阿弥陀さまのご本願を信じお念仏申す身にさせていただきましょう
2021-08-20
今『正像末和讃』を拝読していますが
今日の「如来大悲の恩徳は」で始まる恩徳讃で
「三時讃」が終わります。
最後の三首は「三朝浄土の大師等」と
「教主世尊」の文言の後に
「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」が続きます。
お釈迦さまをはじめとして
三朝インド・中国・日本に出られた七高僧さまなど
善知識のおかげで私親鸞のところに
阿弥陀さまのご本願のみ教えが届けられたご恩を
讃嘆しよろこばれるのです。
『正像末和讃』の最初に
「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」
(阿弥陀仏の本願を信じるがよい
本願を信じる人はみな
摂め取って捨てないという利益により
この上ないさとりを開くことができる)
と冠頭讃があります。
夢告讃といって
親鸞聖人85歳の2月9日の夜午前4時頃に夢告を受けて
感得されたと記述があります。
阿弥陀さまのご本願を信じましょうとのお勧めです。
この世は末法の時代五濁悪世です。
親鸞聖人のご生涯も色々と紆余曲折がありましたが
当時84歳の時には息男善鸞さまを義絶するという
大変な事態に直面して
人生の荒波の中に心激しく動くことがあったと思います。
そのなかで「弥陀の本願信ずべし」
阿弥陀さまのご本願を信じましょうという
夢のお告げを力強くいただいたのではないでしょうか。
末法五濁の世だからこそ弥陀の本願が光り輝くんです。
「本願を信じ念仏申さば浄土に生まれて仏と成る」と
法然聖人が示してくださった本願他力お念仏の仏道です。
苦悩の海に深く沈む凡夫をこそ必ず救うと喚び続け
本願の船に乗せてお浄土におくってくださる
南無阿弥陀仏のお名号のおはたらきです。
末法の世にあってこれほど確かなことはないよという
お釈迦さま三朝浄土の大師等のお勧めをいただいて
正信偈さまの最初「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の
親鸞さまの信心の告白です。
南無阿弥陀仏一つで救われていくお念仏の道を明かし
この道を共々に歩ませていただきましょうと
お正信偈さま御文章さまをいただきます。
毎朝こうして親鸞さまから蓮如さまから
「弥陀の本願信ずべし」とお手紙をいただき
お念仏申して今日一日を始めさせていただくことを
本当に有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.20)
「早くお迎えが来てほしい」と言われますが・・・
2021-08-19
昨日二人の80代の男女の方から
「早くお迎えが来てほしい」と聞きました。
お迎えとは臨終の時に阿弥陀さまが
勢至菩薩観音菩薩を伴って
お浄土に連れにお迎えに来るというお話です。
臨終来迎のご法義です。
親鸞聖人が明かされた浄土真宗のご法義では
阿弥陀さまは今すでに南無阿弥陀仏のお喚び声となって
私のところに来てくださっているといいます。
平生業成現生正定聚のご法義です。
阿弥陀さまの本願を信じ念仏申す人は
今すでにお浄土に生まれて仏に成る仲間に
なってあるというのです。
ただ「お迎えに来る」といただくところに
阿弥陀さまと私はつながっていると聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏のつながりです。
私がつながろうと思ってつながっているのではなくて
南無阿弥陀仏の回向おはたらきで
阿弥陀さまからつながっているのです。
阿弥陀さまが迷いの世界からこの私を救うために
南無阿弥陀仏と成就されお喚び声の仏さまとなって
私のところに来てくださってあるのです。
この口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださるのは
もうすでにつながりのなかにあるといただきます。
阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心
南無阿弥陀仏のおはたらきにつながってあるのです。
人の命はいつか終えます。
お迎えが来るとか来ないとか言わなくても
その時は必ず来ます。
お念仏のご法義を聞かせていただくと
私のこの人の命は終えますが
死んだら終いではなくて
そのまま阿弥陀さまのお浄土に往き生まれて
南無阿弥陀仏の仏さまに成らせていただけるのです。
今日の御和讃です。
「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には 還相回向に回入せり」
(阿弥陀如来から回向された名号
南無阿弥陀仏のご恩は広大で
想いや言葉に尽くせない不思議であり
私が浄土に往生して仏果を得た利益として
この迷いの世界にめぐり還り来て
