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お念仏を申す生活法話

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仏教は仏法の下の平等の教えです

2021-03-18
 札幌地方裁判所で同性婚を認めないのは
憲法に違反するという判決が示されました。

 今後高裁に控訴されることが予想され
確定したものではありませんが
今までにない司法の判断で
画期的な判決と評価する一方で
様々な見方意見があります。

 広く人権に係る世界的な潮流
現代の社会の動向を感じます。

 森オリパラ前会長の女性蔑視発言に端を発した問題では
「多様性と調和」という
オリンピック憲章が注目されました。

 多様性とは同じ社会に生きる人
それぞれの様々な違いです。
民族が違います、言語が違います、国が違います。
宗教が違います、思想信条ものの見方考え方が違います。
職業が違います、生活ぶりも様々です。

 様々な違いをもった者同士が
同じ社会に生きるときに
調和です。
 お互いの違いを認め合い尊重し合って
共に生きる世界が求められます。

 日本は男社会といわれてきました。
社会のあらゆるところで
そうした素地がまだまだ残っているなかで
今回の判決にただ賛成反対と言うだけでなく
同性カップルをはじめ性的少数者が生きにくい
現実社会のあり方を注視したいものです。

 今回の判決は日本国憲法第14条の
「すべての国民は、法の下に平等であって
   人種、信条、性別、社会的身分又は門地により
 政治的、経済的又は社会的関係において
 差別されない」
法の下の平等に違反するとの判断でした。

 仏法を聞かせていただくようです。
仏教はまさに仏法の下の平等の教えです。
 阿弥陀仏さまのご本願の救いの法です。
阿弥陀さまのご本願はすべてのものを
分け隔てなく救うという大きな願いです。

 男女、貴賤、道俗を選ばずと
若者も老人も、健康な人も病気の人も
いろんな違いを認めてそのまま救うというのです。
 善人も悪人も救うといいます。
阿弥陀さまのお救いに条件は一切ないのです。

 阿弥陀さまは一切衆生を必ず救うとご本願を成就し
南無阿弥陀仏のおはたらきの仏さまに成って
私たちに本願を信じ念仏申す身になっておくれと
喚び続けてくださっているのです。

 性的少数者は親や家族からも理解されず
この社会からも疎外されて生きにくいと訴えます。

 同性婚が社会的に認められないことで
大きな不利益を被っているといいます。
 一緒に生活していても財産分与や相続ができないとか
身近な例でいえば
入院手術する時に家族の承諾署名が必要ですが
パートナーの署名は認められないのです。

 『浄土真宗の教章』には
阿弥陀如来の本願を信じ念仏を申す者は
「自他ともに心豊かに生きることのできる
社会の実現に貢献する」とあります。

 多様性が尊重され
全ての人々がお互いの人権や尊厳を大切にし
生き生きとした人生を享受できる社会の実現に向けて
お念仏のご法義を聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.18)


春の彼岸の入りです

2021-03-17
 春の彼岸の入りです。
20日のお中日をはさんで前後一週間のお彼岸です。

 彼岸とは彼の岸
阿弥陀さまのお浄土です。
 私たちの迷いの世界の此の岸から
仏さまのさとりの世界の彼の岸に至る道すがらを
聞かせていただきます。

 太陽が真東から昇って真西に沈む
その西のはるか彼方に私たちの彼岸お浄土があると
お経さまに説かれています。

 西へ西へと行っても行っても
この大宇宙の中でお浄土に行き着くかいつ行き着くか
私たちの科学の知識では分かりませんし
お浄土を疑うことにもなりましょう。

 西のはるか彼方に私たちが生まれ往くお浄土があると
決めてくださった阿弥陀仏さまの仰せを
そのまま聞かせていただきます。

 迷いの世界にあって
自己中心のものの見方にとらわれはからって
真実を知らない知ろうともしない私たち愚かな凡夫を
阿弥陀さまが南無阿弥陀仏のおはたらきで
お救いくださるお念仏のご法義です。

 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞いてくれよと
私のために開かれたお彼岸のご縁です。
 南無阿弥陀仏のお心を聞かせて信心いただき
お念仏申す身にさせていただきましょう。

