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お念仏を申す生活法話

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「ふざけんな」

2021-12-16
 昨夜のニュースで
森友問題に関する財務省の文書改ざんで自殺された
近畿財務局職員の妻が国に損害賠償を求めた裁判で
国側が責任を全面的に認めて結審したといいます。

 妻の会見がすごかったです。
「ふざけんなと思いました」と怒りを露わにし
「夫は国から何回も殺され今回も殺された」と
やるせない無念の気持ちを嘆きました。

 約一億円の損害賠償をそのまま払うといいますが
妻は「夫が何故死ななければいけなかったのか」
その真相が知りたいということなのです。

 金目当てにとお金を払えば済む問題ではないことは
被告の国の関係者も誰がみても
よくわかっていることなのに
何故?です。

 本当のことが知りたいのに
本当のことを隠して
一体何を誰を護ろうとしているのか。

 自殺された赤木さんそして妻の権利は
これで護られているといえるのでしょうか。

 何とも釈然としない思いが募ります。

 人人それぞれの命です。
どの命もかけがえのない大事ないのちです。

 どの命にも分け隔てなく真摯に向き合う姿勢こそ
為政者権力者の大事です。

 このことはこの社会に共に生きる私たち
一人一人の問題でもあります。

 真実本当のことを見ようとしないで
自分のその時々の都合でものごとを見ては
都合の善いことには味方して
都合の悪いことは無視し排除する姿勢です。

 悪かったら謝ればいいんでしょう
お金あげたからもう関係ないでしょう
ということではないでしょう。

 つながりです。
私たちはお互いに自分の都合に善くても悪くても
これからもどこまでもずっとつながってあるのです。

 私の思いに関係なく
みんなつながっていると
仏教の縁起の法を聞かせていただきます。

 善悪のつながりのなかに苦悩する私たちを見て取って
すべてのものを分け隔てなくそのまま救うと
阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされているお互いの命に向き合い
お念仏申して私にできる精いっぱいのことを
させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.16)


信心に導かれる人生

2021-12-15
 昨日母がお世話になっている病院施設で
ケアマネさんをはじめヘルパーさん病院施設関係者
そして私と坊守の7人で話し合いがありました。

 96歳になり歳を重ねていく中で
思うようなことができなくなって不安が大きくなります。
 身体的な不安そして精神的な不安が
言動になってでてきます。

 そうした状況を報告くださりお互いに確認して
現状に応じた提案をしてくださって
安心してこれからもお願いしますということです。

 今は本当に福祉が充実しています。
一人の被介護者に何人ものスタッフが関わってくださる
システムができています。

 私が小さい頃ご門徒のお家にお参りに行くと
大抵仏間の近くの間にお年寄りが寝ていました。
 今は悪くなったらすぐ病院ということですが
当時は病院からお医者さんが往診にみえていました。
 普段の生活の中で老いて病んで
そしてお家で亡くなっていかれました。

 社会生活環境の変化で
老病死は非日常的なものになってしまいました。

 ただこの老病死は今も昔も
他人事でなく我が身のことであることを
母のすがたを通して痛感します。

 精神的なメンタルコントロールの難しさを
指摘されました。
 コントロールするといって
我が身が思い通りにならなくなる中で
本当に難しいことだと思います。

 「仏法に出遇った人生は信心に導かれる人生」
というご法話を聞かせていただきます。
 信心をいただいた人の人生は
信心によってコントロールされているといわれ
信心をいただいていない人の人生は
煩悩にコントロールされているというのです。

 毎日拝読の御文章は日替わりの繰り読みですが
「信心いただけよ」という
蓮如上人の思いいっぱいの私たちへのお手紙です。
 お寺参りの目的は何といっても
この私が南無阿弥陀仏のお心を聞いて信心いただき
お念仏を申す身にさせていただくことです。

 信心いただいたからお念仏申す身になったから
煩悩がなくなるわけではありません。
 煩悩はどこまでもこの身についてまわるのです。
私自体が煩悩の塊です。

 生きたいんです。
死にたくないんです。
 この世の中のことをもっと楽しみたいんです。
苦しみたくないのです。

 そうした煩悩をいっぱい抱えたこのわが身を
もうすでに思い取ってくださりそのまま救うと
阿弥陀さまがいつでもどこでもご一緒です。

 南無阿弥陀仏のお慈悲のお心おはたらきの中に
煩悩だらけのこの身のままでお育ていただき
生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.15)