他の人のための救いにつくすのです)と。
お浄土には往きっ放しではなくて
南無阿弥陀仏の回向おはたらきで
すぐさまこの迷いの世に還って来るというのです。
迷いの人々を救うために還って来るのです。
生きても死んでもお慈悲の中で
南無阿弥陀仏のいのちをずっと生きていき
お念仏のうちにまた遇いましょう
再び還り来て無限のお念仏の活動をさせていただきますと
娑婆の人の命を終えていけるのです。
私たちが申すこのお念仏の声は
阿弥陀さまのお喚び声であり
ご先祖有縁の先に往かれた仏さまの声といただきます。
今日の御和讃にも御文章さまにも
「寝ても覚めても命のあらん限りは称名念仏すべし」
といただきましたが
命のある限りはお念仏申して
お浄土への道すがらを共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.19)
初事のお聴聞のご縁です
2021-08-18
仏法お聴聞の心得に
「このたびのこのご縁は初事と思うべし」と
初めての事と聞きなさいといわれます。
耳慣れ雀というお話です。
雀が田畑に来ないように鳴子を張り巡らせて
鳴子にちょっとでも雀が触れると鳴子が鳴って
それに驚いて雀が逃げて行くという算段ですが
雀もその事に慣れると鳴子が鳴っても
驚かないでそのまま居直るというのです。
お聴聞といって阿弥陀さまのご本願のお話
南無阿弥陀仏の救いの法を聞かせていただきます。
「我にまかせよ必ず救う」の南無阿弥陀仏のお心
おはたらきの同じお話です。
もう聞いたもう知ってる分かっていると聞く人は
頭で聞いているんですね。
知識として聞くのです。
記憶力の良い人はもう一回聞けば覚えています。
試験でもしたら百点満点でしょう。
でもご本願のお心を聞くというのは
なぜご本願が誰のために建てられたのかを
聞かせていただくのです。
この私のためです。
頭で聞くのではなくこの身で聞くのだと
教えていただきます。
南無阿弥陀仏のおはたらきは
わが身に毛穴から入るといわれます。
勝手に入ってくるのです。
南無阿弥陀仏のおはたらきがわが身に入って
私の体のなかに留まってくださって
この口からお念仏となって出てくださるのです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申せよと言われて
ハイッと素直に中々申せない私がいます。
南無阿弥陀仏の意味は何?
南無阿弥陀仏とお念仏申したらどうなるの?
と理屈で問い聞き
理解できたら称えようとでもいうのでしょうか。
頭で理屈で仏法を聞き受け止めようとする私たちですが
そのこともすでにご承知で
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏のおはたらきで
わが身に入って来てくださって
ハッと気づかせてくださるのです。
耳慣れ雀は驚きません。
仏法をこの身で聞くとハッと驚かされるのです。
仏さまのおさとりを目覚めといいます。
皆さんも今目が覚めていますが
この目ではありません。
心の目です。
目を覚ます。
驚くびっくりするのです。
お聴聞させてもらってわが身の真実のあり様を知らされ
驚きびっくりし目覚めるハッと気づかされるのです。
わが身の真実のあり様です。
迷いの中にありながら迷いを迷いと気づかず
自分中心に煩悩をたぎらせて生きている
まさに地獄一定のわが身のすがたであり
その身をそのまま救う阿弥陀さまのご法義です。
初事と聞けよとのお示しです。
このお朝事のご縁も初事のご縁です。
毎日繰り返しのようですが
昨日の私と今日の私は違います。
明日の私も違います。
日々移り変わって行くなかでの
今日このたびわが身に初めていただくご縁です。
今日もピンポーンと本堂のチャイムが鳴りました。
チャイムの音にお朝事参りの皆さんの姿を見ます。
心新たに初事といただいて
ご一緒にお念仏申して
今日の一日を始めさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.18)
お念仏の声が聞こえてきません
2021-08-17
お勤めの最後は回向句で終わります。
「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」
(願わくはこの功徳を以って 平等に一切に施し
同じく菩提心を発して 安楽国に往生せん)です。
意訳に
わたしは願う。
「この身に与えられた如来の功徳を
すべての生けるものたちと
等しく分けあいともどもに信心に恵まれて
安楽浄土に生まれよう」とあり
別の訳には
「お経に説かれた阿弥陀如来のお徳を
平等にすべてのものといただき
阿弥陀如来の浄土に向かって歩んで行こう」と
お参りした一同で唱和する一種の決意表明と
著書に書かれてありました。
お経さまに説かれた阿弥陀さまのお徳は
すべての生きとし生けるものを