 仏法聴聞はお彼岸だけではなく今日のご縁も
いつでも聞けるのですが
このいつでもが曲者です。

 いつでもと聞いて
私たちは自分の都合に合わせて生きていますから
歳をとって暇になったら聞こうとしていませんか。

 そんな私もすべて見抜かれての
このお彼岸のご縁といただきます。

 円光寺では19日20日と
春季彼岸会法要をお勤めさせていただきます。
 どうぞ皆さん有縁の方もご一緒にお参りいただき
到彼岸のご縁です
お念仏の先人が生まれ往きてくださったお浄土への道を
お念仏申して共々に訪ねてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.17)


「ハンカチもった!」

2021-03-16
16日は親鸞さまの月命日でこれからお朝事のご縁です。鐘楼より本堂を望む(2021.3.16.6:00)
 ある学校の先生のお話です。

 高齢のお母さんが入院されて
病院に見舞い行った時のことです。
 先生がちょっとせき込んだのです。
するとベットからお母さんが
「あんた大丈夫かえ。お医者に行ったら」と
言われたそうです。
「ここ病院だよ」と笑い話になったのですが
どんなに歳をとっても自分のことができなくなっても
お母さんはいつまでもお母さんで有難かったといいます。

 その先生は小さい頃ぜんそくがあり
学校を休むことが度々あったそうで
お母さんがいつも付きっきりで看病してくれたことを
思い出したというのです。

 口やかましいお母さんだったといいます。
学校に行く時は決まって
「忘れものはない。ハンカチもった」と言われたそうです。
 小学生の頃は
そのまま「はい」と返事をして聞いていましたが
中学高校になっても
「ハンカチもった」と言い続けるお母さんに
返事もしないで黙って学校に行くようになったと
いつも同じことばかり言われて
心の中ではうるさいと思っていたといいます。

 学校の先生になってからも
「ハンカチもった」と言われ続けたそうです。
 学校の先生ですから
「ハンカチもった」と生徒に言う方ですが
お母さんにとってはいつまでも我が子なのです。

 そのお母さんが亡くなって
お母さんがいつも自分のことを思うてくれていたのだと
そして今も思ってくれているのだと
有難く思い返すといいます。

 今国会では菅首相の長男が勤める会社と
総務省との接待問題が取り上げられています。
 この問題が明るみになった時に菅首相は
「息子とは別人格です」と言われました。
 何か事務的で冷たい言い方だなと思いましたが
言われる通り親子といえども別人格です。

 親子、夫婦、兄弟と深い血縁関係の家族も
お互いにそれぞれが自己の責任において社会生活を送る
一人の人間であり別人格です。
 首相という公的な立場で私情を挟むことは
公私混同になって大変な問題になってしまいます。
 別人格というのは首相答弁としては正解です。

 でもそこに親子の情親の思いが入らなかったかというと
総務大臣秘書官に抜擢したり
当該会社は元々首相の深い縁のある会社ということで
親子の情親の思いを垣間見る思いがします。

 親子の宿縁深いつながりです。
親のいない子どもはいません。
 親と子は同い年で
子どもが生まれて親になります。
 親は子どものことがどこまでも心配でなりません。
子どものことを心配するのが
親の仕事といっていいほどです。

 そんな親の思いを知ってか知らずか
子どもにとって親の思いは当たり前に思えたり
うっとうしいと思ったりもするものです。

 その先生はお母さんのお葬儀のご縁で
お寺にお参りするようになったといいます。
 仏さまのご縁をいただかれたということです。
お念仏の先人が親さまと慕う阿弥陀さまのお救いのお話を
ご縁ご縁に聞かれたことでしょう。

 はるか遠い昔から私のことを思うてくださり
迷いの世界に苦悩する私を必ず救うと
南無阿弥陀仏とおはたらきの仏さまです。

 阿弥陀さまからずっと思われていたのです。
今も思われているのです。
そしてこれからもずっとです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきで
お母さんはお浄土の仏さまとなり
今も先生のことを思ってくださっているのです。

 人の命終えてもお母さんはいつまでもお母さんです。
南無阿弥陀仏のお母さんです。
 お念仏申させていただき
「ハンカチもった」の声が聞こえてきそうです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.16)


