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お念仏を申す生活法話

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古賀稔彦さん

2021-03-25
中庭から本堂の大屋根を望む(2021.3.24.9:00)
 柔道の古賀稔彦さんがお亡くなりになりました。
平成の三四郎といわれて国民的な人気のあった柔道家です。

 柔道といえば姿三四郎
山嵐を得意技とし柔よく剛を制す柔道の極意を体現して
大男をバッタバッタとなぎ倒す小説上の人物です。

 子どもの頃「柔道一直線」という
テレビドラマをよく観ていました。
 こんなことができるのかといったフィクションも含めて
痛快な柔道の技に見入ったものです。

 その姿三四郎を彷彿させるように
切れ味鋭く一本背負いを決める古賀選手の柔道人生で
これからも語り継がれるであろう
1992年バルセロナオリンピックで直前に大けがをしながら
勝ち取った金メダルに日本中が歓喜したことです。

 柔道は柔の道です。
剣の道は剣道でスポーツだけではなく
茶道華道香道とみんな道と書きます。

 仏教も仏道といいます。
仏道修行といい仏道を歩むといいます。
 求道といって道を求めて道を究めるのです。
誰がといってこの私です。

 それは人生の道であり
人それぞれが歩む道です。
 私の前を行く先人有縁の方々から
いろんなことを学び私の人生の道を歩んで行くのです。

 急な訃報を聞いた関係者のコメントに
古賀先輩のバルセロナの金メダルを見て
柔道を志し育てられた後輩が
たくさんいることを知りました。

 柔道に縁のない人も感動し
それからの人生の道しるべにした人も多いと思います。

 がんの病気で最期は懐かしい家に帰って数日後
家族に看取られていったということです。
 佐賀に住むお母さんは
病気のことは聞いてなかったということで
古賀さんが亡くなったニュース速報を
自宅のテレビで観る姿がありました。

 
 「いうことないよか息子」とお母さんのコメントです。
親でありながら子どもから多くのことを教わりましたと。

 いや親から教わったことですよ。
お母さんからオギャアと生まれて
両親をはじめいろんな方々のお育てをいただいて
そして今の私があるということです。

 南無阿弥陀仏の仏さまの大きなお育てをいただいて
私たちはお念仏の道を歩ませていただきます。
 柔道の花が背負い投げなら
私たちが歩く仏道の花はお念仏です。

 お念仏を申すなかに限りある人生ですが
大きな大きなお念仏の花を咲かせてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.25)


仏凡一体の浄土真宗のご法義です

2021-03-24
3月24日午前9時境内の枝垂れ桜がただ今満開です
 境内の枝垂れ桜が満開です。
今日は小学校の卒業式だそうです。

 満開の桜のもとで入学式といいますが
今年は桜の開花も満開もいつもより大分早く
散るのも早いようです。
 今年の入学式は葉桜のもとでということに
なるのでしょうか。

 仏凡一体といって
仏さまと凡夫が一体という私たちの浄土真宗のご法義です。
 親鸞さまはご自身を
煩悩具足の凡夫といただかれました。
凡夫の身を生きる限りは仏に成ることはできませんが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
凡夫がそのまま仏に成らせていただけると
聞かせていただいたのです。

 阿弥陀さまのご本願のお心を聞かせて信心いただき
お念仏申す身にさせていただくのです。
 ご本願のお心はすべてのものを分け隔てなく救う
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 すべてのものと聞いてこの私のことです。
分け隔てなくというのは一つの条件もなく
そのまま救うというのです。

 善いことをしなさいと条件を出し
善いことをしたから救うという仏さまではないのです。
 善いことをしなくていいのではありません。
精いっぱい自分にできる善いことをしてください。

 ただ善いことをしようと思っても
私が私がとどこまでも自分中心に生きて
自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいで
苦しみ悩み迷う私を阿弥陀さまが見抜かれたのです。

