古い人間も新しい人間もみな共にお念仏につながっているのです
2021-06-09
今朝の大分合同新聞の「灯」欄のコラムから
「古い人間になりそうです」というお話です。
歳を重ねて段々と世の中についていけなくなったと
始まります。
パソコンやスマホが中心のネット社会になり
このコロナ下で私たちは古い人間といわれるようです。
今は現金を持たなくても日常生活に不便はないようで
コンビニの会計や駅の改札など
スマホで難なくスルーできます。
私などの古い人間はやはり手元に現金がないと
何か心もとない不安にかられます。
お金がこの目で見える安心です。
時代の大きな変わり目です。
コラムでは戦後価値観が180度変わる中で
欧米式の生活スタイルが入ってきて
日本人の暮らしぶりも徐々に変わり始めたとありました。
筆者は小学5年生で
周りの生活が見るからに変わっていく中で
明治生まれの親のいる家庭に
新しい生活が中々やってこなかったといいます。
そこでつい母親に「時代遅れの、旧式人間」と
言ってしまったことを思い出して
今自分も古い人間になったようで
親の思いが分かるようだというのです。
まだまだこれから世の中は変わって行き
私もどんどん古い人間になっていきそうです。
ただ今の新しい人間も古くなっていくのです。
古い新しいといって古い人間も新しい人間も
共に同じ社会時代に生きているのです。
生活ぶりは変わっても
人がこの世に生まれて生きて老いて病んで
死んでいくことに変わりはありません。
古いも新しいも共に生死の苦悩を抱えた迷いの凡夫と
阿弥陀さまは見抜かれて
「まかせよそのまま救う」と南無阿弥陀仏のおはたらきを
分け隔てなくしてくださってあります。
この同じ社会に生きている私たちは
南無阿弥陀仏に共々につながって生かされて生きていると
聞かせていただきます。
何か自分一人で頑張って生きているようで
実は私たちはみんな根っこでつながっているのです。
南無阿弥陀仏のお念仏のつながりです。
世の中のことはこれからも変わって行き
戸惑うこともたくさんありますが
私たちが生きる根っこのお念仏のみ教えは変わりません。
お釈迦さまから2500年の仏教伝播のなかで
親鸞さまから750年蓮如さまから500年の星霜を経て
今こここの私に届けられたお念仏のみ教えをいただいて
どうぞ皆さんの周りの方隣の人に
お念仏のみ教えを伝えてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.9)
満中陰のご縁でお葬儀の一連のお勤めが終わります
2021-06-08
昨日四十九日満中陰のご縁がありました。
遠方のご門徒さんでお寺の本堂でお勤めをして
その後円光寺墓地に納骨させていただきました。
お勤めが終わってご丁寧に
「おかげさまで有難うございました」と御礼を申されました。
大切なお方とお別れして四十九日が経って
満中陰という大きな節目のご縁です。
満中陰のご縁でお葬儀の一連のお勤めが終わることで
何か安心されたようなご様子でした。
「ようこそお勤めされました」と
言葉を返しました。
一人暮らしのお母さんで
ご高齢になって施設に入所されていました。
他家に嫁がれた娘さんばかりで
後のことがお互い心配だったと思います。
いろんなお話をされていたのではないでしょうか。
親子の縁につながったお互いですが
生活はそれぞれ違います。
親として子として出会って
別れていくということです。
仏事はこれから百か日初盆一周忌三回忌と続きます。
お浄土の仏さまと成って遺った私たちに
お念仏申す身になってくれよと
仏さまのご縁をつくってくださるのです。
懐かしいお母さんのお姿に会うことはかないませんが
この目で見える姿でお遺骨がお墓に納められて
これからお墓に会いにお参りされることだと思います。
お念仏のみ教えを聞かせていただきますと
私たちは命終わっても南無阿弥陀仏の大きなお慈悲の中に
つながってあるといわれます。
それは死んでから始まるつながりではなくて
もう今すでにこの私が生まれる前からつながってあると
聞かせていただきます。
今はこの目に懐かしいお姿を見ることはできませんし
懐かしい声を聞くことはできませんが
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
これからもずっとずっとつながって
仏さまとなってこの私を護って共に生きてくださるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.8)
自然のおはたらきにまかせて日々折々にお念仏の華を咲かせてまいりましょう
2021-06-07
梅雨のこの時期に咲くお花があります。
境内にはさつきの花が咲き
今は山法師の白い花が咲いてきました。
晴天の中よりしっとりと雨に濡れて
紫陽花や菖蒲、アヤメの花がよく似合います。
四季折々の営みの中にいろんなお花が咲いて
私たちを楽しませてくれます。
大自然の営みに生かされてお花もそして私たちも
いのちいっぱい咲かせて生きているのですね。
親鸞聖人はお念仏のお救いの法を
自然法爾(じねんほうに)といただかれました。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
自然を「おのずからしからしむ」と示され
私のはからいを一切はさまず
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせるのです。
私がどうこう思って行ってということではなく
阿弥陀さまがこの私をそのまま
お念仏を申す身にお育ていただくと聞かせていただきます。
仏教詩人坂村真民さんの代表的な詩に
「念ずれば花ひらく」があります。
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのことからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
母がいつも口にしていたお念仏を
私も口にするようにお育ていただいたのです。
お念仏のおはたらきです。
母が申すお念仏がそのまま私に届けられて
お念仏申す身にさせていただくのです。
今日も私の口からお念仏が出てくださいます。
お念仏申す身にさせていただいたのは
阿弥陀さまの仏さまのおはたらきですが
私たちのご先祖有縁の仏さまのお育てがあって
