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お念仏を申す生活法話

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私の遺骨の行方は?

2021-06-10
別府鶴見霊園のようす(2021.6.9.10:00)
 昨日別府の鶴見霊園で墓じまいの
お勤めをさせていただきました。

 鉄輪から明礬に上がる所で
自然環境に恵まれた景色のいいところです。
 緑が美しい扇山に連なる山々を背景に
おそらく数千基のお墓が並ぶ大きな墓苑です。

 高度経済成長期に大きなお葬式が一般的に行われ
海の見える山の墓苑が注目されお墓を求められる方が
多かったのではないでしょうか。

 お父さんとお母さんのお遺骨を取り出し
円光寺の納骨堂に納骨しました。
 施主のご門徒さんは今は別府にお住まいで
別府霊園の方がお参りするのに実は近いのですが
見晴らしのよい墓苑はアクセス的には不便な所にあり
高齢で車の運転が難しくなれば
中々お参りしにくいというのです。

 管理会社の方に聞くと最近墓じまいが多くなって
お寺や近くの納骨堂に改葬するところが
増えてきたというお話です。

 お寺の納骨堂に預けたら大丈夫
安心ということでしょうが
お寺参りのご縁ができるという大切な意味があるのです。

 少子高齢化社会になり
これからお仏壇やお墓を誰が見ていくかという問題が
個々のお家で様々に出てまいります。
 まだ先の話と思わないで今から皆さんも
ご自分のこととして考えてみてください。

 どんな人も命終えて死んだらおしまいではありません。
何も遺すものはないといってもご自分の遺骨は遺ります。
 先日太平洋戦争の東京裁判で死刑になったA級戦犯の方が
処刑されて直ぐ火葬され東京湾上空から
海に散骨されたという報道がありました。
 遺骨が遺って神格化されないようにということでした。

 散骨したらどこにお参りしたらいいのかということです。
この目に見える形ではお遺骨であり埋葬されたお墓です。

 私の遺骨の行方です。
お家のお墓に先に逝った家族と一緒に納骨されるといって
何百年も何千年もずっとというわけにはいきません。
 お墓に納骨壇にお遺骨がいっぱいで
後に入らないという物質的な問題です。

 皆さんの四代五代前のご先祖のお遺骨はどこにあるか
といってこの目で見ることはできません。
 およそこの辺に埋葬されたと聞いても
どこにという所まで到底分かりません。

 でも確かにご先祖はいました。
数を数えきれないほどたくさんのご先祖がいて
私が今ここに生きているのです。

 私の命の大恩人のご先祖を偲ぶ縁の一つがお墓です。
お墓参りのご縁で仏法に出遇い
お念仏申させていただく有難さです。

 昨日納骨堂にお遺骨を無事納骨し
お勤めし終わって安心されたのでしょう。
少し涙ぐんでいるようでした。
 仏さまのご縁をいただく有難さを
ほっと安心して思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.10)


古い人間も新しい人間もみな共にお念仏につながっているのです

2021-06-09
 今朝の大分合同新聞の「灯」欄のコラムから
「古い人間になりそうです」というお話です。

 歳を重ねて段々と世の中についていけなくなったと
始まります。
 
 パソコンやスマホが中心のネット社会になり
このコロナ下で私たちは古い人間といわれるようです。

 今は現金を持たなくても日常生活に不便はないようで
コンビニの会計や駅の改札など
スマホで難なくスルーできます。
 私などの古い人間はやはり手元に現金がないと
何か心もとない不安にかられます。
 お金がこの目で見える安心です。

 時代の大きな変わり目です。

 コラムでは戦後価値観が180度変わる中で
欧米式の生活スタイルが入ってきて
日本人の暮らしぶりも徐々に変わり始めたとありました。

 筆者は小学5年生で
周りの生活が見るからに変わっていく中で
明治生まれの親のいる家庭に
新しい生活が中々やってこなかったといいます。

 そこでつい母親に「時代遅れの、旧式人間」と
言ってしまったことを思い出して
今自分も古い人間になったようで
親の思いが分かるようだというのです。

 まだまだこれから世の中は変わって行き
私もどんどん古い人間になっていきそうです。
 ただ今の新しい人間も古くなっていくのです。
古い新しいといって古い人間も新しい人間も
共に同じ社会時代に生きているのです。

