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お念仏を申す生活法話

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わが身のあり様が問われます

2021-02-06
 森さんの女性蔑視発言について
日本の組織社会のあり方を思います。
 東京五輪組織委員会のことですが
昨日の動きを見ていると組織を守るという流れが
大きく調整されたように感じます。

 森発言を受けて謝罪会見直後の
テレビ番組では
森さんは会長を辞めて裏側から五輪を支えることで
誰が会長辞任を迫るのかとの意見が続出しましたが
昨日の番組では
森さんは本当はいい人なんだ
森さんがいないと五輪はできなくなるといった
旧知の人たちの声が大きく取り上げられ
菅首相はじめ政府の関係者からも
謝罪をしたし一件落着という幕引きの様相です。

 ただ批判や反発の声は収まりません。
森さんと日頃関係のない一般の人たちです。
 SNSへの投稿を中心に世論です。
トップがこんな発言をする日本は
世界からどう思われているか
恥ずかしい辞任してほしいといった最大級の批判です。

 ただこのことを組織に持ちかえると
組織の自浄作用も吹き飛んで
いかにして組織を守るか維持していくかという
分別が見事なまでに早速はたらくのです。

 組織の誰もが関係者が
みんな黙り込んでしまいます。
 今回の森発言で会議の出席者に笑い声が起こり
その場で苦言を呈する人がいなかったといいます。
 森さん個人の問題も重いですが
それ以上に組織の問題です。

 森さんを担いでいる人周りの取り巻きです。
みんな敢えて発言しません。
 その場の空気に決して逆らわない
分別をもったわきまえた人たちです。

 ものを言わない言わせない会議は
ただの通過儀礼で到底会議の体をなしません。

 このお寺の組織についても反省させられます。
お寺を守るといって何を守るのかです。
 お寺の建物の護持もそうですが
第一に私たちのお念仏のご法義です。

 ご法義中心のお寺になっているか
阿弥陀さまのお心にかなったことができているのかと
お念仏に聞かせていただきます。

 往生浄土と阿弥陀さまが決めてくださったお念仏の道を
共々に歩ませていただく私たちはお念仏の同朋です。

 いろんな問題をかかえるこの現実社会にあって
お念仏申すなかに謙虚にわが身を振り返り
私にできる精いっぱいのことをさせていただくことです。

 果たして私のあり様はどうなのか
お念仏に聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.5)


「#わきまえない女」

2021-02-05
 東京オリパラ組織委員会森喜朗会長の
女性蔑視発言が波紋を広げています。

 女性が多い会議は時間がかかって前に進まない
そこはちゃんとわきまえてほしいという趣旨です。
 これまで何度も問題発言があった人ですが
昨日の謝罪会見は上から目線の物言いで
聞いていてとても嫌な気持ちになりました。

 さっそく日本国内海外でも大変な反響があり
SNSで「#わきまえない女」の投稿が
続いているといいます。

 わきまえるとは分別するということで
分別がある人間になって大人と言われたりもします。

 仏教はこの分別心を
自己中心のものの見方はからいとらわれ煩悩の心で
私たちの苦悩迷いの原因と教えます。

 何が善いか悪いか判断する分別ですが
自分の都合に合わせた善悪の判断で
分別するものさしが人それぞれで違うのです。

 私とあなたの関係でいうと
お互いの違いを認め合うのではなく
自分の都合で善悪を判断し
そこに偏見や差別が生まれるのです。

 仏教の智慧を無分別智といいます。
分別を超えるところに真実のものの見方があると説きます。

 私たちは人それぞれに人格をもち
一つ社会に生きています。
 お互いに違いを認め合い敬い合って
共に生きる社会でありたいと思いますが
自己中心に生きてお互いに傷つけ合い
生きにくい社会にもなります。

 コロナ禍でオリンピックの開催が危ぶまれるなかで
今回の問題です。
 今日もいろんな方が様々な意見を発信されると思います。
その人の立場や性別といった違いを超えて
皆さんが自分のことと考えてほしいと思います。

 分別がいけないことではありません。
私たちが生きるということは分別していくことですし
ただ自分の分別を相手に
押し付けるものであってはならないし
波風を立たせないように自分の意見を仕舞いこんで
分別しわきまえるようなことでは
また同じことの繰り返しで
結局は森発言を認めることにもなります。

 森発言で嫌なのは「人が言っていた」という言い方です。
あなたはどうなのか!
 うまく責任逃れしているような言い方ですが
森さんご自身の分別発言です。
 酒を飲みながら仲間内で話すことと
公の立場で場所で言うこととは違います。

 分別のある人ならわかりそうなことですが
発言の責任は重大です。
 自らの発言に対して
自ら分別をわきまえてほしいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.5)


コロナ禍でのリモート生活

2021-02-04
 コロナ禍で不要不急の外出自粛ステイホームが要請され
リモートという新しい生活様式が生まれています。

 会社に出勤することなく自宅で仕事をし
学校の授業も自宅で受けられるということです。
 ワーケーションといって観光地やリゾート地で
働きながら家族と過ごす生活も提案されています。

