「今までなにをしてきたかではなく、今なにをすべきかである」※転載
2025-01-24
釈尊は悩みを抱える私たちに
「過去や未来にとらわれることなく
今なすべきことを熱心になしなさい」と
教えてくださっていますが
これは簡単なようでなかなか難しいことです。
私自身、いつまでも過ぎ去ったことを引きずり
また未来のことを考えて不安に思うことが
たびたびあるのですが
考えないようにしようと思ってもふと気がつくと
そのことをグルグルと考えてしまい
だんだん精神が疲れてしまいます。
そんな時
私はお仏壇の阿弥陀さまの前に座ります。
するとなぜか心が落ち着いて
ゆっくりと物事を考えることができるように
思うのです。
阿弥陀さまは
たとえこの私がどんな存在になっても
決して見捨てない仏さまです。
私の過去も未来も
よいところも悪いところも
全部まるごと摂め取ってくださいます。
だから阿弥陀さまの前に座ると
安心するのです。
過去や未来にとらわれて悩む私の心を
まるごと阿弥陀さまにおまかせする安心感の中で
今の自分の状況を冷静に受けとめる。
そうすることによって
私は「今なにをなすべきか」が
見えてくるのではないかと思うのです。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(芝原弘記 本願寺派総合研究所研究員)より転載
ー本願寺新報2025年1月20日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.24)

満票ならずで「よかった」
2025-01-23
イチローさんが日本の野球殿堂入りに続いて
日本人初のアメリカ野球殿堂入りを果たしました。
殿堂入り候補資格1年目での選出でしたが
日本に続いて満票での選出にならず
1票足りませんでした。
26票足りなかった日本では
王貞治さんが「中にはへそまがりもいる」と
コメントしたとか。
それほどまでにイチロー選手の残した実績
野球界での貢献度は飛び抜けたものがあると
誰もが認めるところですが
満票に1票足りなかったことについて
イチローさんは「すごくよかったと思う」と
会見で述べられています。
何か足りない不完全だからこそ
自分なりの完璧を追い求めて
進んでいこうとするのが人生だと
改めて考えさせられたということで
よかったと思うといわれます。
野球道であり人生道
一つの道をきわめる達人のことばのようです。
仏教は転迷開悟のみ教えで
迷いの私がさとりの仏に成る成仏道を説きます。
道を求める菩提心をおこし自力修行を積んで
さとりを開こうとする仏道です。
親鸞さまも生死(しょうじ)の迷い出ずべき道を求めて
比叡山で20年間仏道修行に励まれましたが
さとりを開くことができず
法然さまから阿弥陀仏の本願念仏のお救いの
み教えを聞き
他力の念仏道に帰依されたといいます。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏の他力のおはたらきで
浄土に生まれて仏に成る成仏道です。
煩悩具足の身を生きるこの私は
この世で仏に成ることはできませんが
お念仏のおはたらきで浄土に生まれて仏に成ると
聞かせていただきます。
どこまでも不完全な凡夫の身ながら
お念仏申して南無阿弥陀仏のお救いにそのまままかせて
往生浄土のお念仏の仏道を生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.23)

常識の革命
2025-01-22
アメリカトランプ大統領の就任演説で
「常識の革命」という言葉が飛び出しました。
これまでの常識を打ち破るひっくりかえすといった
強い意思表示です。
トランプさんのいう常識とは一体何でしょうか。
常識とは一般的に多くの人が共有している見識
社会的に当たり前と思われる
社会通念ともいうべきもので
トランプさんのものの見方価値観を
そのまま常識というのではありません。
私たちが共に生きるこの社会で
人人それぞれの価値観を
お互いに認め合い敬うなかでの常識です。
トランプ流のアメリカ中心主義の色濃い価値観を
常識として他者に押しつけ非難排斥するようなことは
常識では考えられないということで
常識の革命ということなのでしょうか。
民主主義国家のアメリカで法の支配のもと
選挙での民意による多数決の原則を主眼にしますが
一方で少数意見の尊重をうたいます。
選挙で勝ったということだけで
自分たちの主義主張で何でも思いのままに
できるということではありません。
大きな権力をもった大統領だからこそ
政策を推し進めるリーダーであってほしいし
一方で異なる意見にも寛容な対応が求められます。
民主主義に意見の対立はあっても
対決や分断を好みません。
意見の相違はあっても
同じ国民そして地球人というものの見方で
共に生きる施策を期待します。
法の支配といいますが
どこまでも人間がつくった法であり
その時代社会で人間が変われば法も変わって行く
普遍的な法ではありません。
一方仏法は縁起と自然(じねん)の理に立脚した
真実まことの普遍の法です。
南無阿弥陀仏のお念仏の法は
いつでもどこでもどんな人にも
「必ず救うまかせよ」とおはたらきくださる
阿弥陀仏の智慧と慈悲のお救いの法です。
人人それぞれに自己中心の思いはからいで
生きている私たちを
阿弥陀仏は苦悩の迷いの衆生と見抜かれ
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま救うてくださり
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちは共々に生かされて生きていると教えます。
この地球上のどの国の人たちも
お念仏の仏法のもと
阿弥陀仏のお慈悲の中に生かされていると
聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.22)

