門徒総代世話人会をしました
2021-04-19
昨日は<門徒総代世話人会>という
年に2回のお寺の会合をしました。
4月の年度初めと10月の御正忌の前に
総代さんお世話人に集まっていただき
大事な決め事などをします。
昔からの三佐地区内のご門徒衆の会です。
地区内を20班に分けて
お世話人に配り物や集金をしていただきます。
私が住職継職した20年前に比べて
門徒数も班の数も随分減ってきています。
現実的なことでいえば
顔の見えるご門徒の方が極端に減りました。
昨日は総勢30人程のいつもの顔ぶれのご門徒衆が
集まってくれましたが
本当に頼もしく心強い限りです。
初めてみえた方が2人いました。
これからお寺のご縁にお参りいただきたいと思います。
これからこのお寺をどう護持していくのかが
基本のテーマです。
お寺を守るといって受け身ではありません。
変わり行く社会の中にあって
真実変わらないお念仏のご法義を中心に
これからお寺がどう変わって行くかということです。
今はコロナ禍という異常事態です。
お寺の活動行事も中止にしたり
内容を変更して行っています。
いつかコロナは収束しますが
収束後のお寺のあり方は以前のものと随分変わります。
変わるチャンスと受け止めたいと思います。
住職一人で考えできることではありません。
「ご門徒皆さんのお寺」と常々言っていますが
皆さんのお寺への思いを一人二人三人と寄せていただいて
これからの円光寺を護持していきたいと思います。
この一年はコロナのことで
殆ど協議らしい協議をしてきませんでした。
今期で総代さんが変わります。
総代長さんも新しく変わり
皆さんで住職をたすけ
お寺を盛り上げていただきたいと思います。
私も後一年半で住職の任を退かせていただきます。
4年前から公言していることですが
改めてこの一年半の再スタートとさせていただきます。
何はともあれこのお朝事が私の一番のベースです。
今日一日の始まり生活の起点であり
自らを振り返り帰る依り処です。
どうぞこれからも皆さんご縁ご縁に
お寺にお気持ちいっぱい寄せていただいて
できることを共々にさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.19)
開かれたお寺お念仏の声が聞こえるお寺です
2021-04-18
若いお坊さんがこれからのお寺の未来像を語るときに
よく「開かれたお寺になっていきたい」と言われます。
どんな人もいつでも気軽にお参りできるような
お寺ということでしょう。
私も円光寺に23歳で帰って45年になります。
やはり開かれたお寺という思いをもって
いろんな活動をやってきました。
お釈迦さまはすべての人に仏教を開かれました。
浄土真宗のみ教えはすべてのものを分け隔てなく救う
いつでもどこでも誰にでも開かれた
阿弥陀仏の本願念仏のお救いの法です。
いつでも誰でもお参りできることについて
円光寺は結構開かれたお寺だと思います。
町中のお寺は本堂を施錠しているところが多いですが
円光寺の本堂は朝6時から夕方6時まで開けていますし
山門はいつもずっと開けっ放しです。
駐車場には門扉はなく出入り自由です。
私はそれはそれでいいと思って
これまでやってきましたが
最近こちらが思うことと現実に
戸惑うことが出てきました。
今は地域の見守り隊が当たり前になっています。
ちょっと前まで同じユニホームを着た人が
町角に立っている姿は逆に異常でした。
地域を守る子どもを守るということが
目に見える見守り隊となって地域に根づいています。
このお寺です。
お寺を守るといいます。
私たちのご法義お念仏のみ教えを守ることが
一番の基本ですが
目に見える形でお寺を守る建物を維持していくことです。
どんな人にも開かれたお寺といって
顔が見えない方が入ってくることに不安があります。
ご門徒であっても一番顔が見え分かっているのは
住職ですが
坊守はご門徒の顔が分からないことが多くあります。
本堂お内陣の真下には納骨堂があって
本堂から自由に入ってお参りいただいています。
ご門徒が納骨堂を使用していますが
ご門徒のご親族の関係者もお参りされますので
住職の私も分からない方がたくさんいらっしゃいます。
これもお寺参りのご縁です。
どんな人にも開かれた仏法に遇ってほしいと思います。
それは仏さまの願いであり
お寺を預かる住職の願いでもあります。
ふとこんなことを思います。
多くの方が気軽に出入りできるお寺はいいのですが
一方でお寺に住まいする者として不安もあります。
見守り隊ではありませんが
いつもお寺にお参りされる皆さんが
よく出入りしてくださるお寺になったらと思うのです。
見られているということです。
見守られていることで安心できます。
見られているから