「南無阿弥陀仏」のご本尊の仏さま

2021-12-14
 昨日がお通夜で今日がお葬式のご縁をいただきます。

 今は葬祭場で葬儀を行うのが一般的ですが
葬儀社のご本尊は大抵「南無阿弥陀仏」の名号本尊です。
 浄土真宗のお寺やお家のご本尊は
阿弥陀如来のお木像やご絵像の形像本尊が多いのですが
「南無阿弥陀仏」の名号本尊の御前で
葬儀のお勤めをさせていただきます。

 皆さんが仏さまといったらすぐ仏さまのお姿である
仏像を思い浮かべるのではないでしょうか。
 それでお通夜のご縁で
「南無阿弥陀仏」がご本尊の仏さまというご法話を
させていただきます。

 お通夜にご縁のご門徒衆がお参りですと
ご一緒にお勤めをしてくださることがあります。
「南無阿弥陀仏」と何度も声を重ねて
お念仏を申してくださいます。
 有難いことです。

 ただ大抵のお葬儀では
お念仏の声が中々聞こえてきません。

 ご法話で
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
私たちは阿弥陀さまのお浄土に救われて往くのです。
 南無阿弥陀仏ナンマンダブツとお念仏を申して
先に往かれたお方をお浄土に送りましょう。
 ナンマンダブツとお念仏申しましょうと
お話しますがお念仏の声が中々聞こえてきません。

 「お念仏申しましょう」と初めて聞いて促されて
お念仏を申すかといって難しいですね。
 日頃からお念仏が身についていないのです。

 皆さん今日も本堂に入られて
一番に御仏前に座られ手を合わせて
ナンマンダブツとお念仏を申されましたよね。
 この口からお念仏が出てくださいました。
お念仏を申す身にさせていただくことの有難さです。

 今門徒報恩講でご門徒皆さんのお家にお参りして
「正信偈和讃」のお勤めをさせていただきます。
 聖典を開いてご一緒に読まれる方が殆どですが
最後の回向句の「往生安楽国」でお勤めが済んで
その後お念仏の声が聞こえません。

 聖典に書いてはいませんが
そのまま口からこぼれるように
お念仏申してよいのです。

 お念仏のご縁です。
皆さんも最初からお念仏の声が出たわけではなくて
周りの方のお念仏の声を聞いてつられるように
お念仏が身について
お念仏が出てくださるようになったのではありませんか。

 私たちの浄土真宗のご宗旨は
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われるご宗旨です。
 南無阿弥陀仏一つでいいよと聞いて
頭で覚えるご宗旨ではありません。

 南無阿弥陀仏のおはたらきがこの身に来てくださって
お念仏を申す身にしてくださってこの人生を生き抜き
命終わってそのままお浄土に生まれさせていただいて
南無阿弥陀仏のいのちとなって
衆生済度の阿弥陀さまのおはたらきの
お手伝いをさせていただくのです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きて往ける阿弥陀さまのお救いです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。)2021.12.14)


「仏さんが見てはるよ」

2021-12-13
 今日は「裁きの宗教と慈悲の宗教」というご法話
(小池秀章師『めぐみ』251号掲載)をいただいて
お話させていただきます。

 「浄土真宗はすべての人が平等に救われる宗教」
と聞いて皆さんはどのように思われますか。

 「すべての人が救われる」ということは
「善いことをしている人も悪いことをしている人も
平等に救われる」ということです。

 「善いことをしている人は救われるけれど
悪いことをしている人は救われない」ということなら
納得できますが
「善いことをしている人も悪いことをしている人も
平等に救われる」と聞くと
普通は納得できないのではありませんか。

 誰が納得するのかしないのかというと
この私です。
 善悪のはからいをもった私です。
どこまでも自己中心にものごとを見ては
自分の都合に合うことは善いことで
自分の都合に合わないことは悪いことという
ものの見方をもった私です。

