孫に連れられ御仏前に
2024-10-23
実家に里帰りした子どもさん家族の話です。
お家のお仏壇に一番にお参りするのが孫で
孫に連れられるように親である子どもがお参りすると
実家の祖父母が言われます。
孫が親を連れてお参りするって?
逆じゃないかなと思いますが
そういうことです。
さてこのお孫さん
初めてお仏壇にお参りしたのは
いつのことだったのでしょうか?
自ら進んでお仏壇にお参りするように
なったのではなく
誰かと一緒にお参りされたのではありませんか。
生まれて間もない赤ん坊の頃
両親や祖父母に抱っこされて
お仏壇に初参りしたのかもしれません。
お仏壇にお参りすることを身をもって教えられ
次第に身についたということでしょう。
浄土真宗のみ教えは
「信心正因称名報恩」といって
阿弥陀仏の他力の信心一つで救われるご法義で
称名は報恩お礼のお念仏といいます。
阿弥陀仏の他力の信心をいただく
「如来より賜る信心」といって
その大本は阿弥陀如来さまのご本願のお心
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲に生かされて
お念仏のご縁つながりのなかに
この私に届けられたご信心をいただいて
お念仏申す身にお育ていただいた有難さ尊さです。
お念仏の先人のよきお導きがあり
有縁の方々のお念仏申す後ろ姿を見て育ち
「一緒にお参りしよう!」と誘われて
ご本尊の阿弥陀さまに手を合わせ
お念仏申す身のしあわせです。
南無阿弥陀仏とお念仏申しましょう。
「まかせよ救う」のお念仏のお喚び声が
そのまま子や孫に有縁の人人に伝わって
お念仏申す人をお育ていただくのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.23)
「転」※転載
2024-10-22
石は水に沈む性質を持っています。
ですが、小舟にでも載せられると
沈むことなく
舟の着くところまで運ばれてゆきます。
この時、石が水に浮く性質へと
変わったわけではありません。
石自体はそのままに
置かれている場所が舟の上となり
水に浮くように転ぜられたといえるでしょう。
私たちの生活でも
転居をはじめ転向・転任・転業・転身などの
「転」が思い浮かびます。
自分の置かれる場が転ずるならば
転ずる前と転じた後の区別があり
年月が経つと
転じた先の環境によって
大きな変化がみられることでしょう。
阿弥陀さまは私たちに対して
煩悩を捨てよ
清らかな人格となって悟りをひらきなさい
とはおっしゃいません。
本質的に清らかになり得ない私を見抜いたうえで
「南無阿弥陀仏」といういわば舟に乗せて
そのまま救うとおっしゃいます。
仏教の教えに出遇えたからといって
たちどころに理想的な自分自身に
変身はできないでしょう。
しかし、
沈まぬ阿弥陀さまの舟に乗せられるということは
大いなる「転」です。
そんなご恩を
少しずつ気づけるような
日々といたしたく思います。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(本願寺派総合研究所 高田未明副所長)より転載
ー本願寺新報2024年10月20日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.22)
マイペースでできることを一つ一つ!
2024-10-21
月参りのご縁で
お勤めの後お家の方とお話をします。
炊飯器のスイッチを入れ忘れて
お仏飯の用意ができていませんでした
お仏壇の前に座布団を
出し忘れていましたなどと
「すみませんでした」と謝われます。
お盆に出された御布施も
「中身が入っているのか」何度も確かめないとと
「最近こんなことが度々あって不安です」と
言われます。
私と同年輩の奥さんで
5年前にお義母さんとご主人を相次いで亡くされ
これからのご自身のことが不安で
気になっているようです。
「私も忘れることってたくさんありますよ」と言って
「できることを一つ一つさせていただきましょう」と
お話しました。
若い頃は二つ三つ同時進行でできていたようなことも
今は何か用事をしに行った部屋に入って
「はて?何をしにここ(この部屋)に来たんだろう」と
用事を忘れることさえあります。
一つ一つ当面のことをしていくことで
忘れたら思い出すようにと心がけています。
先の例でいうと元居たところにかえって
ふと思い出すこともあります。
できることをできるときにすることで
自分一つで頑張るのではなく
近くの人に手伝ってもらうことも大事です。
ただ他の人から
「そんなこと忘れたの、大丈夫!」など言われると
落ち込んでしまうのが嫌で
一層自分のところで頑張ろうとする悪循環です。
時間がかかって効率が悪いなどと言われても
マイペースで自分にできることを一つ一つ
させていただきましょう。
お念仏申されるように生きましょう。
「一人じゃないよ。私がいるよ大丈夫だよ」と
いつでもどこでもどんな時でも
阿弥陀さまがご一緒です。
阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
共々に生かされて生きて
お念仏申して安心して
今日一日もできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.21)
重ねてお寺参りのお誘いです!
