絶対大丈夫の仏さま南無阿弥陀仏のそのまんまです
2021-11-25
昨日の朝電話がありまして
私の一つ上の従兄が急に亡くなったという連絡でした。
えっと思いました。
びっくりしました。
電話口の奥さんの声が別人のように
呆然と沈んでいる様子が浮かびました。
突然のことです。
詳しい事情はわかりませんが
いつものように朝食を食べてということでした。
急も急、この命終わるという急です。
生死の身を生きていることを思います。
昨日11月24日は私の母前坊守の96歳の誕生日でした。
今は病院施設にお世話になっています。
コロナ禍で面会もままなりませんが
昨日は坊守と一緒に久しぶりに面会できました。
わずかな時間でしたが
コロナ禍で思うようにならない身の上のことが
次々に口に出ます。
看護士さんの話では
今日は大分機嫌がいいということですが
急に落ち込むことが多くなっているとのことです。
96歳の身を生きるのです。
ちょっと様子がおかしいと自己診断しては
もう死んでしまうのではないかと思い詰める不安です。
胸が痛くてもう死ぬ間際だったという話を
何度もしていました。
先日は遠方の妹がコロナ以来初めて面会に来たことを
最期のお別れに来たんじゃないかと
落ち込むようなことです。
96歳の歳になって
死ということを意識します。
生きたいという生への執着です。
96歳まで生きたいと思っても
突然命終えていくことです。
人生の仕事を成し終えて
もういつ死んでも心残りはないと
覚悟ができていると思うのは
周囲のものの見方であって
やはり生きたいんですね。
そういう私もそうです。
まだまだ生きたいし
やり残したことがあるかどうかもわかりませんが
とにかく生きていれば何かができるぐらいに
思っているのが私たちではないでしょうか。
ただこの生死ほどままならないことはないのです。
いつどんな形で命終えていくのか
周りの者も私本人もわかりません。
だからこそそこに大きな不安を抱えて
苦しみ悩むのです。
親鸞さまは生死の迷いを超えていく道を
お浄土への念仏の道と明かしてくださいました。
「どんなことがあってもいつも私が一緒だから大丈夫。
あなたを決して見捨てませんよ
お念仏申してご一緒しましょう」と
南無阿弥陀仏阿弥陀さまのお喚び声のままに
生死の道を生き抜かせていただき
命終わってそのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏さまに成らせていただく
南無阿弥陀仏のお救いです。
今プロ野球の日本シリーズをやっていますが
ヤクルトが優勝に大手で今日勝ったら日本一です。
去年最下位のチームが優勝という
まさにミラクル物語です。
高津監督がずっと選手に声かけしている言葉が
「絶対大丈夫」です。
どんなことがあっても
ピンチでもチャンスでも大丈夫ということです。
私たちの仏さまは絶対大丈夫の仏さまです。
「あなたのいのちそのまま引き受けたよ。
大丈夫だから私にそのまままかせなさい」と
喚んでくださっているのです。
阿弥陀さまにまかせたから
長生きできるのか
病気が治るのか
金回りがよくなるのか
自分に都合のよいことばかりが
起こるということではありません。
どんなことがあっても私が一緒だから大丈夫
たとえどんな形で命終えようとも
いつも私が一緒だから大丈夫だよとのおはたらきが
南無阿弥陀仏です。
今日もこの口から南無阿弥陀仏と
お念仏が出てくださいました。
南無阿弥陀仏のそのまんまです。
どこかに忘れるものではありません。
いつでもどこでも
私に引っ付いて離れないのです。
お念仏を申す身にさせていただいて
欲も出ます怒りも出ます愚痴も出ます
この口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださるのです。
命終わるときもそのまんまです。
いつものそのまんま
南無阿弥陀仏のそのまんまです。
欲が怒りが愚痴が出るのは生きてるということです。
「生きとるあいだは生きとるぞ」
南無阿弥陀仏そのまんまです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.25)

ご門徒衆のたのもしい力です
2021-11-24
昨日は御正忌前の仏具のおみがきを
ご門徒衆たくさんの方にお手伝いいただき
