お念仏の声がわが身についてくださる
2021-06-19
今日6月19日は語呂合わせで
「朗読の日」だそうです。
朗読とは声に出して本を読むことで
かつては一般的な読書法でしたが
今は黙読で目で読んで頭で理解するということです。
日本の社会では少し前まで
一般の人に読み書きの教育を受ける機会がなく
字を読める人は少なかったといいます。
字を読める人が朗読する声を聞いて
本を読んでいたというのです。
親鸞聖人の時代も蓮如上人の時代も
私たちのお念仏の先人は字を読めなくても
お正信偈や御文章を読んでいました。
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と
耳で聞いてこの身につけて声に出していたのです。
そのお念仏の声が隣の人に子や孫に伝わり
私のところに届けられたのです。
声に出してお勤めをさせていただきます。
お念仏の朗読です。
読書は口で読んで身に聞かすことで
読んだことが身につき生きる力になるとお聞きします。
声に出して身に聞かせるというのです。
お念仏の声が耳から入ってお念仏が身につき
生きる力になるのです。
今は皆さんそれぞれに自分の思い思いで
読みたい本を黙読します。
皆が声に出したらバラバラでやかましく
かえって読書を邪魔します。
それで目で読むのです。
今日も皆さんご一緒にお正信偈さまを
お勤めさせていただきました。
同じ本を皆が声に出して読むことで身につくのです。
声に出すことで周りの人のお互いの声が聞こえます。
隣の人に聞かすために声を出すのではありませんが
自ら発する声と皆さんの声が相まって
お念仏の声がわが身についてくださり
隣の人に子や孫に自ずから伝えられていく
南無阿弥陀仏のご法義の有難さです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.19)
お念仏申して一つになれる
2021-06-18
東京五輪の開催が一カ月余りに迫って
各競技で最終的な代表選手選考が行われています。
陸上や水泳の個人競技の選手選考は
五輪標準記録と最終選考レースの着順で決まり
誰にでもわかりやすい仕組みになっていますが
団体競技については
選考基準が明確でなく大変難しいです。
野球日本代表の24選手が発表されました。
選ばれた選手をみてえっと思いました。
今ペナントレースの真っ最中で
今シーズンの成績だけを考えれば
とてもベストメンバーとは言えないからです。
これまでの実績は申し分ありませんが
故障あがりの人や調子が上がらない人もいます。
稲葉監督は「ジャパンに熱い思いをもった選手たちと
オリンピックを戦いたい」と強い信念をもって語ります。
色々迷うこともあったと思いますが
日本代表監督として何度も世界大会で優勝した
巨人の原監督の「最後はハートだから。
この選手とやりたいという選手を呼べば
一つのチームになる」というアドバイスが
心に残っているといいます。
うんと思いました。
私たちは人それぞれに思いをもって生きています。
それらの思いが一つに集まれば
すごい力を発揮することになるのですが
個々の思いはそれぞれ違って移ろいやすいのです。
思い通りにいかないと
我他彼此と亀裂が入り苦悩の原因になります。
お寺のことでいえばご門徒皆さんのお寺への思いです。
お寺に熱い思いを寄せていただいてお寺が生きるのです。
その思いは私の自分勝手な思いではなくて
阿弥陀さまの願い南無阿弥陀仏のお心おはたらきに
お育ていただくお念仏の思いです。
阿弥陀さまの願いは誰彼と私たちを選ぶのではなく
すべてのものを分け隔てなく救うというご本願のお心です。
私たち一人一人にかけられている大きな願いを
お寺にお参りして共々に聞かせていただき
お念仏申して私にできる仏さまのお手伝いを
精いっぱいさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.18)
さまざまな葬儀のかたち
2021-06-17
昨日午前中ご門徒のお家のお仏壇阿弥陀さまのご尊前で
