「私の願いは 自己中心の願い 真実の願いに 耳を傾けよう」
2021-09-03
昨日お話しました
皆さんの前に毎朝繰っていただいている
『日めぐり歎異抄』の日々のことばについて
これから一か月お話させていただきます。
皆さんに本願寺出版社発行の『歎異抄』の冊子と
『日めぐり歎異抄~現代のことばで味わう~』
(小池秀章師著)を
パソコンでおこしたフアイルを差し上げます。
難しい仏教用語もありますが
声に出して読んで味わっていただきたいと思います。
本日3日のことばは
「私の願いは 自己中心の願い 真実の願いに
耳を傾けよう」です。
歎異抄の本文では第一条の
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」で
「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつ
こころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
と続きます。
浄土真宗の教えの肝要を簡潔に表現した有名な御文です。
3日のことばの現代語表現の解説です。
<私の願いは、自分の欲望を満たそうとする
自己中心の願い。
阿弥陀さまの願いは、智慧と慈悲の領域から出てきた
真実の願い。
すべての人を必ず救うという願いであるとともに
それがかなわなければ仏に成らないという
誓いでもあるので、誓願という。
真実の願いに出遇わせていただこう>と。
私の願いと阿弥陀さまの願いです。
願いをもって生きるのが私たち人間だといわれますが
その願いは私たち人それぞれで違います。
私の願いが思い通りになればいいのでしょうが
私の願いはどこまでも自己中心の願いで
私たちが共に生きる社会の中では思い通りに行かなくて
他の人と衝突したり私の苦悩の原因にもなります。
阿弥陀さまの願いは十方衆生に開かれた大きな願いで
私たちは阿弥陀さまの願いの中に生きているというのです。
阿弥陀さまは迷いの世界に苦悩する私たちを見てとって
大悲のお心ですべてのものをそのまま救うと本願をたて
南無阿弥陀仏の名号に成就仕上げられて
私たちを喚び通しに喚んでくださっているといいます。
お念仏申せよ「わが名をよんでくれよ」と
おはたらきです。
お念仏申すところにいつでもどこでもどんな人にも
阿弥陀さまがご一緒してくださっているのです。
阿弥陀さまの真実の願いお慈悲の中に共々に生かされて
生きている私たちであると知らされて
日々のいろんなことがありますが
お念仏申して阿弥陀さまのお浄土への人生を
共々に生き抜かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.3)
「自分勝手な ものの見方が 真実を 見えなくしている」
2021-09-02
毎日MYさんがめくってくださる歎異抄のことばです。
仏さまにお仏飯をお供えし外陣の香炉にお線香を焚きます。
日頃は歎異抄のことばの前をすっと通り抜けるのですが
今日は目にすっと入ってきて有難いなあと思いました。
「自分勝手な ものの見方が 真実を 見えなくしている」
昨日1日のことばです。
歎異抄からいただいた言葉を著者が現代のことばで
味わったものです。
原文は「まったく自見の覚悟をもって
他力の宗旨を乱ることなかれ」という
歎異抄の序文のお言葉です。
<「私の自分勝手な思い(自見の覚悟)で
阿弥陀さまのおはたらき(他力の教え)を
判断してはならない」
それは、私の思いの中に阿弥陀さまを閉じ込めてしまう
ことになるからである。阿弥陀さま(他力の教え)が
私の自分勝手なものの考え方の枠組みを破り
真実の教えに導いてくださるのである>
と解説されています。
お聖教という仏さまのお言葉についてのことですが
私たちの日々の生活のあり様にも通じることばです。
私たちの生活ぶりはそれぞれ異なり
共に同じ社会をそれぞれ違う立ち位置で生きています。
それぞれものの見方考え方も異なりますが
自分中心の思いで生きているのが
私たちのありのままの生活です。
自分の思いといって自分の都合にかなったものの見方で
自分勝手なものの考え方に通じます。
この人生が自分の思い通りに行けば
それはそれでいいのでしょうが
自分一人で生きている社会ではありませんから
それぞれ不都合なことも多くあります。