お内陣のお荘厳がほぼととのいました。
この前の大掃除といい
ご門徒皆さんの力を有難く頼もしく思います。
これはお寺だけに限ったことではありません。
一般の地域社会の行事活動もそうです。
私一人ですることできることではありません。
一人一人の力が集まって大きな力になるのです。
その力の源泉は皆さん一人一人の思いです。
皆さん一人一人のお寺への思いが
一つになって力になるのです。
浄土真宗のご門徒皆さんの思いは
私が私がということではありません。
阿弥陀さまの思い大きな願いから発ったものです。
阿弥陀さまの願いが私のところに
南無阿弥陀仏と届けられおはたらきいただいて
力となり形になってお内陣の荘厳といただきます。
ただお荘厳をととのえても
そこにお参りをする方がいらっしゃらなかったら
もったいないことです。
お荘厳をととのえるまでの過程も大事ですが
ととのえられたお浄土の荘厳のなかで
今日一番に皆さんと共にお朝事のご縁をいただき
親鸞聖人のお正信偈をお勤めさせていただいたことは
これほどの慶びこれほどの贅沢はありません。
明後日26日からの御正忌報恩講法要のご縁ですが
どうぞ皆さんお誘い合わせお参りいただき
一人でも多くの方にお念仏のご縁に遇ってほしいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.24)

つられ念仏
2021-11-23
ご門徒のお家のご法事のご縁に
お寺から聖典を持参してお正信偈のお勤めを
お参りの皆さんとご一緒にします。
ご門徒の家族だけでなくご親族の方もお参りですから
中には「うちは浄土真宗でないから聖典は要らない」と
言われる方もいますが、大抵は手に取ってくださいます。
家々によって大きな声のお家もあれば
殆ど声が聞こえないお家もあります。
日頃からお寺にご縁のある方がお参りですと
その大きな声につられて皆さんも声が出るようで
本当に有り難いことです。
今日のお朝事のご縁はいつもの皆さんですから
本堂中に響き渡る大合唱のお勤めです。
それでも最初は皆さんどうでしたか。
一種独特な雰囲気の中で戸惑うこともあって
中々声が出なかったのではありませんか。
何度も何度もご縁をいただいて
声が出るようになったのですね。
声が出てくださるといった方がいいと思います。
周りの方々のお念仏の声を聞いてつられて
お念仏を申す身にさせていただいくのです。
つられ念仏です。
お念仏申すご縁をいただいて
周りの声につられてお念仏が出てくださるのです。
その大本は阿弥陀さまの大きな願い
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」のお喚び声が
私に届いてくださって
この口からお念仏が出てくださるのです。
そしてお念仏の声が隣の人その隣の人に
届けられるのです。
ご法事のご縁でお念仏が出てくださいます。
それはご先祖有縁の方からのお念仏のバトンです。
私の番です。
声に出してお念仏申しましょう。
心の中でお念仏申してますという人がいますが
そのまま声に出せばいいのです。
阿弥陀さまのお喚び声がそのまま聞こえてきます。
そのまま隣の人にも聞こえます。
ご法事のご縁はお念仏が出やすい最高のチャンスです。
お念仏のおはたらきにつられて
そのままお念仏申しましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.23)

「本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」
2021-11-22
今日から三日間『高僧和讃』の最後
第七祖の源空讃をいただきます。
今日のご和讃の一首は
「曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
「曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」
<果てしなく長い間
生まれ変り死に変りし続けてきたものは
迷いの世界を離れさせる
本願のすぐれたはたらきを知らなかった。
もし源空聖人がおられなければ
このたびの生涯もむなしくすごしたことであろう>です。
源空聖人とは親鸞聖人が直接お会いになって
お念仏のみ教えを聞かれたお師匠さんです。
