末法のこの世に生きる私たちに開かれたお念仏の仏道です
2021-05-04
正像末和讃を拝読しています。
浄土和讃高僧和讃は
親鸞聖人が75、6歳頃の作といわれますが
正像末和讃は85歳で書かれたものです。
その間10年が経過しています。
この頃関東ではお念仏の教えの異義がおこり
同行たちが京都の親鸞さまを訪ねてきたりして
親鸞さまは善鸞さまを名代として関東におくりますが
善鸞さま自身が異議をとなえることで
義絶親子の縁を切るという
悲しい出来事がありました。
親鸞さまのご一生は法然聖人にお遇いして
専修念仏の教えを受け帰順してお念仏の道を歩まれ
法然さまの教えを学問的に教行信証に著されますが
念仏者親鸞さまの究極のご心境が伺えるのが
正像末和讃です。
今日の御和讃は「南無阿弥陀仏の回向の」で始まります。
浄土真宗のみ教えを「念仏一つで救われる」と示されます。
この念仏は私が起こす自力の念仏ではなくて
阿弥陀さまの他力回向のお念仏です。
阿弥陀さまはすべてのものを分け隔てなく救うと
ご本願を建てられ南無阿弥陀仏と成就されて
私たちに「必ず救うまかせよ」と回向されるのです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを回向といい
往相還相の二種の回向があります。
往相とは南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
凡夫の私がそのままお浄土に往生させていただき
仏に成らせていただくことです。
仏さまに成ったら還相といって
この迷いの世に還って来る
これも南無阿弥陀仏の回向おはたらきだよというのです。
末法の世にあって時代も社会に生きる人々も濁り
聖道の仏道は廃れ自ら厳しい学問修行を積んで
自力でさとりの仏に成ることができないなかで
南無阿弥陀仏の他力回向のお念仏のみ教えこそ
私たちが救われていく唯一の道だというのです。
凡夫の身がそのまま救われる仏道は
今日の御和讃に
「弥陀・観音・大勢至 大願の船に乗じてぞ
生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ」
(阿弥陀仏は、観音菩薩と勢至菩薩とともに
大いなる本願の船に乗り
迷いの海に浮かびながらさまようものを喚び続けて
その船に乗せてくださるのである)
といただきます。
南無阿弥陀仏と喚んでくださり
如来大悲の願船にそのまま乗せていただいて
阿弥陀さまのお浄土にわたしていただくのです。
末法のこの世に生きる私たちに
往生浄土の仏道が開かれてあると聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.4)
阿弥陀さまのおはたらきにお休みはありません
2021-05-03
今はゴールデンウィークで五連休の
今日は真ん中の憲法記念日の祝日です。
五連休といっても職種によっては
お仕事をされている方はたくさんいらっしゃいます。
皆がみんな休んでしまったら
この社会は成り立っていきません。
いつもの仕事のお休みです。
仕事中心の毎日の日課から解放されて
自由に自分なりの時間を楽しむことができます。
ただ仕事がお休みでも
生きていることに変わりはありません。
ずっと冬眠するように眠っているわけではありません。
眠っている間も心臓はずっと動き続けています。
眠っている間も私たちは生きているのです。
生きることにお休みはありません。
日々の生活はこれからもずっと続きます。
そうした日常にあってこのお朝事のご縁です。
一年365日お朝事はずっと毎日の事です。
じっとしていたらできないことですが
これを仕事とかしなければならない務めと考えると
続けるのが大変です。
まさに休みなしですからね。
日々の日課それも食事をすることと
同じように受けとめたらどうでしょうか。
生きることは食べることです。
食べないと死んでしまいます。
食べたいという欲求が私たちに具わって
生きる力になるのです。
毎日欠かさず食べます。
仕事でも務めでもありません。
食べて生きるのです。
お朝事のご縁に遇わせていただくことで
さあ今日一日始めようと
仕事があっても仕事がお休みでも
今日一日を始めようという気持ちにさせてくれるのが
私にとってのこのお朝事のご縁です。
お朝事は仏さまのご縁です。
仏さまのお仕事にお休みはありません。
いつでもどこでもどんな人にも
南無阿弥陀仏のおはたらきは届いているのです。
今日も仏さまのご縁をいただき
お念仏申して仏さまとご一緒に
日暮らしさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.3)
ぼくらはみんなつながって生きている
2021-05-02
コロナ感染がまた増えてきています。
東京と関西2府1県に三回目の緊急事態宣言が出され
去年に続いてステイホームのゴールデンウィークです。
毎日感染者数が気になって見ますが
コロナ感染現場の最前線にいる医療従事者の方々の
大変な状況やご苦労が中々見えてきません。
医療体制が逼迫して危機的な事態だといわれます。
大分県も感染者が急激に増えて収容可能病床数が
半分近く埋まり心配な状況になってきたといいます。
そこで働く医師や看護師の皆さんです。
完全防護服を身に着け自身の感染にも注意を払って
感染治療にあたり肉体的にも精神的にも限界という
悲痛な声が聞こえてきます。
いつになったらコロナが収束するのか。
昨日は高齢者のワクチン接種が
県内でも初めて中津で始まったということですが
私たちのところにいつワクチンが届くのか見通せません。
このコロナ禍で思うことがたくさんありますが
私たちの社会がみんながつながってあることを
良くも悪くも思い知らされます。
私たちは何か自分一人で頑張って生きているように
思っているところがありますが