 生活ぶりは変わっても
人がこの世に生まれて生きて老いて病んで
死んでいくことに変わりはありません。

 古いも新しいも共に生死の苦悩を抱えた迷いの凡夫と
阿弥陀さまは見抜かれて
「まかせよそのまま救う」と南無阿弥陀仏のおはたらきを
分け隔てなくしてくださってあります。

 この同じ社会に生きている私たちは
南無阿弥陀仏に共々につながって生かされて生きていると
聞かせていただきます。

 何か自分一人で頑張って生きているようで
実は私たちはみんな根っこでつながっているのです。
 南無阿弥陀仏のお念仏のつながりです。

 世の中のことはこれからも変わって行き
戸惑うこともたくさんありますが
私たちが生きる根っこのお念仏のみ教えは変わりません。

 お釈迦さまから2500年の仏教伝播のなかで
親鸞さまから750年蓮如さまから500年の星霜を経て
今こここの私に届けられたお念仏のみ教えをいただいて
どうぞ皆さんの周りの方隣の人に
お念仏のみ教えを伝えてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.9)


満中陰のご縁でお葬儀の一連のお勤めが終わります

2021-06-08
 昨日四十九日満中陰のご縁がありました。
遠方のご門徒さんでお寺の本堂でお勤めをして
その後円光寺墓地に納骨させていただきました。

 お勤めが終わってご丁寧に
「おかげさまで有難うございました」と御礼を申されました。

 大切なお方とお別れして四十九日が経って
満中陰という大きな節目のご縁です。
 満中陰のご縁でお葬儀の一連のお勤めが終わることで
何か安心されたようなご様子でした。
「ようこそお勤めされました」と
言葉を返しました。

 一人暮らしのお母さんで
ご高齢になって施設に入所されていました。
 他家に嫁がれた娘さんばかりで
後のことがお互い心配だったと思います。
いろんなお話をされていたのではないでしょうか。

 親子の縁につながったお互いですが
生活はそれぞれ違います。
 親として子として出会って
別れていくということです。

 仏事はこれから百か日初盆一周忌三回忌と続きます。
お浄土の仏さまと成って遺った私たちに
お念仏申す身になってくれよと
仏さまのご縁をつくってくださるのです。

 懐かしいお母さんのお姿に会うことはかないませんが
この目で見える姿でお遺骨がお墓に納められて
これからお墓に会いにお参りされることだと思います。

 お念仏のみ教えを聞かせていただきますと
私たちは命終わっても南無阿弥陀仏の大きなお慈悲の中に
つながってあるといわれます。
 それは死んでから始まるつながりではなくて
もう今すでにこの私が生まれる前からつながってあると
聞かせていただきます。

 今はこの目に懐かしいお姿を見ることはできませんし
懐かしい声を聞くことはできませんが
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
これからもずっとずっとつながって
仏さまとなってこの私を護って共に生きてくださるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.8)


自然のおはたらきにまかせて日々折々にお念仏の華を咲かせてまいりましょう

2021-06-07
わが家の庭のお花たちです(2021.6.7.17:00)
 梅雨のこの時期に咲くお花があります。
境内にはさつきの花が咲き
今は山法師の白い花が咲いてきました。

 晴天の中よりしっとりと雨に濡れて
紫陽花や菖蒲、アヤメの花がよく似合います。

 四季折々の営みの中にいろんなお花が咲いて
私たちを楽しませてくれます。

 大自然の営みに生かされてお花もそして私たちも
いのちいっぱい咲かせて生きているのですね。

 親鸞聖人はお念仏のお救いの法を
自然法爾(じねんほうに)といただかれました。
 阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 自然を「おのずからしからしむ」と示され
私のはからいを一切はさまず
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせるのです。

 私がどうこう思って行ってということではなく
阿弥陀さまがこの私をそのまま
お念仏を申す身にお育ていただくと聞かせていただきます。

 仏教詩人坂村真民さんの代表的な詩に
「念ずれば花ひらく」があります。
  苦しいとき
  母がいつも口にしていた
  このことばを
  わたしもいつのことからか
  となえるようになった
  そうしてそのたび
  わたしの花がふしぎと
  ひとつひとつ
  ひらいていった