法然さまといった方が一般的には馴染みがあると思います。
親鸞さまが29歳の時に比叡山を下りて
法然さまの吉水の庵を訪ねて35歳まで6年間
阿弥陀さまの本願念仏のお救いの法を聞かれました。
「本願力に遇いぬれば むなしくすぐる人ぞなき」という
御和讃を重ねていただきます。
ご本願のお救いに遇うことによって
この人生を空しく過ごすことはないというのです。
今日の御和讃にも「このたびむなしくすぎなまし」と
出てまいります。
「本師源空いまさずは」です。
法然さまにお遇いすることによって
南無阿弥陀仏のみ教えに出遇い
生死の迷いを繰り返してきた私が
この人生を生き抜かせていただいて
命終わる時に阿弥陀さまのお浄土に往生させていただき
さとりの仏さまに成らせていことができるという
慶びのご和讃です。
この私のことに重ねて聞かせていただきます。
阿弥陀さまのお念仏の救いの法に遇うために
このたび人間に生まれてきたといただくなかに
いよいよ本願を信じお念仏を申す身にさせていただいて
お浄土への人生を生き抜かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.22)

南無阿弥陀仏のご縁つながりです
2021-11-21
南無阿弥陀仏のご縁つながりです。
昨日午前中に電話がありまして
お寺の近くに住んでいる初めての方からでした。
山門の掲示板に「みんなの法話会」の案内がありましたが
「参加できますか」という問い合わせでした。
少しお話を聞きますと
ご縁のある方です。
同じ浄土真宗本願寺派のお寺のご門徒さんで
私もよく存じ上げているお寺さんですが
そのお寺のご院家さんからも
「円光寺さんにお話を聞きに行かれたらどうですか」と
以前からお話があったということです。
初めてお電話でお話する方ですが
何か今までに何回も会っているようで
お念仏のご縁の有難さを思いました。
「はい、わかりました。またあらためてご案内します」と
電話を置きました。
午後に大海組のお寺さんからお電話がありました。
県内遠方のお寺さんからの紹介で
大分市内に住んでいる方が来られて
これから門徒として仏事をお勤めしてほしいとのことで
お話を聞いていたら
円光寺のすぐ近くの方だったので
円光寺さんを紹介しますということでした。
お寺の門徒になるという大事な話なので
お寺でお話を聞きましょうと言いましたら
すぐ行きますということで早速お寺に来られました。
奥さんが急に体調を崩し病院で診てもらって
今はお家で緩和ケアをしているとのことでした。
差し迫った事情があって急いでお寺のことなど
相談しようと思い立ったということです。
門徒入門などについてお話させていただき
大変心配な中で「安心しました」と帰られました。
南無阿弥陀仏のご縁つながりということで
お寺の役割を思います。
お二方とも実家がお寺のご門徒という
元々浄土真宗にご縁があった方です。
午前の方は転居されたお家にお仏壇があり
お寺さんがお参りされているということで
午後の方は実家は今は空き家ですがお仏壇があるので
ご法事はそのお家でお勤めしていたということです。
お寺とご門徒というご縁があっても
平素からお寺にお参りすることは
お寺の敷居が高いなどといわれて
大変な決心がいるようです。
ただこれまでにご縁があったということです。
お寺のご縁です。
仏さまのご縁南無阿弥陀仏のご縁です。
ご縁があったことで
ご縁をいただくことができるのです。
仏さまのご縁つながりは
私がどうするこうすることではなく
もうすでにつながってあるご縁を
私がいただくかどうかということです。
仏さまのご縁と
そのままいただけばいいのです。
私がこの世に生まれる前からのご縁です。
そしてこの命終えますが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
阿弥陀さまのお浄土に生まれ
仏さまにさせていただくのです。
阿弥陀さまの大きな願いがかけられたいのちです。
死んだらお終いのいのちではなく
先に往かれた方も後に遺った方も
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きていると
お念仏申して聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.21)
