「わが妻子を勧化せぬは、あさましきことなり」
2021-10-23
蓮如上人のお言葉です。
「わが妻子ほど不便なることなし。
これを勧化せぬは、あさましきことなり。
宿善なくばちからなし。
わが身ひとつ。
それを勧化せぬものがあるべきか」です。
私たちは家族と共に日々生活をしています。
親であったり妻や夫、子や孫、兄弟姉妹という
いつも自分の身近にいる家族のことが気になります。
私たちは他の誰よりも
わが家族の幸せを願って生きています。
この願いを実現するために
お金や物を提供さえしておればと思っているならば
それは的外れです。
生活する上でお金や物は確かに大切なもので
家族のことを大事に思うからこそなのですが
蓮如さまが言われるのは
お金や物はいつかは無くなる当てにならないもので
確かな生きる依りどころにはならないというのです。
それより大切なものは
世の中がどう変わろうが
この身の上に何が起ころうが
ビクともしない確かな「いのち」の依りどころです。
それは南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われる
お念仏のみ教えだよと勧めてくださるのです。
家族を不便に思ってお念仏を申せよと勧めても
自分自身がお念仏をよろこび申す身にならなかったら
一番身近で私を見ている家族は
口先だけのことかといぶかしく思い
真剣に仏法聴聞する気にならないことにもなるでしょう。
蓮如さまのお言葉のお心です。
「本当に妻子を思うならば妻子にみ教えを勧めるべきです。
それをしないほど悲しいことはありません」といわれて
「そのためにもまず自分自身が
み教えに遇わせてもらうことが何より大切です」
と教えていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.23)

「わかきとき、仏法はたしなめと候」
2021-10-22
蓮如上人のお言葉です。
「わかきとき、仏法はたしなめと候。
としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。
ただわかきとき、たしなめ」と
よくお寺のお話で引用される有名なお言葉です。
仏法は若い時にたしなめと聞いて
年輩の方が「若い時に聞いておけばよかった」と
歳をとったらもう遅いとでも受け止めたのでしょうか。
若い時というと、すぐ年齢のことを思って
20代30代の時と思うのでしょうが
若い時といって今なのです。
今ほど若い時はないのです。
過去の時を思っても
若い年齢の私に返ることはできないのですから
どうしようもないことです。
仏法に遇うのは早ければ早いほどいいです。
若ければ若いほどいいのです。
だからといって
年老いたものは仏法を聞く必要がない
ということではありません。
阿弥陀さまのご本願のおはたらきがすごいのは
若い時も老いた時も健康な時も病気の時も
私がどんな状況にあっても
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏となって
私とご一緒してくださる仏さまに成ってくださったのです。
確かに歳をとると
足が痛くてお寺に参れない
参っても足が痛くて座れない
座っても居眠りが多くなります。
そうしたことからも
一時も早く仏法聴聞のご縁に遇ってほしいとの
蓮如さまのお勧めといただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.22)

親鸞聖人の御罰
2021-10-21
私たち複数の人間が社会生活をしていると
どれほど仲のいい人間関係でも
時にはぶつかることがあります。
人人の思いはそれぞれ違います。
だからぶつからない方がかえって問題で
ぶつかることでお互いの胸の内がわかり
理解を深めることにもなります。
ただぶつかった後で
自分の悪かったところを素直にあやまらないばかりに
人間関係がこじれてしまうこともあるようです。
私たち人間のやることに
一から十まで正しいということもなければ
一から十まで間違っているということもないのですが
自分の非は認めず相手の非を責める私たちがいます。
蓮如上人のお言葉に
「たれのともがらも、われはわろきとおもふもの
ひとりとしてあるべからず。これしかしながら
聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり」
<誰も自分が悪いと思うものはいないというのは
親鸞聖人から罰を受けているすがたです>
とあります。
「親鸞聖人のお念仏のみ教えに遇って
自らを振り返る目を恵まれたら
このようなことにはならないだろう」と
蓮如上人は厳しく教えてくださったのです。
人と人との関係はお互い相手に向き合う時もあれば
背中合わせになる時もあります。
お念仏のみ教えに遇って
私たちは共々に阿弥陀さまの大悲の中に
生かされていることを聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.21)

世間話とご法話
2021-10-20
ご法話は仏德讃嘆のお話です。
阿弥陀さまの本願念仏のお心南無阿弥陀仏のおはたらきを
よろこびほめたたえるのがご法話です。
一方世間話は人のうわさ話が中心です。
私たちの興味をそそる話で
ついつい耳をそばだてて聞き入ります。
話し合い法座で仏法の話がいつのまにか
世間話に変わってしまうことがあります。
蓮如上人の頃もそういうことがあったようで
「仏法のことをいふに、世間のことにとりなす人のみなり」
<法話であってもすぐに世間話に変えてしまう人がいる>
と言われています。
仏法のお話が世間話になると
嫌気がさして投げ出してしまいそうですが
蓮如さまは
「それを退屈せずして、また仏法のことにとりなせ」
<世間話になったからと投げ出せば
話はいつも世間話で終わってしまいます。
それをもう一度、仏德讃嘆の話に引き戻すように
仕向けるのが、み教えに遇った者の務めです>
とお示しくださいました。
ご法座の最後に蓮如さまがお届けくださった
御文章さまを拝読させていただきます。
世間話で終わりそうなところを仏法の話に戻し
「聖人一流のご勧化の趣は」と浄土真宗の肝要を
聞かせていただくのです。
ご法座にお参りされた皆さんの心が落ち着き
安心のなかに仏さまのご縁をいただいて
それぞれの生活に帰るのです。
世間に生きる私たちの話は専ら世間話です。
そのなかに仏法の話を聞かせていただくことの有難さです。
私たちの生きる依りどころ死して帰するところを
聞かせていただきます。
お念仏を申す生活です。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心おはたらきの中に
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.20)

お念仏よろこび申す身にさせていただく
2021-10-19
人の話を聞いて「わかった」といっても
いろんなわかり方があります。
頭で理解できたというわかったもありますし
心で共感できたのもわかったということでしょう。
仏教では領解(りょうげ)という言葉で
わかったと味わいます。
領解とは頭でも心でもなく
身に受けとめることができたということです。
頭の理解は、上手な説明があればできますし
心の共感は、上手なお話にあえば生まれてきますが
身の領解は、み教えを身にかけてよろこんでいる人の
よろこびに遇わなければ開けてこないようです。
仏法聴聞は頭でも心でもなく身にうけとめて聞くことで
お念仏を申す身にさせていただくのです。
口先でお念仏を申すことではなく
声に出さずに心の中でお念仏を申すという
ことでもありません。
お念仏を申す身になってお念仏に生きる
お念仏を申す生活です。
縁にふれてこの口からお念仏が出てくださいます。
仏さまのお喚び声を聞かせていただきます。
蓮如上人は
「御一流の義を、承はりたるひとは有とも
聞うる人は少なりといへり。
信をうる機まれなりといへる意なり」
<ご法義の言葉の表面だけを聞いている人はあるが
その言葉の奥にあるこころといいますか
よろこびを受けとる人は少ない>
と言われました。
阿弥陀如来の大悲のお救いのお心を領解する人
真に受けとる人信心の人は稀であるといわれたのです。
頭で心で分かったという人がいるけれども
この身に受けて聞かせていただく人は少ないというのです。
お念仏を申す身にさせていただくことの有難さです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に日暮らしさせていただき
お念仏申す身のままに命終えて阿弥陀さまのお浄土に
南無阿弥陀仏となって生まれさせていただけると
よろこばせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.19)