 母がいつも口にしていたお念仏を
私も口にするようにお育ていただいたのです。
 お念仏のおはたらきです。
母が申すお念仏がそのまま私に届けられて
お念仏申す身にさせていただくのです。

 今日も私の口からお念仏が出てくださいます。
お念仏申す身にさせていただいたのは
阿弥陀さまの仏さまのおはたらきですが
私たちのご先祖有縁の仏さまのお育てがあって
このしぶとい口からお念仏が出てくださったのですね。

 今日も一日お念仏申す身のままに
お念仏の華を咲かせてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.7)


この目に見えるお遺骨となって仏法聞けよお念仏申す身になっておくれと仏さまのご催促です

2021-06-06
あじさいのお花がいっぱいです。大分市佐賀関「関崎海星館」から速吸の瀬戸「高島」を一望する。(2021.6.6.10:00)
 この前不燃物を捨てに佐野のゴミ焼却場に行きました。
使わなくなった家具や自転車といったもので
大きな深い穴底に捨ててくださいと職員さんに言われて
大きな物でもあり割れ物もあって恐る恐る捨てていたら
「思い切って放ってください」と言われました。

 ゴミですがずっと家にあった思い出の品々で
心情的に中々複雑な思いがあります。

 ずっと以前のことですが
送骨といって宅急便で送られてきたお遺骨を
お寺さんが受付けて合葬する話を思い出しました。

 合葬する映像を観たときの衝撃です。
僧衣を着けたお坊さんが合葬墓にお遺骨をはこんで
大きなお墓の穴に骨壺をひっくり返して納骨されたのです。

 何かゴミ捨て場にごみを
放り捨てるような光景に思えました。

 今は納骨といいますと墓地や納骨堂に
お遺骨の入った骨壺をそのまま納骨するのが一般的です。

 骨壺のままだと故人が特定されますが
合葬ではお遺骨を一処に合祀するということで
故人の判別はできなくなります。

 お遺骨もこれから減ることはなく増えてきます。
現にお墓や納骨壇にご先祖のお遺骨が一杯で
これ以上入らないところがでてまいります。
 これからの納骨のあり方として
合葬する手立ても考えていかねばならないでしょう。

 ただ納骨の仕方等については
お遺族の心情に寄り添うことが大事になってきます。

 今はお家のお墓が主流で個人墓は殆どありませんが
昔は土葬で個別に埋葬した所に墓碑を建てたお墓でした。

 先日個人墓の納骨のご相談を受けました。
広い墓地一帯に個人墓が十基ほどありました。
 その地に穴を掘ってお遺骨の入った骨壺を
埋葬されると言われます。

 埋葬のあり方も様々ですが
要は後を見る方の問題です。
 納骨埋葬したら終いではありません。
有縁の方が故人を訪ねる縁としてのお墓のあり方です。

 北朝鮮拉致被害者家族の横田滋さんの
一周忌のニュースがありました。
 一年経って祭壇に滋さんのお遺骨が納骨しないまま
置いてありました。

 「めぐみちゃんが帰ってきた時にお父さんが
こんなに頑張ってあなたの帰りを待っていたのよ」と
目に見える形で報告して抱いてほしいと
妻の早紀江さんが話していました。

 私たちは死んだら火葬されて遺骨になってしまいます。
「人間死んだらゴミになる」と言われても
お遺骨一つにそれぞれの思い入れがあるのです。

 お遺骨の行く先です。
お遺骨を納める所があることの意味です。
 有縁の方のお遺骨を納める人も
また同じ所に納められるということです。

 南無阿弥陀仏のみ教えを聞かせていただいて
私たちはお念仏申してこの人生を生き抜き
命終わって阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ
仏さまに成らせていただくのです。

 先に往かれた方もお浄土ならば
後に遺った私たちも同じお浄土に生まれて
再び会うことができると聞かせていただきます。

 この目に見えるお遺骨となって
私たちにお念仏のみ教えを聞かせていただくご縁を
先に往かれた大切なお方が今もつくってくださっている
有難さ尊さです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.6.6)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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