも沢山あって
これは個人情報としてしばらく取っておくとして
お寺関係の月刊誌新聞などがそのまま
埃をかぶって取ってありました。
紙媒体の最たるもので
公的なものはすべてデジタル化されて
パソコンやスマホで必要な情報は
すぐさま手に入る仕組みになっています。
日常的に無用の長物です。
それをこれまで大事に取っておくといって
置き場所も要るし邪魔になるばかりです。
ただ紙媒体で育った人間にとって
そうしたものが自分の生活の範囲内にあるだけで
何か安心できたのです。
ゴミに出します。
いくつもの紙の把ができました。
結局は身近に取っておいて読むこともなく
どんなに自分が大事にしていたものも
最終的には捨てられていくのです。
命終わって持っていくものは
何一つないのです。
少し整理ができてちょっとすっきりしました。
さてこの身のことはどうでしょうか。
これまでの人生の歩みのなかで
色んな垢や埃がしっかり染みついた
煩悩具足の凡夫の身です。
すっきりするどころか
いつも何かモヤモヤしたものを抱えています。
昨日今日と二日続けて
「南無阿弥陀仏をとなふれば」で始まる
現世利益和讃を拝読させていただきました。
自分の思い通りにいかない
凡夫の身を生きる私を目あてに
阿弥陀さまは「そのまま救うまかせよ」と喚んでくださり
凡夫の身そのままをお念仏申す身にしてくださる
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
お念仏一つで救われる浄土真宗のご法義です。
阿弥陀さまの方で私が救われるすべての手立てを
南無阿弥陀仏と成就して
お念仏申す身に始末してくださるのです。
お念仏申して今日の一日もお浄土への人生を
生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.28)
皆既月食は次のお楽しみです
2021-05-27
雨の中を皆さんようこそお参りです。
昨日の夜は皆既月食があると早くから報道があって
楽しみにしていた方も多かったと思いますが
残念ながら天気予報通りに曇りそして雨になって
大分では皆既月食を観ることができませんでした。
ただ東北地方では観えたようで
テレビで美しい皆既月食の天体ショーを
観ることができました。
皆既月食は満月がすっぽり地球の影に入ることで
数十分間欠けていく現象です。
世界各地の言い伝えのなかに
怪獣が月を食うと言われる話があって
怪獣を追い払う儀式が残っているといいます。
皆既月食だけではなく
大自然の現象営みは今始まったことではなくて
太陽を中心とした銀河系の宇宙ができて以来
人類が誕生するずっとずっと遠い遠い
遥か昔からのことです。
これらの現象を私たちの先人は
どう見られたのでしょうか。
親鸞聖人が生きた平安鎌倉時代にも
皆既月食があったと思いますが
今のような科学的な証明は全くありません。
満月が欠けることは不吉な現象で
天変地異もそうです。
台風が吹き荒れ長雨になって地震が起きて
疫病が起こるといったことです。
こうした天変地異が起こるのも何かの仕業と
不安に思い神仏に祈り疫病退散の修業を
したのでしょうね。
自然現象のことは現代は科学で解明されてきました。
こうしてこうしてこうだよと説明すれば
子どもでも分かることです。
昨日の皆既月食は3年ぶりのことで
この後は1年半後といいます。
過去のことも未来のことも分かるのです。
人間の知識の賜物科学の力です。
分かるから安心できるということです。
ただ人間の知識で分かるといって
宇宙全体の真理でいうと
人間が分かっているのはどれぐらいのことでしょうか。
ほんの僅かなことしか分かっていなくて
分からないことが殆どだと思います。
このたびの新型コロナウイルスのことです。
変異株が次々にできて
まだまだ分からないことばかりです。
早く収束してほしいと誰もが思いますが
これも分からない。
一年経ったら大丈夫と言われて
一年後が今のこの通りです。
そして一番といっていいほど分からないのが
人の心です。
心の中を覗き込むこともできませんが
こればかりは全くといっていいほど分かりません。
隣の人の心ばかりか
自分で自分の心が分かるかといって
ここが一番あやしいのです。
心ころっころっと何か微笑ましい言い方ですが
とんでもない。
心に何を思うのかその時々で瞬時に変わって
心に思うことが言葉になり行動になって
大変なことになってしまうこともあります。
自分の思いをそのまま相手にぶつけたら
それこそつかみ合いの喧嘩になったり
周囲のみんながスーッと
背を向けて遠ざかることにもなってしまいます。
人間とは人と人との間を生きる社会的存在で
人それぞれが自分の思い通りに生きようとすると
そこに人々の苦悩がついてまわります。
自分の思い通りにならないと怒り悩み迷う私がいると