悪いことはできないということでもあります。
家から外出する時に鏡を見ます。
人に見られるから身なりをきちんと整えて外出します。
鏡を見てわが身を直させていただく心がけがあって
私たちの社会そしてお寺があります。
仏法はありのままの私を映し出してくださる鏡です。
お念仏の法にわが身のあり様を聞いて
そのまま救う南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
お念仏申す身に直させていただきます。
開かれたお寺のご縁に遇い仏法に遇って
多くの人にお念仏申す身に
なっていただきたいと思います。
お念仏申す皆さんが共々に誘い合って
よくお参りされるお寺こそ一番安心安全なお寺です。
今日は総代世話人会というお寺の大事な会があります。
総代世話人さんに今のお寺の現状を知ってもらい
お寺への思いを共有していただいて
いよいよ皆さんに開かれたお寺
お念仏の声が聞こえるお寺になっていきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.18)
阿弥陀さまが決めてくださったお念仏申す規則正しい生活です
2021-04-17
規則正しい生活といわれます。
この規則って何でしょうかね。
人からああやこうや言われるのは嫌ですね。
逆に反発するところがあります。
健康のためにこうしなさいと言われて
何度も言われて「わかってる!」と言い返し
あなたのために言っているのよと言われて
「ほっといてくれ!」と言い放つ始末です。
この規則をお念仏のご法義
阿弥陀さまが決めてくださった規則といただきます。
私の朝の時間は短い中に
いろんな決まり事が身についています。
朝起きて洗面を済ませ仏さまにお仏飯をお供えし
香炉に線香を焚き本堂を開けて6時に梵鐘を撞き
6時半から皆さんとお朝事のご縁をいただきます。
その間にもこの十数年来体重計に乗る血圧を測る
この一年は体温を測ることも増えました。
すべて数字での健康チェックです。
毎日同じような数字を確認して大丈夫と安心しますが
血圧は大体が高い方で結構ぶれが大きく
血圧計を見てふいっと高いと途中で測ることを止めます。
高いも低いもその時の状態を教えてくれるもので
自分に都合のいい数字を求めることではありませんが
数字が気になり不安になります。
そうした日々の営みの中で毎朝一番に皆さんとご一緒に
御仏前に座らせていただくことで
何か気持ちが整い安心させてもらえるのが
このお朝事のご縁です。
声を出すことで体調を整えさせていただきますが
基本は心を整えさせていただくことです。
いろんな心配事があって
揺れ動き戸惑う心不安な心を持ち合わせている私です。
お念仏を申したからといって
心配事がなくなるということではありません。
自分一人で心配事を抱え込み頑張って生きている私に
そっと寄り添いそのまま抱き取りご一緒くださる仏さまに
おまかせし生かされて生きる私にしてくださるのです。
私のそばにいつもあなたが寄り添ってくださっています。
仏さまそして皆さん方がいらっしゃるということです。
一人で頑張っても頑張れない私にご一緒してくださり
お互いに心配事を共有し支えていただくなかに
このお寺の営みがあるのではないでしょうか。
阿弥陀さまが南無阿弥陀仏一つのお救いと
決めてくださったお念仏を申す規則正しい生活です。
私たちそれぞれの生活ぶりは違いますが
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに共々に
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.17)
どんな状況でもお念仏を申すところ阿弥陀さまがご一緒です
2021-04-16
昨日は毎月一度の大海組のお寺の法中会がありました。
この一年コロナ禍で組の行事も殆どできていません。
もう一年経ったのかということですが
去年の4月5月は全国の学校が一斉休校になり
県や市町村の公民館や図書館美術館などの公共施設が
全て閉鎖になりました。
今は結構できています。
野球もサッカーも観客の制限はありますができています。
昨日東京五輪開催について自民党の二階幹事長から
中止もやむをえないという発言があったそうですが
大方開催する方向で進んでいるようです。
ところが感染者は去年に比べたらずっと増えているのです。
それも変異ウイルスといったものが次々に出てきて
これから感染者の増大も十分予想される
緊迫した状況が続いていくということです。
去年予定していたことで
一年経ったら大丈夫と思っていたら今のこの状況です。
来年こそはと一年経ったら
何かできるということではありません。
私たちの思い期待はあっても
コロナ禍の現状を私たちの力でどうこうできる