みんな東大には入れませんが、みんな阿弥陀さまのお救いの法に遇ってお念仏の花を咲かせていただけます

2021-03-15
ピンクに色づいた桜の蕾です。もうすぐ開花です!(大分市平和公園、2021.3.14.12:00)
 今年は桜の開花の便りが早いようです。
昨日は東京で開花宣言があり大分も間近といいます。
 全国各地で例年より一週間か10日も早いという予報で
コロナ禍の中でも桜だけではありませんが
自然は生きてる躍動しています。

 今は高校大学入試の受験シーズンですが
かつて「サクラサク」と
合格通知の電報が話題になりました。
 努力が実って目標の学校に合格するっていいですね。
喜びいっぱいの笑顔を思い浮かべます。

 新聞に掲載された予備校の広告です。
予備校生が〇○大学〇○高校に合格しましたということで
これまでに各学校の合格者数をみることがありましたが
先日みたものは顔写真入りのものでした。

 名前、出身校とコメントまで載っていました。
個人情報保護という観点からいったらえっと思うことです。
 当事者の許可を取った上のことでしょうが
本人それ以上に周囲の舞い上がりぶりを想います。

 ただここに名前写真入りで載ったのは
みんなではありません。
東京大学京都大学そして有名大学医学部の合格者です。
 予備校の見え見えの経営戦略です。
何かおかしいというか悲しい気持ちになります。

 桜咲くといいますが
その花花で咲く時期は違います。
 同じ木の桜でも一斉に咲くわけではありません。
パッと一気に咲く桜もあれば
ゆっくりゆっくり時間をかけて咲く桜もあります。
 そして咲かない桜はないのです。

 私たちのいのちの見方です。
どこの大学に合格したとかどこの会社に入ったとか
自分勝手にランク付けをし自分と比較して
人人のいのちを見ていませんか。

 そういう見方はどこまでも窮屈で
結局は自らを苦しめることになると
見抜かれた阿弥陀さまのお救いの法です。

 阿弥陀さまは「あなたはあなたの花を咲かせなさい
いつも応援してるよ」と南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでも私に寄り添いご一緒してくださる
仏さまに成ってくださったのです。

 お浄土にお念仏の花を咲かせてくださいます。
泥中に咲く蓮の花です。
 お内陣の余間に描かれた蓮の花を見ると
同じ花は一つもありません。
 今から咲こうとする蕾の花、満開の花
一片散っていく花もあります。
 その花その花それぞれでいいですね。

 私が咲こうこういう花を咲かせようと思って
咲く花ではありません。
 あたたかい光や水やいろんなお育てにあって
咲かせていただく私の花です。

 仏法に遇うことの有難さです。
仏さまの教えを聞かせていただく尊さです。
 自己中心にあれもこれもと欲しがって
あれやこれやと比較をして
泣いたり笑ったり迷っている私に
どうかお念仏申しておくれと喚んでくださる
阿弥陀さまがご一緒です。

 みんなが東大京大に医学部に入って
みんなが官僚や会社の社長医者になったら
この社会は成り立ちません。
 この社会をあらゆるところで支えてくれてる方が
たくさんたくさんいらっしゃるのです。

 みんなが東京大学に入ることはできませんが
みんな阿弥陀さまのお救いの法に遇って
お念仏の花を咲かせていただくことができるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.15)


この世の一切のものはすべて賜わりものです

2021-03-14
お朝事のお勤めでご院家さんがご法話お取り次ぎをします(円光本堂、2021.3.14.7:00)
 毎朝6時半に喚鐘をつきますが
すっかり明るくなりました。
 6時の梵鐘の時分はまだ薄暗いのですが
春が来たなと何か楽しみです。

 今日は仏教壮年会の月例会ということで
いつもはあんのん館でバタバタとお話をしますが
今日は少し時間をいただいてお話をさせていただきます。
 お楽にしてお聞きください。

 今月の法語カレンダーのことばです。
「私の上にあるものは 全部賜うたものである」です。
 仏法に遇って知らされることは
「この人生、私のもとにあるものは
すべて賜わったものである」ということです。

 私の命がまさに賜わりものです。
私たちは誰しも自分でこの世に生まれようと思って
この時代この国にこのお父さんお母さんの子どもに
生まれたいと思って生まれてきたわけではありません。
 気がついたらこの私だったということで
今日まで生かされて生きてきました。

 自分を生かすものもすべて賜わりものです。
太陽も空気も自然の恵みをいただいて生きています。
 そして食べ物です。
今日もこれから家に帰って食事をすると思いますが
これまでどれほど多くの食べ物の命をいただいて
生きてきたでしょうか。

