「煩悩だらけの あなたを助けたい」
2021-09-08
今日8日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「煩悩だらけの あなたを助けたい」です。
本文は第一条の「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を
たすけんがための願にまします」です。
<罪深く、煩悩だらけの人間(私)を助けるために
阿弥陀さまは、願いを起こしてくださったのである。
立派な人(善人)のみを助ける宗教とは根本的に違う>
「善いことをしなさい、善いことをしたら救われる」
と説かれる宗教は私たちの理解できるところです。
仏に成る仏道も、仏さまの教えを信じ教えの通りに
諸善万行を積み重ねて仏のさとりに至ると説かれます。
ただ阿弥陀さまは諸善万行どころが
一つとして末通った善いことができない
縁がととのえばどんな悪いこともしかねない
救われようのないこの私の真実のすがたを
罪悪深重煩悩熾盛の衆生と見てとられたのです。
「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と
おほせられたる」(歎異抄第九条)と
阿弥陀さまはかねてより私たちを
あらゆる煩悩をもった凡夫であるとお見通しであると
親鸞聖人はご自身を煩悩具足の凡夫と
そして罪悪深重の凡夫とも言われました。
阿弥陀さまの智慧の光明の照らし出された
わが身の真実のすがたといただかれたのです。
そして今ここ私のところに阿弥陀さまの光明が
至り届いておはたらきだといただかれたのです。
今日の御文章さまに
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」
(光明はあまねく十方世界を照らし
念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)と
観無量寿経のお言葉をいただきました。
阿弥陀さまの力強いお救いのおはたらきであり
大きな安心とよろこびをいただきます。
阿弥陀さまの光明に照らし出され
罪悪深重煩悩具足の我が身を知らされて
そのまま救わずにはおかないと
南無阿弥陀仏のおはたらきに
摂め取って捨てないというのです。
私たちは老少・善悪・賢愚といった
相対的な価値観に執われ苦悩し生きています。
老少・善悪・賢愚を超えてどんな人もそのまま救う
南無阿弥陀仏の絶対的なおはたらきにおまかせして
お念仏申して今日の一日も
南無阿弥陀仏の大悲の中を
仏さまと共に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.8)
「どんな人でも どんな状況にあっても 見捨てない」
2021-09-07
今日7日の『日めぐり歎異抄』のことばです。
「どんな人でも どんな状況にあっても 決して見捨てない」
本文は『歎異抄』第一条の
「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず
ただ信心を要とすとしるべし」です。
<阿弥陀さまは、老人も若者も、善人も悪人も
どんな人でも分け隔てなく慈しんでくさる。
若い時も老いた時も
善いことをしている時も悪いことをしている時も
どんな時でも見捨てず慈しんでくださる。
そんな阿弥陀さまの大きな心に出遇わせていただこう>
この「老少・善悪のひとをえらばれず」を
そのまま老人も若者も善人も悪人もといただくと
今の私の状況をいわれているようですが
若い時も老いた時も
善いことをしている時も悪いことをしている時もというと
ずっとこれまでも変わらず私のことを見てくださっている
阿弥陀さまの大悲のお心を知らされて
安心します。
私がどんな状況にあっても
阿弥陀さまは私を見捨てることなく
ずっとご一緒してくださっていたのですね。
「こうしなさい」「こんなことをしてはいけない」と
注文一つ告げることなく
「私がいるよ大丈夫だよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となって
ご一緒だったのですね。
縁がととのえばどんな悪いことでもしかねない私を
放っておけずいつでもどこでも寄り添って
「わが名をよんでくれよ」と
おはたらきなのですね。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中にあったのですね。
そしてこれからも大悲の中を共々に生かされて
阿弥陀さまのお浄土に生きて往くのですね。
今日も一日お念仏申して
阿弥陀さまがご一緒の日暮らしをさせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.7)
「真実に背き 真実から逃げても 真実に包まれている」
2021-09-06
今日6日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「真実に背き 真実から逃げても 真実に包まれている」
本文は『歎異抄』第一条の
「摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」です。
<阿弥陀さまに背を向け、真実から逃げている私を
追いかけて抱き取り、導いてくださる。
それが阿弥陀さまの「摂取不捨(摂め取って捨てない)」
の心である>と。
阿弥陀さまは摂取不捨の仏さまと言われます。
すべてのものをそのまま必ず摂め取って捨てない
お慈悲のお救いの仏さまです。
私たちは阿弥陀さまに背を向け
真実から逃げているとの仏さまの思し召しなのです。
私たちの日々の生活です。
私が私がとどこまでも自己中心に生きて
私のことで精いっぱい生きることで精いっぱいで
仏さまのお心からは遠い遠い存在の私です。
その私を大悲のお心で見てとられた阿弥陀さまは
この私をこそ必ず救うとご本願をたてられ
南無阿弥陀仏のお名号を成就されて