都合のいいように変えられるということではないのです。
そうした不自由な状況の中でも
私たちはこの一年生きてきたし
これからも生きていくのです。
どのように生きていくのか
工夫です。
去年出来なかったことが少しできていることは
そこに工夫があるからです。
これまでの経験を学び生かして
工夫して行くのです。
ピンチをチャンスに変える人間の英知であり
私たち人類の歴史の歩みがあったということです。
今日は熊本大分の地震本震があって
5年ということです。
もう5年になるのかということですが
目に見える復興はできつつありますが
家を無くし大切な家族を亡くされた方にとって
本当の意味での復興には程遠い状況が
これからも続いて行くのでしょう。
これはいくら私たちが工夫をしようとも
私たちの思いをどれだけ寄せようとも
私たちにはどうすることもできないことかもしれません。
そのなかで私たちがお念仏のみ教えに
聞かせていただくことの有難さです。
揺れ動く私たちです。心惑う私たちです。
そういう私たちを見守ってしっかり引き受けてくださる
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲の中に生かされて
生きて往くことができるのです。
ナモアミダブツとお念仏申して
自分に都合いいようになったらいいですが
ナモアミダブツとお念仏を申しても
できないことってたくさんあります。
どうぞ南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
今この私ができることを精いっぱいさせていただく
今日の一日でありたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.16)
慚愧と歓喜のお念仏申す生活です
2021-04-15
お経さまの初めに「仏説」とあります。
仏説の仏はお釈迦さまのことで
お釈迦さまがお説きになったお経ということです。
浄土真宗の所依の経典は浄土三部経で
私たちに一番身近な『仏説阿弥陀経』は
「仏説阿弥陀経」で始まって「如是我聞」と続きます。
如是我聞とか我聞如是といいますが
「私はこのように聞きました」という意味で
お釈迦さまが説かれたこのみ教えを私はこう聞きましたと
お経さまが始まるのです。
毎朝拝読させていただくお正信偈さまは親鸞聖人が
浄土三部経に説かれた阿弥陀如来の本願念仏の救いの法
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
偈文にしたためてくださったもので
御文章さまは蓮如上人が他力の信心お念仏のお心を
お手紙にしたためてくださったものです。
毎朝この私を必ず救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏のお心を
この私がそのまま聞かせていただくのです。
私の都合に合わせて聞くのではありません。
真実の経教の鏡にそのまま写しだされた
ありのままの私の姿を見せていただきます。
生涯お念仏をよろこび申されて生き抜かれた妙好人
浅原才市同行はご自身を鬼の姿と見られました。
どこまでも自己中心のものの見方考え方で生きて
欲の心は止まることを知らず次から次に湧き立ち
思い通りになれば周りの人を思うことなく有頂天になり
少しでも思い通りにならないことがあると
周りを責め立てる
まさに鬼の心を持ちあわせた凡夫の姿でありました。
『浄土真宗の教章(私の歩む道)』の<生活>に
「親鸞聖人の教えにみちびかれて阿弥陀如来のみ心を聞き
念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり
慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷にたよることなく
御恩報謝の生活を送る」とあります。
才市さんの詩には
お念仏の真実の鏡にうつし出されたわが身の姿を
「あさまし あさまし あさまし」と振り返り
そのままが真実の光に遇わせていただく喜びを
「ナマンダブ ナマンダブ ナマンダブ」と
お念仏が出てくださるのです。
慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のお念仏申す生活です。
人から指摘されてああやこうやではありません。
お念仏申すなかに厳しいきついご指摘かもしれませんが
そのまま救う阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
生かされてあるお念仏の日暮らしです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.15)