 また私がこの世界に生まれて教わった知識も
全て先人からの賜わりものです。

 すべてが賜わりもののこの命です。
生老病死する身を私たちは生きています。
 生きるということは老いること病むこと
そしていつか必ずこの命を終えていかねばなりません。

 諸行無常の仏さまの教えです。
この世のあらゆるものは常なるものは一つもなく
日々刻々と移り変わって行ってるというのです。

 その移り変わり行く賜わりものに
私の土地、私の家族、私の身体などと
「私のもの」というラベルを張り付けていく愚かさを
知らせてくれるのが仏法です。
 諸法無我の教えです。

 「あなたは今一番何を大切に生きていますか」と聞かれて
健康や家族、お金と答える方が多いと思います。
 自分が今「私のもの」と大切に握りしめているものが
確かなもののように思っているようですが
すべてが移り変わり行くものだというのです。

 蓮如上人は御文章さまに
「まことに死せんときはかねてたのみおきつる妻子も財宝も
わが身には一つもあいそふことあるべからず」と
命終わる時にこれさえあれば大丈夫と握りしめていた
妻子家族や財宝お金も一切あてにならないというのです。

 言われてみればそうです。
それこそ私たちはみんな
丸裸で生まれてきて丸裸で死んでいくのです。
 だから「死んだらおしまい」と言うのでしょうか。
でも死んだらおしまいの人生って空しいですね。

 私は何のために人間に生まれてきたのでしょうか。
お釈迦さまは
「それはね、仏法に遇うために人間に生まれて来たのだよ」
と私たちに仏教を開いてくださったのです。

 仏法を聞かせていただくと
死んだら終いの命を生きているのではなく
仏に成るいのちを生きていると教えていただきます。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちは共々に生かされて生きているとお聞きします。

 昨日お話したことです。
あるお寺の保育園の誕生日会で
ご院家さんが園児に決まってこんな話をするそうです。

 みんなにとって命が一番大切だよとお話されて
家に帰ったらお父さんお母さんに
「私を生んでくれてありがとう」と言いましょうとね。
 すると子どもは素直ですから帰ってすぐ言うらしいです。

 ある時園児のお母さんから
ご院家さんこの前びっくりしましたと話を聞いたそうです。
 子どもが保育園から帰ってきてすぐ私に
「私を生んでくれてありがとう」言ったんです。
それで嬉しくて感激して返す言葉がありませんでしたと。
 ご院家さんがこう言ったそうです。
その時はお母さんから子どもさんに
「生まれてくれてありがとう」と
言ってあげたらどうですかとね。

 「生んでくれてありがとう」と
「生まれてくれてありがとう」と
「ありがとう」でつながる私たちのいのちなのです。

 この命を生きていることは当たり前ではない
有ること難い尊いいのちなのです。

 人の命を恵まれ賜わって生まれてきて
仏に成る尊いいのちを生きているのです。
 そのことに気づかず気づこうともせず
「私のもの」と握りしめている私たちの愚かさを
仏さまは見抜かれてそのまま救うと
南無阿弥陀仏の仏さまに成ってくださったのです。

 今月の掲示伝道のことばです。
「命終わる時 浄土に生まれて 仏と成る」です。
 命終わる時に阿弥陀さまのお浄土に
往生させていただいて仏に成らせていただくという
南無阿弥陀仏のお救いの法です。

 ただ命を終えるのではありません。
人間に生まれて仏法に遇わせていただき
阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す身にさせていただく
南無阿弥陀仏に仕上げてもらったいのちです。
 そのいのちは死んだらしまいではなくて
仏のいのちとなって南無阿弥陀仏とこの迷いの世に
還って来ると聞かせていただきます。

 皆さんが今こうして御仏前に座らせていただけたのは
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきで
皆さんのご先祖有縁の仏さまがこの身をそのまま
御仏前にはこんでくださったということです。
そしてこの口からお念仏を申させてくれたということです。

 南無阿弥陀仏こそ移り変わり行くこの世の中にあって
真実変わらない畢竟依の賜わりものです。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのおはたらきを賜わって
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
これからもお念仏申す日暮らしをさせていただきましょう

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.3.14)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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