「われにまかせよ必ず救う」とおはたらきなのです。
この口から今日も南無阿弥陀仏と
お念仏が出てくださいました。
もうすでに今ここに阿弥陀さまの大きなお慈悲の
ど真ん中に生かされてあると聞かせていただきます。
ただ私たちの日々の生活は
これからも私が私がと自己中心に明け暮れします。
そんな私を放っておけないと阿弥陀さまは
私をどこまでも追いかけて南無阿弥陀仏と
喚び通しに喚んでくださるのです。
お念仏のお喚び声となって
阿弥陀さまがいつでもどこでも
私のところに来てくださって
ご一緒してくださっているのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申して
今日も一日阿弥陀さまの大きなお慈悲に抱かれて
往生浄土の道を共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.6)
「まことの言葉を 受け容れた時 生きる方向が定まる」
2021-09-05
今日5日の『日がわり歎異抄』のことばは
「まことの言葉を 受け容れた時 生きる方向が定まる」
本文は『歎異抄』第一条の
「往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」です。
この前文に
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」とあり
この後に
「すなはち摂取不捨の利益に
あづけしめたまふなり」と続きます。
現代語訳は
<念仏という行為の見返りとして
救いが与えられるのではない。
阿弥陀さまの言葉をまことと受け容れた時
救いが成立するのである。
救いとは、生きる方向が定まることである>です。
親鸞さまは法然さまから
「どんな人も念仏一つで救われる」と聞いて
専修念仏のみ教えに帰依しました。
その念仏とは阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきで
他力の念仏といい
私が申す念仏であってそのまま阿弥陀さまの
「まかせよ救う」のお喚び声といただかれたのです。
念仏は私の救いの条件ではなく
阿弥陀さまのお救いの功徳が円かに満たされた
万徳施名の阿弥陀さまのおはたらきそのものであり
阿弥陀さまのお心をいただいた時すでに
私たちは南無阿弥陀仏の大悲の中に生かされているのです。
阿弥陀さまの大悲の中を生き抜いて
人の命終わる時そのまま阿弥陀さまのお浄土に往生し
仏と成ってすぐさまこの迷いの世に還って来て
迷いの衆生を救うおはたらきを始めるのです。
お念仏が救いの条件になると
人それぞれに念仏申す相が異なり
救われる人と救われない人という誤った見方にもなります.
阿弥陀さまのご本願は「すべての人を必ず救う」と
おはたらきですから
そのお心をまことの言葉と受け容れる
本願を信じて疑わないと信心をいただくのです。
信心いただく時に私の救いが成立するのです。
阿弥陀さまのお浄土に往生してさとりの仏に成ることが
決定するのです。
生きる方向が定まるのです。
阿弥陀さまが決めてくださった往生浄土です。
お念仏申しつつ阿弥陀さまのお心を聞きながら
確かに確かにお浄土への人生を歩ませていただく
今日の一日を安心して生き抜かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.5)
「すべての人を 平等に慈しむ そんな大きな心に 包まれている」
2021-09-04
今日4日の『日めぐり歎異抄』のことば
「すべての人を 平等に慈しむ そんな大きな心に
包まれている」です。
本文は昨日と同じ『歎異抄』第一条の
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」です。
現代語訳に
<「すべての人を必ず救う」という阿弥陀さまの願いは
「善人は救われ、悪人は救われない」と
人を分け隔てしている私の思いを超えている(不思議)。
そんな願いに出遇った時
私の小さな思いが打ち破られる>とあります。
私たち人間の知恵を分別といいます。
あの人は分別のある人というと
社会的な常識を兼ね備えた知恵の人というのでしょう。
一方分別がない人というのは
世間の常識に疎く自分勝手な言動をとる
子どものような人とでもいうのでしょうか。
共に社会生活を営む私たちの思いでいうと
善悪の分別のある人は尊ばれますが
善悪の分別がない人には近づいたら
どんなことになるかもしれないと敬遠するのが
私たちではないでしょうか。
仏さまの智慧仏智は無分別智といいます。
無分別といって私たちがいう分別が無いのではなく
善悪の分別を超えた智慧仏さまのおさとりのお心です。
昨日菅首相が自民党総裁選挙に出馬しないと表明し
事実上の首相退陣が決まったということで
今朝の朝刊各紙共に第一面に大きな見出しで伝えています。
一年前安倍前首相の突然の辞任で総裁選挙があり
菅さんの船にみんなが一斉に乗って総裁選に大勝し
首相として華々しく船出したわけです。
ところがこの一年コロナ禍のなかで
政策が思うように行かず支持率が転落傾向にある中で
任期満了を控えての総選挙です。
泥船に乗りたくないと菅船長を見放した格好です。
宝の船といったり泥船と分別しているのは一体誰か
総裁選でいったら自民党関係者ですが
結局は私の思い都合で右往左往している私たちです。
善い悪いと人を分け隔てしては
自らの思い悩み苦しむ私たちを見てとって
阿弥陀さまは「すべての人を必ず救う」と願い
南無阿弥陀仏とおはたらきです。
縁がととのえば悪いことでもしかねないこの私に
お念仏申して我が国に生まれて来いよと喚び通しの
阿弥陀さまのお心を聞かせていただき
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきの中に
今日も日暮らしをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.4)