ありのままの私のことを見抜かれた阿弥陀さまが
「まかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
私をそのまま受け入れ
寄り添ってくださる仏さまです。
自分中心のはからいにとらわれ
ああやこうやと思うなかに
人を傷つけ損なうことがたくさんあるお互いです。
逆に人の心を慮ってやさしい言葉をかけ行動するのも
また私たち人間です。
お念仏を申すとは阿弥陀さまの真実の鏡に
我が身をさらけだすということです。
我が身をそのまま照らし出し救うてくださるお心を
そのまま聞かせていただきましょう。
そして私にできる精いっぱいのことを
今日も一日させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.27)
「村八分」の裁判
2021-05-26
昨日中津の裁判所で
「村八分」の裁判の判決があったという報道です。
宇佐市の14戸の集落で十数年前に兵庫から実母の
介護でUターンした農業の男性が起こした訴訟で
自治区は男性が住民票を移していないのを理由に
構成員と認めず共同で「断交」を決議し
市報の配布や冠婚葬祭の連絡を中止したといいます。
判決は元自治区長らに「村八分」の扱いを受けたとして
損害賠償の支払いを命じ男性の訴えを認めました。
昔からの集落の中のことで何がそこで起こったのか
具体的には色々あってその見方も様々だと思います。
報道の文面だけでみますと
小さな集落という濃い人間関係で
人と人とが生活するなかで
「よそ者」扱いされ排除されたといいます。
今の時代にあって村八分という
実態が残っているのです。
「あんたと口を聞いたらみんなから怒られる」と
やさしく対応すれば今度は自分が村八分になると
学校のいじめに重なります。
学校のいじめ問題については
学校に行かなくてもいいとか
転校を指導することも多いと聞きます。
ところが生活の居場所の集落のことは
家族や仕事もあり一生そこで生活することが前提で
どこかに移住すればいいという話にはならないのです。
その集落で生まれ育った人が同じ集落の人から
よそ者と言われ排除され差別されるのです。
色んなことがあったということでしょうが
いたたまれませんね。
裁判で判決が下りましたが
裁判が本当に人間関係を修復する解決になるかというと
疑問です。
判決後男性は「地区は判決を真剣に受け止めて
行事や祭事への参加を認めてほしい」と話していますが
難しい問題が残ると思います。
今は何かといえば裁判で決着をつけるといわれます。
裁判は今の問題を一歩前に進める手段だとは思いますが
人と人との関係が改善されるのは
双方がお互いを敬い
真摯に向き合っていくなかでのことです。
人と人との関係が深くなればなるほど
愛憎も深くなります。
自分の思いを言葉に行動でぶつけたら
それこそ周りから人が引いていきます。
そこはお互いに押したり引いたりしながら
あまり波風を立てないようにうまくやってるわけですが
集団で人間関係を断絶するっておかしなことです。
愚かですよ。
人と人という個々の人間関係では
あいつは苦手だなあ嫌だなあという人がいますし
今までにもあったと思います。
ただ一緒に色々やっていくなかで
あいつは本当はいい奴だったと見方も変わるのが
自分を中心とした私たちのものの見方です。
仏さまから見ると本当に愚かな私ですが
そんな私が心配で心配で放っておけないのです。
何でそんなに我を張り意地を通さねばならないのって
相手も嫌だし自分も嫌でしょうと見てくださるのです。
阿弥陀さまはこうしなさい
こうしてはいけないとは言いません。
愚かな私のありのままを見抜かれて
そのまま救うとおはたらきの仏さまです。
南無阿弥陀仏とお念仏申して
阿弥陀さまのお慈悲に甘えなさいまかせなさいと
おっしゃるのです。
生きづらいこの世の中にあって
私のことを本当に思うてくださる方がいらっしゃると
私にできる精いっぱいのことをさせていただくなかで
人と人とのご縁つながりを大切にして
「人間に生まれて同じ集落に生きてみんなに会えて
本当によかった」と感謝して
命終える人生でありたいと思います。
村八分といって
八分の残りの二分は火事と葬儀の共同作業です。
村八分の家から火事が起こって放っておいたら
自分の家が延焼してしまいますから
火事は共同で消さねばなりません。
そしてお葬式です。
色んなことがあったけれども
最期はみんなで送っていきましょうと
集落のみんなが御仏前をはこんで
集落のみんなでお葬式をしたものです。
人間の情です。
自分中心に生きる愚かな私たちですが
仏さまのご縁にみんなつながってあることを
有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.26)