このしぶとい口からお念仏が出てくださったのですね。
今日も一日お念仏申す身のままに
お念仏の華を咲かせてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.7)
この目に見えるお遺骨となって仏法聞けよお念仏申す身になっておくれと仏さまのご催促です
2021-06-06
この前不燃物を捨てに佐野のゴミ焼却場に行きました。
使わなくなった家具や自転車といったもので
大きな深い穴底に捨ててくださいと職員さんに言われて
大きな物でもあり割れ物もあって恐る恐る捨てていたら
「思い切って放ってください」と言われました。
ゴミですがずっと家にあった思い出の品々で
心情的に中々複雑な思いがあります。
ずっと以前のことですが
送骨といって宅急便で送られてきたお遺骨を
お寺さんが受付けて合葬する話を思い出しました。
合葬する映像を観たときの衝撃です。
僧衣を着けたお坊さんが合葬墓にお遺骨をはこんで
大きなお墓の穴に骨壺をひっくり返して納骨されたのです。
何かゴミ捨て場にごみを
放り捨てるような光景に思えました。
今は納骨といいますと墓地や納骨堂に
お遺骨の入った骨壺をそのまま納骨するのが一般的です。
骨壺のままだと故人が特定されますが
合葬ではお遺骨を一処に合祀するということで
故人の判別はできなくなります。
お遺骨もこれから減ることはなく増えてきます。
現にお墓や納骨壇にご先祖のお遺骨が一杯で
これ以上入らないところがでてまいります。
これからの納骨のあり方として
合葬する手立ても考えていかねばならないでしょう。
ただ納骨の仕方等については
お遺族の心情に寄り添うことが大事になってきます。
今はお家のお墓が主流で個人墓は殆どありませんが
昔は土葬で個別に埋葬した所に墓碑を建てたお墓でした。
先日個人墓の納骨のご相談を受けました。
広い墓地一帯に個人墓が十基ほどありました。
その地に穴を掘ってお遺骨の入った骨壺を
埋葬されると言われます。
埋葬のあり方も様々ですが
要は後を見る方の問題です。
納骨埋葬したら終いではありません。
有縁の方が故人を訪ねる縁としてのお墓のあり方です。
北朝鮮拉致被害者家族の横田滋さんの
一周忌のニュースがありました。
一年経って祭壇に滋さんのお遺骨が納骨しないまま
置いてありました。
「めぐみちゃんが帰ってきた時にお父さんが
こんなに頑張ってあなたの帰りを待っていたのよ」と
目に見える形で報告して抱いてほしいと
妻の早紀江さんが話していました。
私たちは死んだら火葬されて遺骨になってしまいます。
「人間死んだらゴミになる」と言われても
お遺骨一つにそれぞれの思い入れがあるのです。
お遺骨の行く先です。
お遺骨を納める所があることの意味です。
有縁の方のお遺骨を納める人も
また同じ所に納められるということです。
南無阿弥陀仏のみ教えを聞かせていただいて
私たちはお念仏申してこの人生を生き抜き
命終わって阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ
仏さまに成らせていただくのです。
先に往かれた方もお浄土ならば
後に遺った私たちも同じお浄土に生まれて
再び会うことができると聞かせていただきます。
この目に見えるお遺骨となって
私たちにお念仏のみ教えを聞かせていただくご縁を
先に往かれた大切なお方が今もつくってくださっている
有難さ尊さです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.6)
スマホは本当に便利ですが…
2021-06-05
去年の2月にスマホに切り替えて一年が経ちました。
一年間のサービス期間が終わり
料金設定が上がったということで
昨日お店に行って確認させていただきました。
やっぱり上がっていました。
この一年間全く使っていない機能は解約するにしました。
日常使うものはほぼ決まっています。
最近頻繁に使っているのはユーチューブです。
懐かしい音楽が次々に気軽に聴けて本当に便利です。
そして気になる用語とか現代の新しい言葉を検索すると
すぐ教えてくれて本当に便利です。
本当に便利な代物ですが
ネットを使うことで
その分お金がかかることがわかりました。
何とこれまでの20%の増額料金になっていました。
スマホはまさに人工頭脳です。
スマホには百科事典が何冊も入っているということです。
私たちは学校で辞書の使い方を習いました。
「あいうえお」から繰っていきます。
ア行カ行サ行と続きます。
英語でいったらABCです。
スマホを使えば辞書を引かなくても
ピンポイントで調べものができるのです。
知識として覚えておかなくてもいいのです。
その都度スマホで知識が入手できるのです。
本当に便利ですが
その分お金がかかります。
さてネット社会の到来で便利になり時間の余裕ができて
心豊かな生活ができるようになったかというと
どうでしょうか。
例えばネットで即座に必要な知識を入手できるとして
それはこの身に身についたものではありません。
生活の中で身につけたものでありませんから
それを応用して考え新たな知識を身につけることには
なりません。
その時々のもので忘れても
ネットで検索すればいいのですが
本当に身についた知識という根っこの知恵がないと
私たちはどこまでも自分中心のものの見方で
自分の都合に合わせて生きていますから
自分の都合に合ったネット情報に
その都度振り回されることになるのではないでしょうか。
私たちが生きる根っこです。
生きる依りどころです。
お念仏のみ教えこそ私の生きる依りどころです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つにこの人生を生き抜き
命終わって阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ
仏のいのちにさせていただくみ教えです。
お念仏申す生活をさせていただきます。
あなたも私も分け隔てなく等しく救うてくださる
南無阿弥陀仏のお心おはたらきの中に
私たちは共々に生かされて生きていけるのです。
スマホは本当に便利ですが
スマホに使われるのではなくスマホを有効に使い
お念仏申して自他ともに心豊かに生きる生活を
させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.5)