自分の思い都合にかなったものは善くて
都合にかなわないものは悪いという見方で
私たちそれぞれが生きると
人と人との関係で互いに付いたり離れたりを繰り返し
今は近くて仲の良い者もある時には遠ざけて
背中合わせになり対立して喧嘩になったりします。
まさに愛憎の中に苦悩し迷う
私たちのすがたです。
これまでの人生の経験からうまく人間関係を保って
生活していくのが人間の知恵です。
自分の思い通りに行かない時はじっと我慢も大事ですが
周囲の意見に合わせるように自分の思いを曲げることも
中々できないところです。
自らを反省するところもたくさんありますが
素直に「ごめんなさい」と謝れない私がいます。
今日2日のことばは
「一つの言葉との 出遇いが 私の人生を
支えてくれることもある」です。
「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ
いささかこれを注す」(歎異抄序文)
<ありがたいことに、親鸞聖人の弟子の唯円が書いたと
言われている『歎異抄』の中に、親鸞聖人の言葉が
書き残されている。
その言葉が、私の人生を支えてくれる。
真実の言葉に耳を傾けよう>と。
ちょっと乱暴な言い方になりますが
自分勝手なものの見方で生きる私たちお互いが
言うことすること思うことって全てが
仏さまからいうと虚仮不実というのです。
そうした自分中心の思いで生きて苦悩している私たちに
仏さまは真実の言葉を示され真実の世界に導かれるのです。
真実の言葉に遇うことの有難さです。
ほっとします。
自分の立ち位置を気づかせてくださり
安心します。
お念仏申すご縁を仏さまからいただいているという
有難さです。
ただ我が身は変わりません。
どこまでも自分中心の欲の心怒りの心愚かな心を
兼ね備えた煩悩具足の凡夫の身です。
この凡夫の身を阿弥陀さまのご尊前に座らせていただき
そのままお念仏を申す身にさせていただく
南無阿弥陀仏のお心おはたらきをいっぱいいただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.2)
日々の生活の節目にお念仏を申しましょう
2021-09-01
9月になりました。
新しい月です。
毎月一日の月の初めには
気分一新して新たな気持ちで始めようということですが
コロナ禍が一年半以上も続き
これまでの生活が随分変わりました。
節目という言い方をします。
人生の様々な節目にあって
私たちはこれまでの人生を振り返り
これからの人生を思い描いて生きてきました。
人それぞれの個々の節目もあれば
所属する地域社会や会社等組織の行事も
私たちが生きる人生の大きな節目になります。
私たちは人それぞれに生活ぶりは違いますが
他の人と共に取り組む行事に向き合い
共通の目標を立ててそれぞれの生活をやりくりしながら
お互いに準備を進め実行していきます。
そして目の前の行事を終えて次の行事に向かうという
共通の行事が節目節目にあって
私たちそれぞれの日々の生活があります。
ところが今はそうした節目の行事や活動ができなくなり
何を当面の目標にするのかが人それぞれにバラバラで
わからなくなってきたのではないでしょうか。
学校もコロナ感染対策で授業形態が随分変わり
それぞれの家庭の日常生活が大きく変化しました。
通常は二学期が始まる9月1日の大きな節目にあって
新たな気持ちでみんな一緒に始めようということですが
感染対策を講じた変則的な日常の中にあって
何かずるずると毎日が過ぎ去っていくような感じです。
人生の節目日々の生活の節目がないままに
日々が過ぎ行き今日で一年の三分の二が過ぎて
今年も後四カ月になりました。
個々の節目もそうですが
共通した節目がないなかでの人生の道行きです。
一人一人がその日その日を暮らしていくのですが
自分一人で生きているのではなく
そこに他の人がいるということです。
私の隣に人がいて
同じ目標に向かって生きていける日々の生活の節目です。
このお朝事を日々の生活の節目のご縁と
いただいたらどうでしょうか。
阿弥陀さまのお浄土に向かって共に生きて往く
お念仏を申す生活の節目です。
阿弥陀さまのご尊前にご一緒させていただき
お念仏を申すなかに今日の一日を
お浄土への人生の道行きを始めさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.1)