 阿弥陀さまの救いの目当てはこの私だったのです。
この私を必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきで
ご本願を信じお念仏を申す身にさせていただくのです。

 凡夫の身がそのままお念仏申す身となって
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされてあるのです。

 今満開の桜の花もいずれ必ず散っていきます。
ただ大丈夫安心しなさいと
大きないのちの大地がそのまま受け入れてくれるのです。

 お念仏申してそのまま来いよと
南無阿弥陀仏のお喚び声です。
 南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
必ずお浄土で仏に成らせていただくと
お念仏申して凡夫の身を
今日も一日生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.24)


ご法事をお勤めさせていただく有難さ

2021-03-23
 昨日ご法事がありました。
平日ですが祥月命日のご縁です。

 17回忌です。
お勤めの後でご法話お取り次ぎをさせていただきますが
いつもご法事のご法話は
「今日は17回忌のご縁です。
この前が13回忌でしたから4年が経ちました。
この後は25回忌ということで8年後になります」
というお話で始めます。

 ご法話の後でお茶をいただきます。
昨日のご縁でお参りの方が
「8年後ってどうなっているかな」とふと言われました。

 私と同年輩ぐらいの人ばかりで
皆さんちょっとはっとしたようでしたが
8年後のことは誰も分かりません。
 8つ歳を重ねて元気でいるのか病気になっているのか
亡くなっているかもしれません。

 考えてもどうしようもないことですし
考えすぎると不安になることでもあります。

 無常のいのちを生きているということです。
私のいのちであっていろいろ思ってみても
思い通りにならないこのいのちなのです。

 8年後の25回忌のご縁は決められていますが
どのようにご法事をお勤めできるかはその時のご縁です。

 ただ今日も仏さまのご縁で御仏前に座らせていただき
この口からお念仏が出てくださいます。
 南無阿弥陀仏のご縁につながっていることは
これからも8年後も確かに変わらないことだといただきます。

 私たちのいのちのあり方は変わって行くけれども
真実変わらない南無阿弥陀仏のいのちをいただいていることに
ほっと安心できます。

 南無阿弥陀仏のご法義は
死んだらおしまいではなくて
私たちはどこまでも南無阿弥陀仏の大きないのちに
つながってあると聞かせていただきます。
 
 お念仏のご縁つながりです。
日々自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいの
私たちお互いですが
ご法事のご縁で先に往かれた方をたずねて
この口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださいます。
 
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりの中に
先に往かれた方もご一緒に私たちの日々の生活
今日の一日があるのです。

 今日はお彼岸の最終日です。
この時期三寒四温といって今朝はちょっと寒かったですが
寒いなかにも段々と温かくなって本格的な春を迎えます。

 このお朝事のご縁の間にも太陽が昇り
本堂が光あふれて明るくなりました。
 今日の一日もお念仏を申すなかに
私にできることを精いっぱいさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.23)


「明日ありと 思う心の あだざくら 夜半に嵐の 吹かぬものかは」

2021-03-22
 昨日からずっと大きな風が吹いています。
昨日もそうでしたが
今朝もお仏飯をお供えするのに本堂に入ると
本堂のガラス戸がガタガタ音を立てていました。
(注/実は本堂の外の戸が開けっ放しになっており
 お朝事同行のMさんが気づいて閉めてくださいました)

 心配だったのは咲いたばかりの境内の桜の花のことです。
この大きな風でゆっくり花見ができないままに
早々に散ってしまっているのではないかと思って
6時の梵鐘を撞きに外に出て見たら
風が吹くなかにもしっかりお花がくっついていました。
 しばらくお花見ができます。
安心しました。

 全国的に今日も一日風が強いようです。
桜といえばはかない無常のいのちを思いますが
咲いたばかりの桜はそう簡単に散ってはいきません。
いのちのたくましさをまた思います。