2024-10-20
「お寺のご縁にお参りしましょう!」と
ご門徒有縁の皆さんにお寺参りをお誘いします。
「はい!」と
お参りしてくださる方は中々いません。
「お寺参りして何か御利益があるんですか?」と
訊かれます。
「はい!」と
答えます。
「どんな御利益ですか?」と
重ねて訊かれます。
「仏法聴聞してお念仏申す身にお育ていただき……」と
お話を続ける中で
何か<もういいです!>といった表情が窺われ
「とにかく一度ご縁をいただいてください!」と
お話は終わります。
お寺参りしたらどうなるのか。
何かいいことがあるのか。
一般に神仏に祈願したら
病気が治るとか、商売が繁盛するとか
受験合格するとか
具体的なご利益を求めて
お参りする人が殆どのようです。
今は健康だし、商売もうまく行っているし
関係者に受験生もいないと
当面は神仏にお世話になることはないということで
お寺参りをされないのでしょうか。
浄土真宗の仏教のご利益は
仏法聴聞してお念仏申す身にお育ていただき
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」の
おはたらきに安心して
この人生を生き抜き
命終えて阿弥陀さまのお浄土に往生して仏に成ると
聞かせていただきます。
お寺参りして
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
救われるお念仏のご縁に遇わせていただくのです。
いつでもどこでもどんな時でも
阿弥陀さまがご一緒してくださる安心です。
どこまでも自分を中心に生きている私たちです。
自分の都合に合わせて当面の課題を
<よい・悪い>と二者選択し生きては
「よかった・悪かった」と右往左往して迷い
苦悩していると仏さまの見立てです。
仏法聴聞するとは
阿弥陀仏のご本願に遇って
生死の迷いのわが身の事実を知らせていただき
そのまま救う南無阿弥陀仏のお慈悲のおはたらきを
聞かせていただくのです。
どうぞお寺参りしましょう!
お寺参りがそのままお浄土参りと聞いて
お念仏申してこの人生の往生浄土の道行きを共々に
ご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.20)
楽しく遊んで!
2024-10-19
日本の野球とアメリカのベースボールの違いを
よく言われます。
一個の球を投げて打って走って守る
子どもの頃みんなが空き地で遊んでいた野球と
基本は同じだと思います。
大谷翔平選手の大活躍で
朝から大リーグ中継を観戦することが日常になり
日米の違いを意識するようになりました。
大谷さんがインタビューでよく言う
「野球を楽しむ」ことにヒントがあるように思います。
チームの勝利が最優先ですが
日本の野球は勝利のための自己犠牲が強いられ
アメリカは勝利のために自分ができることをするという
考え方の違いです。
監督の采配についても
選手にこと細かな指示を徹底する日本のあり方と
大事な局面での選手起用の差だったりします。
子どもの頃の野球をして遊んで楽しむという思いが
チームプレーを優先するなかで次第に選手から失われ
返ってプレッシャーに左右されることで
本来のプレーができないのではないでしょうか。
仏さまの南無阿弥陀仏のお救いのおはたらきは
遊びだと聞かせていただきます。
お正信偈に
「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死園示御応化」
蓮華蔵世界に至ることを得れば
すなはち真如法性の身を証せしむと。
煩悩の林に遊んで神通を現じ
生死の園に入りて応化を示すといへり。
(阿弥陀仏の浄土に往生すれば
ただちに真如をさとった身となり
さらに迷いの世界に還り神通力をあらわして
自在に衆生を救うことができる)
とあります。
「遊」は子どもが無心に遊ぶように
何ものにもとらわれないで
融通無碍に衆生を救う境地を
「遊戯(ゆげ)」といわれるのです。
私たちの日常生活においても
遊び心をもって生活したいものですが
いつも何かに縛られとらわれて生きるなかに
本来のいのちの輝きが失われているようです。
阿弥陀仏は不自由不自在な私を見抜かれて
「われにまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
お念仏申してこの人生を楽しく遊んで
生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.19)