 都会から地方に移住する人も増えているといいます。
定年後に夫婦で人生の楽園を求めてということだけでなく
若い30代40代で家族で田舎生活をする人が増えています。

 今の生活を見直すということです。
東京首都圏では今の時間もうすでに自宅を出て
通勤通学の電車に揺られている方も多いと思います。
そして夜遅くまでデスクワークや営業など大変な仕事です。
体力的にも精神的にもすごいストレスがあるのでしょう。

 豊かな自然環境の中で生活面での不便さはあっても
自分たちの思い通りの生活ができるって憧れるところです。

 ただ私たちがどこに日暮らししようとも
この社会の仕組みは全てつながっていることを
コロナ禍の生活で思い知らされました。

 一つ不具合が出ればみんなが不具合になってしまう。
もうどうしようもないと言っていいほどの今の現状です。

 コロナ禍での私たちの生活です。
生活様式が変わりました。
 コロナが収束しても元通りの生活に戻るのか
甚だ不安です。

 私の立ち位置です。
生きる依りどころをどこにもつのかが
本当に大事になってきます。

 生活しないといけませんから
経済的な依りどころです。
 そして精神的な依りどころです。
揺れ動く心の支えです。

 日々変わり行く混沌とした時代にあって
真実まことの仏さまの教えを聞かせていただきましょう。

 お寺から仏教の発信です。
お寺のつとめお寺の存在理由です。

 お寺も生活があります。
今の生活をしっかり見つめるなかに
何ができるのか何をしなければいけないのか
お寺に私が生きてる意味が問われることです。

 皆さんとご一緒にお念仏のみ教えに
聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.4)


春よ来い早く来い

2021-02-03
 今日2月3日は立春です。
124年ぶりに2月2日が節分でその次の日です。
 春が立つ出立です。
暦の上では春が始まるということですが
まだまだ春遠からじという実感です。

 まだ寒い日が続くということもありますが
コロナ禍にあって昨日は首都圏等に出ている
緊急事態宣言の3月7日までの延長が決まりました。

 昨日の節分の豆まきの主役はコロナ鬼ということで
早く収束してほしいものです。

 春が来るといいます。
「氷がとけて春が来た」と雪国の子の作文です。
 梅の花がほころびつくしが芽を出し桜の蕾が膨らんで
あたたかい春になります。

 春よ来い早く来いと待ち望んでも
私たちの思い通りにはなりません。
 春は来るときに必ず来るのです。
それは春そのもののおはたらきです。

 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきです。
私が願う前に阿弥陀さまは本願を起こし
「必ず救うまかせよ」と先手のおはたらきなのです。

 冬から春へ春から夏へ秋へまた春へと
自然の営みおはたらきです。
 大きな自然のおはたらき営みの中に
私たちの日々の生活があるのです。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきの中に
私たちの人生お浄土への道すがらがあるのです。

 音が立つといいます。
今日も梵鐘を撞き本堂のチャイムが鳴って
皆さんがお朝事にお参りです。
 喚鐘を打つ6時半の時間が薄明るくなりました。
光が立ちます。

 音が立ち光が立って
朝が来ました。
 私が私がと何か自分一人で頑張って生きている私ですが
そこには大きな自然の営みがあり
お朝事のご縁にお同行の皆さんがいらっしゃって
ナンマンダブツとお念仏の声が立ち
南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
今日の一日をまた始めさせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.3)


懐かしい方々と写真で再会です

2021-02-02
 七日七日のご縁に毎週お参りしているお家で
施主の方が「いいものが出てきました」と
二枚の写真を見せてくれました。

 お寺の大きな法要の時の稚児宿での集合写真で
一枚は昭和27年のものでもう一枚は昭和37年
私が小学校4年生の時の写真です。

 私の祖父が住職で父が副住職の当時です。
親族や大海組のご院家さんたちと
そのお家の家族が写っています。

 お仏壇の奥に大切にしまい込んでいたもので
お母さんが亡くなって見つけたといいます。
 お仏壇はそのお家の長老がお世話するもので
その方の存命中は他の家族が扱うこともはばかれます。
 亡くなってから後のことで分からないことが多く
生前に聞いておけばよかったということもよくある話です。

 昔の写真を見ていろんなことを思い起こします。
懐かしい方々ばかりです。
 60年以上も前のことですが
ついこの前のことのように思われます。

 昔は家族写真など殆どありませんでしたが
今は写真だらけといっていいほどいっぱいあります。
 それこそお葬式のご遺影にどの写真を使うかというのも
大変悩むところだと思います。

 写真を通してこれまでのことを振り返られます。
若いうちは昨日のことも振り返ることはしないものです。
 今のこと自分のことで精いっぱいでしたが
歳を重ねてくると振り返ることが多くなります。

 いろんな方々の思い出があり
たくさんのお育てをいただいて
今の私があることを有難く思い起こさせていただきます。

 仏さまのご縁に遇わせていただくということです。
大切なお方とお別れする悲しみのご縁ですが
葬儀から始まる仏事を仏さまのご縁といただきます。
 「ここに座れ」と御仏前に誘ってくださり
お念仏申して仏さまにお礼をさせていただきます。

 仏さまのご縁で南無阿弥陀仏のいのちにつながって
今の私が生かされてあることをまた有難く尊く思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.2.2)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
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