日常のどの事柄を取って見ても
多くの方々それも家族や友人知人といった方ばかりでなく
顔の見えないこれまで会ったことがない方とも
みんなつながって生きているのです。
お念仏のみ教えに重ねて思います。
南無阿弥陀仏のご縁つながりです。
浄土真宗のご本尊阿弥陀如来は
無量寿無量光の仏さまです。
いつでもどこでもこの私をそのまま救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきでご一緒してくださっています。
アミダという無量のおはたらきで
不可称不可説不可思議の仏さまといいます。
私たちの目に見ることも思うこともできない
アミダの大きな世界から来てくださって
摂取不捨のおはたらきで私たちを
共々に救ってくださるのです。
それは今現在だけのことではなくて
これまでも過去からずっとのことであり
そしてこれからもです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
私たちは共々に互いに生かされて生きているのです。
ナンマンダブツとお念仏申し
阿弥陀さま有縁の仏さま方に御礼をさせていただきます。
コロナの時代に生きる私たちです。
お念仏の世界に共に生かされてあることを
南無阿弥陀仏のお心に
謙虚に素直にそのまま聞かせていただくなかに
今私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.2)
5月になりました
2021-05-01
5月になりました。
新緑の候です。緑が本当にきれいです。
今日は朝方雷が鳴って急な雨になりました。
わずかな時間でした。
6時の梵鐘を撞きに外に出ましたら
清々しい風が吹いてとても気持ちがよかったです。
五月のいい時候です。
新しい月になって心新たにこの一か月を始めましょう。
今朝の御和讃は
「無礙光仏のみことには 未来の有情利せんとて
大勢至菩薩に 智慧の念仏さづけしむ」
(無礙光仏は未来のあらゆるものを救うために
勢至菩薩に智慧の念仏を教え授けてくださった)
から始まりました。
『正像末和讃』の「三時讃」といわれるところで
末法の世においては聖道の教えは衰え
弥陀の本願のみ教えはいよいよ盛んであるから
浄土の教えに帰すべきことを勧められます。
弥陀の本願の教えこそ
お釈迦さまが説かれた教法の結論であると示されるのです。
「智慧の念仏」「信心の智慧」と
何度も拝読させていただきます。
阿弥陀仏よりいただいた念仏は勢至菩薩の念仏となり
「智慧第一」と勢至菩薩の化身と讃えられた法然聖人の
お勧めくださる念仏となって親鸞聖人に届けられ
私たちに勧められるのです。
南無阿弥陀仏の智慧の念仏です。
生きとし生けるものすべてを分け隔てなく必ず救うと
法蔵菩薩が本願を建てられ成就されて阿弥陀仏に成られた
おいわれを聞かせていただくのです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
どんな人もそのまま救われて
阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ
さとりの仏さまにさせていただくのです。
「本願を信じ念仏申さば仏に成る」
浄土真宗のみ教えです。
阿弥陀さまのご本願のお心を聞き信じまかせて
お念仏申す身にさせていただきます。
肝要は毎月一日に拝読の御文章「聖人一流章」です。
最後に今月5月は『浄土真宗の教章(私の歩む道)』を
皆さんでご唱和させていただきます。
今月もお朝事のご縁に共々に遇わせていただき
お念仏申す生活を続けてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.1)
私たちの人生会議です
2021-04-30
昨日の大分合同新聞『東西南北』から思うことです。
筆者の親御さんが9年前に亡くなって悔むことがあると
がんで入院し本人に言い出すことなく
延命処置をしながら最期は寝たきりになったといいます。
残された時間は少ないことを伝え
どう過ごしたいのか
ちゃんと希望や思いを聞いておけばよかった
治療にこだわらず好きなように過ごす
時間を作ることもできたのではないかと。
難しいですね。
その時になってどうするかということですが
死にまつわる問題は中々言い出せない
元気なうちは他人事で
差し迫ってからではためらってしまうと言われます。
国がもしものときに自分が望む医療やケアについて
家族らと話し合う「人生会議」を
提唱しているということです。
もしもの時とは死に向き合うということです。
日常タブーなことですが
どんな人にも待ったなしの人生の大きな問題です。
それは私が老いたとき病んだときのことではなく
この私の今の問題なのです。
死を見つめることです。
「死を思うことは家族や大切な人を思うことでもある。
結局どう生きるのかを問われているような気がする」
とコラムは結ばれています。
人生会議に医療福祉関係者だけでなく
私たち僧侶宗教者にも入ってほしいとの提言も聞きますが
お坊さんは命生きてある間はお呼びではありません。
お坊さんが入院見舞いに行くことさえ嫌われます。
そして亡くなったら早速お坊さんの出番になるのです。
仏教は生死の解決を一大事とする教えです。
医療福祉の現場にふさわしくない教えではなく
老いていく人病んでいく人死んでいく人に寄り添う
すべての人に開かれた教えなのです。
御仏前で生死の問題を考えましょう。
人間が自分なりに考えることではなくて
仏さまの教えに聞かせていただくことです。
仏さまのご縁はある意味私たちの人生会議だと思います。
お念仏申して阿弥陀さまの大悲のお心
南無阿弥陀仏のおはたらきに生かされて
今日一日も生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.30)