 このように「善いことをしている人は救われるけれど
悪いことをしている人は救われない」という宗教は
「裁きの宗教」です。

 私のはからいで善悪を判断し
善いものを選び取り悪いものを排除する
ものの見方を宗教に持ち込むのです。

 「悪いことをしたら罰が当たる」ということを
聞いたことがありませんか。

 子どもが悪いことをしたときに
御仏前に連れて行き座らせました。
 そして説教です。
まさに仏さまに裁いてもらうようなことをしました。

 仏さまの力を借りて
自分の思いを押し付けるようなことです。

 浄土真宗は
「善いことをしている人も悪いことをしている人も
平等に救われる」という「慈悲の宗教」です。

 私が悪いことをしたときに
仏さまは罰を当てるのではなく悲しまれるのです。

 阿弥陀さまは
善いことをすることもあれば
悪いこともする私のことをすでに見抜かれて
そのまま救うとご本願をたて
南無阿弥陀仏のお名号となっておはたらきなのです。

 私たちは善いことをする人も悪いことをする人も
善いことをするときも悪いことをするときも
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
共々に生かされてあると聞かせていただきます。

 大阪の言葉で「仏さんが見てはるよ」と
言われるそうです。

 いつも仏さまが見ているというのは
悪いことをしていないかと監視しているような
裁きの眼て見ているのではなくて
いつも私のことが心配でならなくて
見守っているということなのです。

 仏さまを悲しませてばかりの私だけれども
少しでも仏さまを悲しませない生き方をしようと
こころがけるのが
お念仏のみ教えに生きるということです。

 お念仏を申すところに
いつも阿弥陀さまがご一緒ですと
今日も仏さまのお慈悲の中に生かされてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.13)


お念仏のおつとめ

2021-12-12
 今日は仏教壮年会の
この一年最後の12月の例会です。

 こうしてお朝事のご縁に
例会をもたせていただきます。

 このお朝事は毎朝6時半からお勤めをしています。
昭和52年にこの本堂が新築になったときに
前住職が思い立って始めました。

 お寺のお朝事のお寺それぞれでしていますが
ご門徒衆に呼びかけて
ご一緒にお勤めをしましょうと始めたものです。

 毎日毎朝のご縁です。
44年間です。
 お朝事同行の顔ぶれは変わってきますが
6時半のお朝事はずっと毎日続いています。

 こうしてお朝事のご縁に仏教壮年会の例会ができるのも
お念仏の先人の思い営みがあったからこそと
あらためて有難く思います。

 昨日一昨日といつものお朝事の決まった段取りが
できませんでした。

 毎日6時の梵鐘を撞く前にお仏飯を申して
本堂の仏さまにお供えしてから梵鐘を撞くのですが
炊飯器のタイマーを入れ忘れていて
ご飯がいつもの時間に炊けていなかったのです。

 私が小さい頃のわが家の生活を思い出します。
台所の土間に大きなかまどがありました。
 皆さんのお家もそうだったと思いますが
家の者が早朝から起きて朝の準備をしていました。

 6時半のお朝事に合わせたら
何時に起きていたのでしょうか.
 火をおこしてお湯を沸かしてご飯を炊いてと
一仕事ありましたね。
 4時半とか5時にはもう起きて
いつもの朝の事をしていたのでしょうね。

 今は炊飯器という便利なものがあって
坊守が前の晩にお米をといてタイマーを入れます。
 今回のことで有難いと思ったのは
坊守のお役があってのことだなということです。

 坊守だけではありません。
いつものお参りの皆さんそれぞれのお役があって
毎日のお朝事ができていることなのです。

 今日はストーブが入っています。
冬の寒い朝には欠かせないものです。
 私が入れたわけではありません。
皆さんの手がそこにかかっているのです。

 おつとめということです。
つとめに「お」がつきます。
 私たちのおつとめは
仏さまのお手伝いをさせていただくことなのです。

 こうして今日もお朝事の準備ができて
皆さんがお参りされました。
 皆さんお一人お一人のおつとめです。
阿弥陀さまの御仏前にこの身をはこぶという
おつとめです。

 おつとめをしなさいと言われるとしんどいですね。
仏さまのお手伝いですから
させていただくということです。

 お寺のお朝事のご縁で
いつもより早く起きて準備をして
お寺に参り御仏前に座って
皆さんとご一緒に
お正信偈さまのお勤めをさせていただき
お念仏が出てくださいました。

 お念仏のおつとめです。
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきの
お手伝いです。

 お念仏申して阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
共々に生かされて生きて往ける
お念仏のおつとめの今日一日の始まりです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.12)


円光寺
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