単独世帯の増加のなかで
2024-11-14
少子高齢化社会にあって非婚者や離婚者の増加で
一人暮らしの単独世帯が増え続け
2050年推計で27都道府県で40%の見通しになることが
公表されたということです。
65歳以上の高齢単独世帯は
32道府県で20%超になるといわれ
福祉や介護医療の支援、貧困や防犯対策について
地域での取り組みが
これまで以上に必要になるとの指摘です。
地域の中のお寺のあり方です。
高齢単独世帯でお葬式があると門徒が一戸減ると言われ
これからのお寺の護持は一層難しくなります。
人口減少と地方から都市部への人口移動は
現代社会の自然動向でどうしようもないことですが
お寺とご門徒の関係でいうと
門徒の減少をただ手をこまねいて
見ているだけでいいのでしょうか。
故郷の実家に住む人がいなくなり
仏壇じまいや墓じまいの話を
よく聞くようになりました。
お家の後継者が誰もいない場合はともかく
後継者がどこかに住んでいれば
お寺とのつながり関係は
ご法事のご縁でこれからも続いていきます。
故郷のお寺が遠方にあれば
近くの全国至る所にある同じ宗派のお寺に頼んで
ご法事のお勤めを続けることもできます。
私たちの宗門組織内のことでいうと
お寺間の連携でできることがありますので
後継者の思いを聞いて
お寺から提案をさせていただき
今後のお寺とのご縁つながりを
はかっていきたいものです。
昔のような家制度がなくなり
核家族が一般的になって
家族のあり方がこれからも変わって行くなかで
家を中心としたお寺と門徒檀家の関係も変わって
家の宗教から個人の宗教になっていくという現実です。
私とお寺との関係です。
葬式法事の喪主施主になることで
はじめてお寺とご縁をいただくことになります。
お寺のご縁は私たちのご先祖有縁の先人が
お家のお仏壇を護りお墓をお守りして
お念仏のご法義を私たちに伝え届けてくださった
お念仏のご縁つながりに依ります。
葬式法事のご縁に
先に往かれたお念仏の先人の願いをたずねて
お念仏のみ教えに遇っていただきたいものです。
どんなことがあっても決してあなたを見捨てない
阿弥陀さまのご法義お念仏のお救いのみ教えを
私ごとと聞かせていただき
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
これからも共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.14)
お寺参りのバリア!
2024-11-13
有縁の方にお念仏のご縁に遇ってほしいと
お寺参りのお誘いをしたら
「お寺に参って何かいいことがあるの!」と言われて
断られたというお話です。
目的や意味がわからないものへの
拒否反応でしょうが
重ねて「お寺参りなんてあんたも好きやね
ひまやね」などと言われると
少し穏やかではありません。
お寺参りして仏法を聴くことを
何かただの趣味や時間の暇つぶしにでも
思っているのでしょうか。
自分が良いと思うことを
相手にすすめることの難しさですが
ご縁に遇うことの難しさです。
お寺のご縁に何度かお誘いして
それこそやっとの思いでお参りされた方が
「本堂に入った途端に周りの人の目が気になって
ここは私が来るところではないと思った」と言われ
それから一度もお参りされないようになりました。
お寺にはバリアがあります。
お寺参りを妨げる障壁です。
建設構造上のバリアの代表が階段です。
幾段もの階段を乗り越えてこそ
さとりへの道があるとでもいうのでしょうか。
今はバリアフリーで
車いす対応のスロープのあるお寺や
本堂は椅子を常設しているところが多くなりました。
どんな方でもお寺参りして
仏法聴聞してほしいというのが
仏さまの大きな願いですが
現実はお参りしにくいお寺になっているようです。
私たちの意識の中のバリアです。
お寺はご本尊の仏さまが中心ですが
私たちの意識は仏さまの方を向くより
きょろきょろ横を向いたり後ろを向いたりしています。
「あの人はどこの人、門徒の人?」などと
色々詮索しては互いに傷つけ合うような
小さな狭い人間の心の中のバリアです。
あなたにとってお寺参りのご縁は
いつどんなご縁で始まりましたか?
