「真実からの よびかけに 応えながら この人生を生きる」
2021-09-23
お彼岸のお中日です。
ようこそのお参りです。
今日23日の『日がわり歎異抄』のことばは
「真実からの よびかけに 応えながら この人生を生きる」
歎異抄第八条「念仏は行者のために、非行・非善なり」
<念仏は、それを称えるものにとって
行でも善でもない>とある。
念仏は阿弥陀さまのよび声である。
私が南無阿弥陀仏と称えているけれど
それは南無阿弥陀仏と聞くということなのである。
私を真実に導いてくださる
真実からのよび声、それが念仏である>です。
今日も皆さん何度も何度もこの口から
南無阿弥陀仏とお念仏を申せましたね。
私が称える私のお念仏の声ですが
そっくりそのまま阿弥陀如来さまのおよび声と
聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏とお念仏申すと
そのまま南無阿弥陀仏と聞こえてきます。
阿弥陀さまのおよび声です。
そしてこの後納骨堂にお参りしますが
ご先祖有縁の仏さまの声なのです。
死んだら終いのいのちではなく
南無阿弥陀仏のお念仏の声の仏さまとなって
いつでもどこでも私のところに還ってみえてる
お念仏の声になった仏さまです。
「いつも私が一緒だよ。
どんなことがあってもあなたを見捨てることがないから
大丈夫だから安心して
あなたはあなたのいのちを精いっぱい輝かせて
一緒に生きて往こう」という
力強いお念仏のおよび声の仏さまとなって
今日もご一緒してくださるのです。
先に往かれた方のことを思うときは
この耳に聞こえるぐらいで結構です
南無阿弥陀仏と声に出してお念仏を申しましょう。
お寺の本堂お家のお仏壇の御仏前
そして納骨堂お墓の前が
一番お念仏申し易いところですが
いつでもどこでもご一緒くださる仏さまですから
日々の生活の中で仕事をしている時遊んでいる時も
ご縁ご縁にお念仏申させていただきましょう。
お天気が続いて中秋の名月のお月さんもよかったですが
清々しい秋晴れの朝になりました。
今日も一日阿弥陀さまのお慈悲に抱かれて
ご先祖有縁の方を思いつつお念仏申して
ゆっくりゆったり
過ごさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.23)
「さまたげが さまたげでなくなる 人生」
2021-09-22
今日22日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「さまたげが さまたげでなくなる 人生」です。
歎異抄第七条の「念仏者は無礙の一道なり」
<「念仏に生きる者(念仏を称え
仏のみ教えに導かれながら生きる者)は
何ものにもさまたげられることのない
一筋の道を歩む者である」とある。
念仏しても、人生におけるさまたげの
事実が無くなるわけではないが
今までさまたげだと思っていたことが
さまたげではなくなる(大切な意味を見出す
ことができる)人生が恵まれるのである>です。
念仏の視座といいます。
お念仏のみ教えを聞かせていただいたものの見方です。
私たちはどこまでも自分を中心とした見方で
生きていますからもうさまたげばかりです。
自分の思い通りにならないことばかりと
言っていいかもしれません。
お念仏申して生きる私たちは
お念仏の視座ものの見方をいただくのです。
仏さまから見ると
私がさまたげと思っていることもすべて
私を仏法に導くご縁仏さまのおはたらきなんだよと
教えてくださるのです。
中々そういう心境になりません。
目の前のことに執着して自分中心に思って考えて
行動している私たちですからね。
今さえよければ自分さえよければという
自分中心の生き方です。
そういう私めがけてお念仏の声が届きます。
お念仏のおはたらきにさまたげはありません。
今私はマスクをしてお話しています。
お念仏もマスク越しのお念仏です。
マスクがさまたげになっているのですが
マスク越しにお念仏の声が出てくださり聞こえてきます。
お念仏の声は何ものにも
さまたげられることはないのです。
仏さまのおはたらきです。
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
「われにまかせよ必ず救う」と
私のことをいつも思ってくださり
「どんなことがあっても決してあなたを見捨てない
いつも私が一緒だから大丈夫安心しなさい」
喚んでくださるおはたらきのなかに
私たちは生かされて生きているのです。
声に出してお念仏を申させていただきましょう。
お念仏の声が聞こえてきます。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の心おはたらきを
今日もいっぱいいただいて
日暮らしさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.22)
「向かい合うことも大切だが ともに同じ方向を向くことも大切」
2021-09-21
今日21日の『日めぐり歎異抄』のことば
「向かい合うことも大切だが
ともに同じ方向を向くことも大切」です。
歎異抄第六条の
「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」
<親鸞聖人は「弟子を一人も持っていない」と言われた。
それは、ともに仏さまの教えを仰ぐ同じ仲間
(御同朋・御同行)であるという意識からである。
そんな親鸞聖人だからこそ多くの人が師と仰いだ>です。
「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」は
親鸞聖人の有名な言葉です。
ただ親鸞さまから教えを聞かれた方々は
親鸞さまをお師匠さんと仰いでいかれて
親鸞さまの弟子と名乗られたのではないでしょうか。
その師弟関係は南無阿弥陀仏のお念仏の
ご縁つながりだということです。
私が言うことを信じるかといって
信じないものは私の弟子ではないとでも
いうのでしょうか。
今日も皆さんご一緒にご本尊の阿弥陀如来さまを仰いで
お勤めができました。
皆々等しく如来の御弟子であるというのが
親鸞さまの立ち位置なのです。
私もあなたも共に往生浄土の道を往く御同朋御同行
お念仏の仲間というのです。
私たちの日々の生活は人と人とが織りなす社会の営みで
人と人が向き合って生活するなかには
色んな立場の違いもあり
上下関係をいわれることもあります。