 親鸞聖人がお坊さんになる出家得度をした
9歳の頃のお話です。
 夕刻差し迫って暗くなる中周りの者が
出家得度の剃髪の儀式を明日にしませんかと
勧められたときに
「明日ありと 思う心の あだざくら
 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
と歌を詠まれてその時に剃髪されたというお話です。

 明日がある明日があると思っても
夜間に大きな風が吹いて明日の朝には
満開の桜も散ってしまうかもしれないということです。

 私たちのはかないいのちです。
明日があると誰しも思いたいですが
明日があるという保証はどんな人にもないんですね。
 確かなことは今を生きていることと
教えてくださるのが仏法なのです。

 仏法に遇うことは
有ること難いことなんだよとのお示しです。
 明日でもないし昨日でもなかったのです。
今日ただ今のいのち仏法に遇うことの有難さです。

 今まさに阿弥陀さまの大きなお慈悲のお救いの中に
生かされてあることを喜ばせて生きるなかに
本当の意味での私たちの明日があるのです。

 阿弥陀さまのお浄土です。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで生まれ往く
私たちの彼の岸お浄土です。

 春のお彼岸の最中です。
お浄土を憶いつつお念仏申して
今日も一日生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.22)


雨の日の納骨はいけないのですか?

2021-03-21
 昨日から雨が降ったり止んだりです。

 昨日夕方電話があって
「ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」
ということでした。
 お寺のホームページをみて
電話をかけてきたそうです。

 今日納骨をする予定で
雨の時に納骨したらよくないと聞いたのですが
本当でしょうかという問い合わせでした。
 名前もお聞きすることもなく
そのままお応えしました。

 親鸞聖人は御和讃に
「かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ
 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」
(悲しいことです。
 この頃の出家者や在家の者は
 日時の善悪・吉凶を選ばさせて、天地の神々を崇拝し
 占い・祭祀にはげんでいます)
とお示しです。

 仏教は日の良し悪しをいいません。
そうしたものにとらわれはからうところに
私たちの苦悩迷いの原因があると説かれます。

 浄土真宗は弥陀一仏の救いの法で
阿弥陀如来をたのむ一念に
お念仏申す身にさせていただくのですから
深く因果の道理をわきまえて
現世祈祷やまじないを行わず
占いなどの迷信にたよりません。

 電話ではそこまでのお話はしなくて
「そういうことは言いませんよ」とだけ言って
仏事のことはお参りしていただくお寺の御住職に
相談したらいいですよと言いました。

 同じ仏教でも宗派によってまたお寺の住職によって
言い方もいろいろあると思います。

 多分地域の周りの方が雨の日の納骨のことを言って
言われたら気になるのが私たちですから
聞かれたんだと思います。

 私もそのようなことをどこかで聞いたことがありますし
逆に雨の日の納骨が良いという話も聞きました。
 良い悪いと誰が言っているのかといったら
自己中心のものの見方考え方にはからいとらわれて
悩み苦しみ迷っている私です。

 そうした私を全てご承知の上で阿弥陀さまが
「あなたの命そのまま引き受けた。まかせよ救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきなのですから
「おまかせします阿弥陀さま」とお念仏申すばかりです。

 良い日も悪い日もありません。
確かに何かある時には晴れた日を望むのが私たちです。
でも雨の日もありますって。

 人生においてもそうです。
順風満帆な晴れの日を思いますが
波乱万丈といった強い風雨の日もありますってことです。

 お念仏申す日暮らしのなかに
雨の日には雨の日の生き方があるよと
いつもご一緒してくださる南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 お念仏のお心み教えを聞かせていただきましょう。

 一回聞いて分かったではありません。
何回聞いてもウロウロ迷っている私です。
 だからお念仏申せよの思し召しです。
お念仏申すところ
「私がいるよ大丈夫だよ」のお喚び声に安心して
私たちの彼岸阿弥陀さまのお浄土への人生を
生きて往けるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.21)


円光寺
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