お葬儀のお勤めをさせていただきました。
葬儀社の方と一度も顔を合わせることなく
こういう葬儀もできるんだなという感想です。
死亡届に始まり火葬することについて
葬儀社にお願いすることのなかで
必要最小限のお棺や霊きゅう車の手配等
喪主と葬儀社との話で済むことです。
お寺の住職は葬儀の導師として
お勤めをさせていただきますが
お通夜にお参りして備わっていないお道具を確認し
葬儀に必要なお道具をお寺から持参しました。
葬儀のお勤めはどんな人も変わりません。
会社の社長の社葬であっても政治家の葬儀でも
お参りの方の多い少ないに関係なくです。
葬儀のかたちはそれぞれあるということです。
こうしないといけないということではありません。
ただ浄土真宗の葬儀はご本尊の阿弥陀さまを
中心とした葬儀ということは大事なポイントです。
今は家族葬といわれる小規模の葬儀が主流ですが
昨日のお家での葬儀も先日のあんのん館での葬儀も
ご本尊の阿弥陀さまのご尊前で
家族そして本当に近い親族の方6、7人のお参りでした。
少人数だからできる葬儀ということでもあります。
昔はお家で葬儀を行うのが一般的でしたが
昔と今とでは家自体の造りが違い
大人数はとても収容できません。
そして少しでも人が集まると車で来ますので
駐車場が必要になり
設備が整った葬儀社での葬儀になるのです。
自宅での葬儀がいいのは
これまでずっと日暮らししてきた生活の場でのご縁です。
喪主の方が「二日間一緒にこの家で過ごすことができて
よかったです」と言っていました。
葬儀社だったらゆっくりできるのではありません。
葬儀社の方が時間から時間に追われるようなことです。
どれが良くてどれが悪いという話ではありません。
そのお家お家の事情そしてご遺族のお気持ち思いです。
お葬儀のお勤めを終えて外に出たら
凄い雨の中を近所の方が20人ほど
傘をさしてお見送りでした。
有難いことです。
日頃からのお付き合いがあってのお葬儀のお見送りです。
私たちのご法義でいったら
日頃からのお念仏のご縁つながりがあって
南無阿弥陀仏とお念仏申してお浄土に送っていけるのです。
そして南無阿弥陀仏と還って来てくださる
お念仏のお救いのご法義を
また有難く聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.17)
お寺の住職とご門徒さんのお念仏のご縁つながり
2021-06-16
お葬儀が続きます。
お寺の住職の勤めはいろいろありますが
ご門徒のお葬儀の導師を勤めることは大事な一つです。
ご門徒の方が亡くなったと連絡を受けて
臨終勤行に参ります。
お勤めの後でお通夜お葬儀の日程をご相談し
お通夜のお勤めお葬儀のお勤めをさせていただき
火葬場からお寺に還ってみえて還骨お礼参のお勤め
初七日に始まる中陰の期間の七日七日そして満中陰と
葬儀の一連のお勤めのご縁が続きます。
何件か続きますとふっとため息が出たり
「疲れた」という言葉が漏れるようになりました。
坊守から「疲れてますね」と声がかかります。
そうですね。
一人の人が生まれて生きて命終えていくのです。
その人人の人生それぞれですが
いろんなご苦労もあったと思います。
その人の命終える最期のご縁をご一緒させていただいて
阿弥陀さまのお浄土に送らせていただくのです。
単なる通過儀礼ではありません。
大切な方とお別れする悲しいご縁ですが
先に往かれた人も後に遺った人も共々に
仏さまのご縁に遇わせていただくのです。
実は常日頃からお寺の住職とご門徒のご縁つながりで
私たちは共々に仏さまのご縁をいただいているのですが
仏法を聞かせていただくご縁に遇うことは
本当に難しいことです。
どんな人もこの人の世に生まれて生きて
そして命終えていく時が来ます。
命終の時にお寺とご門徒のご縁で
そのお寺の住職にお勤めをしていただきます。
そうしたご縁を日頃からいただいているということです。
葬儀のあり方が変わってきました。
コロナの時代ということもあるのでしょうが
これからも変わって行くのではないでしょうか。