先輩上司から教えてもらうことであり
また若い人の意見を聞くことも大切です。
向き合う中には意見の対立もあって
時には背中合わせになったり言い合いになって
気まずい関係に陥ることもあるでしょう。
同じ方向を向き合うということです。
等しく阿弥陀さまの御弟子という立ち位置で
お互いが敬い合い認め合って生きて往ける
往生浄土のお念仏の道を歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.21)
「大きないのちに 貫かれた 私たちのいのち」
2021-09-20
今日20日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「大きないのちに 貫かれた 私たちのいのち」です。
歎異抄第五条の
「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」
<「いのちあるものはすべてみな
大きないのちの流れの中で
父母であり兄弟姉妹であったのである」とある。
「わたしのいのち」という小さないのちではなく
もっと大きないのちの世界に目覚めた時
本当のいのちのあり方が見えてくる>です。
昨日ご法事がありました。
50回忌17回忌7回忌のお三方のご縁でした。
施主からいうとお父さん、おばあちゃん
ひいばあちゃんの四代で
施主の子どもからは五代にわたる仏さまのご縁です。
私のいのちの始まりは何代前からとたどっていっても
四代五代六代どころではありません。
始まりがあってその始まりがわからない
無量のいのちのつながり流れのなかに
私のいのちが今ここにあることを
ご先祖のご法事のご縁で改めて教えていただきます。
私のいのちといって大きないのちのつながりのなかに
生かされてあるということで
私たちは皆同じ大きないのちを生きているのです。
その大きないのちこそ南無阿弥陀仏と
聞かせていただけるのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちにつながって
それはご先祖子孫という縦の関係だけでなく
この社会に共に生きる横の関係でもあるのです。
縦にも横にも縦横無尽に網の目のように
大きく広くつながったいのちなのですが
私たちは私のいのちという小さな世界に閉じ籠って
悩み苦しんでいると
仏さまは見抜かれたのです。
そして大きな世界に生まれて来いよと
阿弥陀さまは私たちが等しく生まれて往ける
お浄土を建立されて
「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏とおはたらきです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.20)
「亡き人のためと」いう思いは「私がいかに生きるか」という問いに転換される
2021-09-19
今日19日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「亡き人のためという思いは
自分がいかに生きるかという問いに転換される」です。
歎異抄第五条の
「親鸞は父母の孝養のためとて
一返にても念仏申したること、いまだ候はず」
<親鸞聖人は、亡き父母のためと思って称える
追善供養の念仏を否定された。
それは、念仏は、私が作った善ではなく
仏さまからのよび声だからである。
私がそのよび声に導かれながら生きることこそ
実は亡き父母のためでもあるのである>です。
「人の死後、死者に縁のある生存者がその死者のために
後から追って善事を行う」追善供養についてです。
親鸞さまがいただかれたお念仏のみ教えは
阿弥陀如来がこの私を必ず救うと仕上げてくださった
南無阿弥陀仏のお救いの法を私が聞かせていただき
お念仏申す身にさせてもらってお浄土への人生を歩み
命終のとき浄土に生まれて仏に成る教えです。
お念仏は阿弥陀さまのおはたらきそのもので
私がつくる善ではありません。
私が亡き人のためにお念仏を称えることで
善根功徳を回向するのではなく
阿弥陀さまがこの私のためにお念仏を回向して
「必ず救うまかせよ」とおはたらきなのです。
「親鸞は父母の孝養のために一返も念仏申したことがない」
と聞いて
親鸞さまは父母やご先祖を大切にしない
冷たい方だと思われるかもしれません。
親鸞さまは幼い頃に母と死別し父とも生別して
ずっと叔父さんの家で暮らしていたといいます。
父母に早く別れたことで
父母を慕う気持ちは人一倍強かったのではないでしょうか。
聖徳太子さまを讃える御和讃には
仏さまを父母のように慕う思いが多く見受けられます。
それでは何故父母への思いを篤く抱く親鸞さまが
追善供養の念仏を否定されたのでしょうか。
私たちはご先祖の年回法要をお勤めしますが
どんな思いでご法事をお勤めしているでしょうか。
この世に遺った遺族親族がご法事をお勤めすることで
そのままご先祖を供養するというのが
一般的な理解でしょうが
ご法事は先にお浄土に往かれたご先祖の仏さまが
私たちのために開いてくださった仏さまのご縁なのです。
先に往かれた方は冥界を迷っている亡霊ではありません。
迷っているのはこの迷いの世界に生きている私たちです。
迷う私にどうか仏法を聞いて阿弥陀仏の本願力を信じ
お念仏を申す身になってくれよと願われているのです。
そもそもお念仏は私がつくった善ではなく
仏さまが私のためにつくってくださった救いの手立てです。
阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって
私のところに来てくださってこの私をそのまま救うと
おはたらきくださっているという教えが
南無阿弥陀仏一つで救われるお念仏の救いの法です。
ご法事のご縁に阿弥陀さまの御尊前に座らせていただき
ご先祖を仏さまと仰いでお念仏申しお礼をさせていただきます。
ご先祖有縁の仏さまが南無阿弥陀仏となって私たちに
阿弥陀さまのお念仏の救いの法を届けてくださったと
見事に先に往かれたご先祖と私たちがお念仏につながるのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
お父さんお母さんは仏さまとなって
私のところに還って来てくださって
今こここの私を護り救うとおはたらきくださっているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.19)