「鏡にうつる私の姿~本当の自分が知らされる教え~」※転載
2025-01-21
絵師だった仏弟子
もう2カ月も前のこと、机に向かっていたある日
ふと目を横にやると
なんともいえない趣のある絵が
浮かびあがっていました。
机の上はガラス板が置かれ、それが鏡の役目をして
真っ赤に染まったモミジの姿が
窓越しにうつっていたということです。
ところで、ガラス板にうつった絵の方が
実物より美しく見えたというところに目を向けると
仏典に出てくる話が思い出されてきます。
その話とは、仏弟子舎利弗(しゃりほつ)
目連(もくれん)の2人にまつわるものです。
2人は過去世で共に絵師でした。
苦に十で一、二を争うほどの実力で
互いに自分の絵がすぐれていると言い合って
決着がつきません。
そこで王さまに決めていただこうということになり
王さまのもとを訪ねます。
王さまは宮殿の大理石でできた向かい合った壁面に
それぞれ描くようにいいます。
目連は早速筆を運んでいきます。
素晴らしい絵ができることが予測できるものでした。
一方、舎利弗のほうは全く描く気配がありません。
ただ、ひたすら壁の面を磨いているだけです。
いよいよ約束の日がやってきました。
王さまは群臣率いて
はやる心を押さえながら見に来られました。
まず、目連の絵を見るなり
「さすが」と感嘆の声をあげられるのです。
しかし、舎利弗のほうを見るなり
王さまは憤慨の心をあらわにされるのです。
全く描かれていないからです。
ところが次の瞬間
舎利弗が王さまに次のように申し上げます。
2、3歩退いて磨いた壁を見てください、と。
すると、それまで何も見えなかった壁にほんのりと
えもいわれぬ絵が現出しているではありませんか。
目連の描いた絵がうつっているのです。
王さまは一転して手を高く掲げて
喜ばれたということです。
この状況を違った言い方で説明すると
目連が描いた絵は、み教えに置きかえられます。
その絵(教え)が舎利弗の磨いた壁にうつっているのは
舎利弗が教えを聴いている
そのような関係に考えることができます。
さらに舎利弗が壁を磨いているのは
舎利弗が聴聞している姿とみることができましょう。
近くて遠いもの
さて、これも鏡にかかわる話です。
昔よく研修旅行で
吉崎別院(福井県あわら市)に赴きました。
ある時、こんなエピソードを聞きました。
お参りに来ていた数人の若者と
食事の世話をされていたおばあさんとの
興味深い会話です。
若者が、吉崎別院の近くに
「嫁おどしの鬼の面」というものが複数あるが
どの鬼の面が本物ですかと尋ねました。
すると、おばあさんは
「私はどの鬼の面が本物が知らないけれど
本物が見たかったら
そこに鏡があるから見てみなさい」と。
若者たちは何を思ったのか
退散していったということです。
人間だれも一番よく知って
わかっているつもりの私自身ですが
案外見えていないのが実情かもしれません。
しかし、人間だれもが最後に会わなければならない
ものが一つあります。
それは自分というものです。
それだけ普段は自らのことを忘れて
生きているということです。
『枕草子』には
「近くて遠いもの、遠くて近いもの」という
話がありますが
一番近い私自身
それが一番遠い存在ということかもしれません。
死に臨んではじめて自らに会うということではなく
今、自分に気づくということが
大切だということでしょう。
善導大師は
「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」と言われます。
経教(経典に説かれる教え)という鏡にうつして
本当の私が知らされ
私に会うことができるということです。
親鸞聖人は『愚禿鈔』の冒頭に
「賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」
と記されています。
この賢者とは、法然聖人のことをさしています。
法然聖人の教えと人格にふれられての
お言葉とうかがわれます。
法然聖人は
外には決して賢そうな態度をみせられない。
どこまでも大愚のごとき姿をされている。
それは、内に賢なる心をもっておられるからだ。
それに比べて、この親鸞はどうだろう。
内面は愚かであるにもかかわらず
外に見栄を張ったり虚飾に包まれているではないか
と述べられるのです。
大きな違いです。
法然聖人を鏡とみれば
私の愚かな姿が見えてくるということです。
救われていくことのありがたさを
お念仏申す中に味わっていきたいものです。
※『みんなの法話』
(本願寺派勧学 太田利生和上)より転載
ー本願寺新報2025年1月10日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.21)

お寺存立の理念目的
2025-01-20
人気タレントをめぐるトラブルで
大手テレビ局の記者会見がありました。
週刊誌報道でトラブルが公になって以降
不確かで分からないことが多いなか
憶測が憶測を呼ぶ展開での会見でしたが
反って多くの疑問が指摘される始末で
何かもどかしくやり切れないものが残りました。
大きな組織にあって不祥事が生じたとき
どう適切に対応して社会的な責任を果たすのか
対応次第では組織の存続にかかわる一大事です。
一つの組織にあって
たとえば会社でいうと
会社の利益をまもるということでしょうが
その会社存立の理念目的が問われるところです。
お寺という組織でいうと
お寺は何のためにあるのかということです。
浄土真宗のお寺は念仏聞法の道場といわれ
お念仏の先人が浄土真宗のご法義
阿弥陀さまの本願念仏のお救いのみ教えを自ら聞き
人人に伝える活動拠点として開かれたものです。
こうしたお念仏の先人の
大きな願いとはたらきがあって
お寺が護持されてきましたが
大きな伽藍を護持していくには多分の経費がかかり
お寺のご門徒衆に負うところです。
お寺をまもるとは
総じてお念仏のご法義をまもるということが
その根幹にあるのですが
実はご法義からまもられている
私たち御同朋御同行ということなのです。
あなたも私も皆共に南無阿弥陀仏のおはたらき
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
生かされて生きているということです。
ご法義は自由自在にいつでもどこでもだれにでも
等しくはたらいてくださっているのですが
ご法義の邪魔をするのが私の思いはからいです。
自己中心自分勝手な思いはからいで
私たちはご法義の邪魔をしていないでしょうか。
お念仏のご法義にまもられて
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきに
お念仏申しそのまままかせて
あなたと私皆共に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.20)