直葬といって
葬儀自体をしなくて火葬場に直行して火葬されるのです。
お経をあげてもらうことはしても
決まったお寺のお坊さんではなく
その時だけのご縁のお坊さんです。
お経だったら何でもいい
お坊さんだったら誰でもいいとでもいうのでしょうか。
そうしたお葬儀が都会の方を中心に
大分でも増えているとお聞きします。
自分たちの都合に合った便利なお坊さんが
求められているのです。
逆に日頃のお寺とご門徒のご縁つながりは
敬遠されているようです。
お寺とご門徒の関係は
日頃から仏さまのご縁につながってあるのです。
昨日のお通夜のご縁に故人の生前の思い出話を
させていただきました。
仏さまのお話です。
どこに行って何をした楽しかったというお話も含めて
その中心に必ず仏さまがいらっしゃったというお話です。
そしてこれからもお浄土の仏さまとなって
南無阿弥陀仏のご縁つながりのなかに共々に
生かされて生きるお念仏申す生活のお話です。
お念仏は死んでから用事のあるものではありません。
日々の生活の中に聞かせていただく仏さまのご縁です。
お寺を預かる住職とご門徒皆さんの
お念仏のご縁つながりをあらためて有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.16)
大切な方のお遺骨が私に語りかけること
2021-06-15
最近二件お墓に関する同じようなご相談を受けました。
お遺骨を納骨するお墓は「〇○家の墓」が一般的です。
お家のお墓に事情があってお家から出た方のお遺骨を
納骨してもいいですかというご相談です。
元々はそのお家とご縁のあった方で
ご縁のない方をお墓に入れるという話ではありません。
後に遺ったご家族有縁の方々の思い
いろんなこだわり思いはからいです。
一旦家を出た者がその家のお墓に入ると
いざこざが起きて後の者に悪いことがあると言われると
何かわかりやすいですが確証はありません。
この墓は「〇○家の墓」であって
その家の者しか入れないというのです。
ただお墓の事情がこれまでと大分違ってきてます。
お家の墓だけではなく個人墓やご夫婦の墓
そしてお友だち同士の墓とか
特に東京など都会の方では納骨堂が一般的になっています。
お家のお墓の後を見る人がいないという
現実の問題もありますが
「子どもに迷惑をかけたくない」という親心が
お家の墓を閉まって自分たちの入る所を決め
子どもは自分たちでお墓を見つければいいというのです。
今のお家のあり方に重なります。
親の家、子どもの家、孫の家とそれぞれです。
自分たちの生活に合わせたお墓の選択です。
子や孫にとっては親のお墓は遠方になることもありますが
それはそれで参ってくれればいいということです。
いつかお話したことです。
田舎から東京に出てきて就職し家庭をもたれた方が
故郷の先祖のお墓を閉まって
家の近くに新たにお墓を求めようと子どもに相談したら
東京で生まれ育った子どもから
父さん母さんじいちゃんばあちゃんのお墓がある所が
自分たちの故郷でお墓参りに帰れる所と言ってもらって
故郷のお墓を子どもたちに守ってもらうことにした
というお話です。
お墓一つについても
いろんな見方がそれぞれ違うということです。
こうしなさいこうしないといけないというのではなく
それぞれのお家のご事情をよく聞いて
お寺でご相談させていただきたいと思います。
私の遺骨の行方です。
後のことは後の人が決めることですが
後の人が困らないように元気なうちに話して
相談しておくことです。
お墓に納骨した後でお遺骨を取り出して見る人は
殆どいないと思いますが
たまにはお遺骨を開けて見るといいといいます。
この目に見て大切な方を偲ぶなかで
お遺骨が語ってくれるといいます。
身近なところでいうとお父さんお母さんでしょうか
「おまえどうしとるか?」と
お遺骨になっても私のことを心配してくださる有難さです。
南無阿弥陀仏とお念仏申して御礼をさせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.15)