分け隔てなく等しく救うという
南無阿弥陀仏のお心おはたらきです。
そのおはたらきを平等に等しく施された私たちは
共々にお浄土への道を歩ませていただく
お念仏のお仲間です。
仏さまのお徳を共々にほめ讃え
皆々心を一つにしてお浄土に向かって
この道を歩んで往きましょうという結びです。
回向句を唱和して南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と
報恩謝德のお礼のお念仏をさせていただきます。
昨日はお通夜のご縁があり
今日がお葬式です。
お通夜にはいつもお正信偈をお勤めさせていただき
「願以此功徳」の回向句で終わります。
葬儀社でのことでお家でのご縁のように聖典を配って
一緒にお勤めすることではないのでしょうか
お念仏の声が聞こえてきません。
お勤めの後で参列された皆さんの方を向いて
ご法話をさせていただきます。
葬送のご縁で南無阿弥陀仏とお念仏申して
阿弥陀さまのお浄土に送りましょうとお話しますが
お念仏の声が聞こえてきません。
日頃お念仏を申すことがなかったのでしょうか
自ら声に出してお念仏申すことに躊躇するのでしょうか
周りの人がお念仏していたらつられて
お念仏することもあるのでしょうが
みんながシーンとしたなかで
お念仏の声が聞こえてきません。
お念仏が有難いのは
今日のお朝事のご縁もそうですが
お勤めが終わって「お念仏申しましょう」と言わなくても
皆さんの口からお念仏が出てくださる有難さです。
平生日常のことです。
特別なことではなくて平生なのです。
阿弥陀さまのお救いは平生いつでもどこでも
「私が一緒だよ」という南無阿弥陀仏のおはたらきです。
南無阿弥陀仏のおはたらきの中に
私たちの日々の生活があるのです。
お念仏を申すなかに今日の一日も
阿弥陀さまご先祖有縁の仏さまと共々に
日暮らしをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.17)
いつものようにこのお朝事から今日の一日を始めさせていただきます
2021-08-16
お盆のお参りそして行事が昨日で終わりました。
今日は雨が降ってちょっとしっとり心も落ち着きます。
いつものようにこのお朝事から
今日の一日を始めさせていただきます。
毎年のことですが歳を重ねるなかで
最後までお盆のお参りができるか大丈夫かなと思いつつ
声がガラガラでいつつぶれてしまうかと不安を抱えながら
何とか15日のお盆の最終日を迎えることができました。
声です。
お念仏の声です。
私たちの阿弥陀さまは
南無阿弥陀仏の声の仏さまといいます。
わが名を称えてくれよと阿弥陀さまのご催促です。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
「私がいるよ」と南無阿弥陀仏のお念仏が聞こえてきます。
私の声ですがそのまま阿弥陀さまの
私たちのご先祖有縁の仏さまの声と聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏「私がいるよ大丈夫だよ
どんなことがあってもあなたを見捨てることがないから
あなたはあなたの命を精いっぱい輝かせて
一緒に生きて往こう」と
私を喚んでくださる仏さまに成ってくださったのです。
今日の御和讃の中に無明という言葉がありました。
無明の世界にあって煩悩を兼ね備えた身を生きる私です。
阿弥陀さまは無明煩悩の私のすがたを見抜かれ
智慧大悲の光明を放ち照らして
そのまま救うてくださいます。
光明無量のお念仏の中に
すでに私たちは包まれてあるのですが
そのことに気づかずじまいに無明の世を生き命終えては
また迷いの世界を経巡って行かねばならないのです。
「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」と
お経さまのお言葉を御文章さまの中にも書かれてあります。
光明遍照十方世界(こうみょうへんじょうじっぽうせかい)
阿弥陀さまの光明はありとあらゆる十方の世界を
遍く照らし無明煩悩の私たちを分け隔てなく救うのです。
念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)と続きます。
念仏を申す衆生を摂め取って捨てない救うというのです。
何で十方衆生と言わないで念仏衆生と
言ったのでしょうか。
お念仏を申しお念仏を聞く衆生です。
南無阿弥陀仏のお念仏に
阿弥陀さまがこの私を救うために
ありとあらゆる手立てを込めて
私を噛んでくださる声を聞いて
「はい」と応じてお念仏申します。
雨が続き各地で被害も出ていますが
お大事にしてください。
お念仏を申して今日も一日
阿弥陀さまの大悲の中に
日暮らしさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.16)