家族親族の葬式法事のご縁であったり
お寺の役職についたご縁であったりと
さまざまでしょうが
今ここ御仏前に座らせていただいたことを
そのままお念仏のご縁といただきましょう。
南無阿弥陀仏のご縁は
私がどうこうしてつくったご縁ではありません。
阿弥陀さまが生死の迷いに苦悩するこの私を見抜かれ
「必ず救うまかせよ」と
ご本願をたてられお念仏を成就され
いつでもどこでもどんなことがあっても
私に寄り添いおはたらきくださってあると
聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏のおいわれをそのまま聞いて信じて
阿弥陀さまの仰せにおまかせする
ただそのことだけでいいのです。
お寺参りも阿弥陀さまが
先手で誘ってくださっているのです。
私たちはそのお手伝いをさせていただくばかりです。
まだお寺にご縁のない方も
あなたも私も皆共に阿弥陀さまのお慈悲の中に
生かされて生きているのです。
お念仏申して南無阿弥陀仏のお心にかなう
私にできるお手伝いをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.13)
「これでよろしいですか?」
2024-11-12
年に一度の健康診断に行きました。
この日に向けて規則正しい食生活を心がけ
少し緊張感をもって臨みました。
色々と検査測定される数値をもとに
標準値や前回の数値と比較して
現状の健康相談です。
身長体重そして腹囲と続きます。
すぐさま数値がわかりますが
身長は低く体重は増えて
腹囲はかなり太っていました。
「これでよろしいですか?」と聞かれました。
私の気持ちを慮ってでしょうか
<測り直しましょうか>と言われたようで
「はい大丈夫です」と答えると
診断書に数値が書き込まれました。
数値に忖度はありません。
測定されたそのままが数値となって表れるだけです。
阿弥陀さまの本願念仏のお救いは
生きとし生けるすべてのものを分け隔てなく
「われにまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
私の思いに配慮して
「これでよろしいですか?大丈夫ですか」と
私に同意を求めて救うのではなく
一方的に阿弥陀さまが先手のお救いです。
ありのままの私のすべてを見抜いて
そのまま救うとおはたらきです。
不請之友(ふしょうのとも)といいます。
「あなたが請わずともあなたの友となる」と
阿弥陀さまはいつでもどこでも何があっても
この私に寄り添いご一緒してくださるのです。
摂取不捨のお救いです。
親鸞さまはご和讃に「摂取」のお心を
「ひとたび取りて永く捨てぬなり」
「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」と
示してくださっています。
阿弥陀さまのお心に気づくことなく
背を向けて自分中心の思いはからいで生きて
苦悩し迷っているものを
どこまでも追いかけそのまま救うとはたらき続け
摂(おさ)め取って決してお捨てにならないというのです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心おはたらきのなかに
お念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.12)
「能ある鷹は爪を持たない」※転載
2024-11-11
現代はインターネットなしでは
生活できないようになった一方で
相手を責める言葉がネット上を飛び交い
自ら生命を絶つ人もいます。
いわばネットでは無数の爪で
互いに傷つけあっていると言えます。
さて『雑阿含経』に
次のような話があります。
ある時、他の宗教の若者がお釈迦さまに
罵詈雑言を浴びせました。
でもお釈迦さまは
ただ静かにしておられました。
やがて若者が言い終わった時
お釈迦さまは
「あなたは祝日に親戚の人を招いて
ご馳走をすることがありますか」と聞かれました。
若者が「あるよ」と答えると
続けて次のような問答がなされました。
「親族があなたが出した食べ物を
食べなかったらどうしますか」
「残るだけだ」
「私もあなたの暴言を受け取らなければ
その暴言は誰のものですか」
「それなら何を受け取ったと言うのか」
「その悪口に反応することが受け取ったということです。
だから私はあなたの暴言を受け取っておりません」と。
お釈迦さまは爪を持っておられないのです。
「能ある鷹は爪を隠す」のではなく
「能ある鷹は爪を持たない」が
仏教の世界なのだと思います。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(中央仏教学院 福間義朝院長)より転載
ー本願寺新報2024年11月10日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.11)
二人のご縁
2024-11-10
今日は月一度の日曜日のあんのん館のご縁です。
いつもは第三日曜日のご縁ですが
お寺の行事と重なって
今月は第二日曜日です。
今日はちょうど地区の行事と重なって
毎回お参りの方がお参りされず
結果一人のお同行のお参りでした。
あなたと私の二人のご縁です。
私一人ではお休みになるところでしたが
おかげで仏さまのご縁に遇わせていただきました。
いつものご縁のように
ご一緒に音楽礼拝のお勤めをし
ご法話お取り次ぎをさせていただき
コーヒー・ジュースとパンをいただきながら
法味愛敬のご縁をいただきました。
お念仏相続のご縁です。
あなたと私で尊いご縁をいただける有難さを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.10)