8月31日夏休み最後の日です
2021-08-31
8月31日です。
小学生の頃夏休みの最後の日で
あまり良い思い出がありません。
宿題で済ませていなかった工作を
最後の最後になって言い出して
家族中に夜遅くまで手伝ってもらい
「何で早うしとかんかったの」などと
叱られながら涙ながらにした思い出です。
楽しかった夏休みの最後はほろ苦い思い出で終わり
明日9月1日の始業式を迎えます。
31日の御文章さまは「大聖世尊章」です。
お釈迦さまがこの無常の世にあって
人間に生まれたのは仏法に遇うためだよと
阿弥陀如来の本願を信じ
お念仏を申す身にさせていただくために
人間に生まれて来たんだよと仏法聴聞をお勧めです。
人間に生まれたからにはどんな人も
いつか必ず命を終えていくけれども
人の命終えて死んだら終いではなくて
阿弥陀如来のお浄土に生まれさせていただけると
仏法を聞いて本断を信じてお念仏申す身になってくれよと
重ねてお念仏をお勧めなのです。
お浄土に生まれたらそのままさとりの仏さまとなって
この迷いの世に還って来て有縁のものを救う活動をすると
南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのつながりのなかに
先に往かれた人も後に遺った人も共々に
生かされて生きてあるんだよと聞かせていただきます。
長くて楽しい夏休みのなかに
泣く泣く過ごした8月31日もまた過ぎて
明日は9月1日は久しぶりに学校で先生や友だちにまた会えます。
それぞれ苦楽の人生を生きるなかに
私たちは共々に阿弥陀さまのお慈悲の中に
これからもずっとつながってあるということです。
この人生日々の日暮らしは何か繰り返しのようですが
今年の8月31日です。
もう幾つになりましたか?
人生の宿題は済みましたか?
お念仏を申して仏さまと共々に
お浄土への人生を生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.31)
夏の高校野球決勝戦から
2021-08-30
未だ収束の兆しが見えないコロナ禍のなかに
オリンピックパラリンピックが続き
昨日は夏の全国高校野球の決勝戦がありました。
奈良の智弁学園と智弁和歌山の
甲子園ではおなじみの兄弟校同士の
いつもの同じようなチームの対戦で
あまり興味がなく時々チャンネルを変えて観ていました。
ただ今朝の新聞を読むと興味深い記事でした。
優勝した智弁和歌山の中谷監督は元プロ野球阪神の選手で
キャプテンで出場した甲子園で全国優勝し
その時の有名な高島監督が3年前に引退して
中谷さんが監督に就任したということです。
もう一つは去年あのイチローさんが
智弁和歌山高校に指導にみえたということです。
今はプロアマの隔てが段々となくなって交流が進み
元プロ野球選手でもアマチュア野球の指導ができるのです。
イチローさんからは野球の技術だけではなく
野球に取り組む心構えを教わったという記事です。
9回の最後の守備に向かった智弁和歌山の内野手が
片ひざをついて手のひらで丁寧に土をならし
定位置に就いたという記事です。
グラウンドが荒れるたびに繰り返し行われた
大会を通じての光景といいます。
グラウンドがあっての野球です。
このたびの大会は雨天で日程が7日間順延変更になり
今までで一番遅い決勝戦になったということです。
ある試合では降りしきる雨の中で強烈なゴロが
大きな水溜まりに止まって記録はヒットになりました。
野球といって人人がすることですが
そこにグラウンドがあって炎天下の甲子園ですね。
大会期間中選手にコロナ感染者が出て
やむなく試合を辞退したチームが二校ありました。
さまざまな自然社会の環境の中に
私たちの生活があり
周りの方々をはじめいろんなおかげさまのなかに
一人一人一つ一つのドラマがあるということです。
パラリンピックもそうです。
私たちはメダルを獲ったとか金か銀か銅かということに
目が行きがちですが
たとえメダルに届かなくても
それまでの人生の過程においてそれぞれのドラマがあり
そこには多くの方々の支えがあるということに
気づかせていただくことこそ
人生の金メダル大きな宝ものと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.30)