夏の高校野球決勝戦から
2021-08-30
未だ収束の兆しが見えないコロナ禍のなかに
オリンピックパラリンピックが続き
昨日は夏の全国高校野球の決勝戦がありました。
奈良の智弁学園と智弁和歌山の
甲子園ではおなじみの兄弟校同士の
いつもの同じようなチームの対戦で
あまり興味がなく時々チャンネルを変えて観ていました。
ただ今朝の新聞を読むと興味深い記事でした。
優勝した智弁和歌山の中谷監督は元プロ野球阪神の選手で
キャプテンで出場した甲子園で全国優勝し
その時の有名な高島監督が3年前に引退して
中谷さんが監督に就任したということです。
もう一つは去年あのイチローさんが
智弁和歌山高校に指導にみえたということです。
今はプロアマの隔てが段々となくなって交流が進み
元プロ野球選手でもアマチュア野球の指導ができるのです。
イチローさんからは野球の技術だけではなく
野球に取り組む心構えを教わったという記事です。
9回の最後の守備に向かった智弁和歌山の内野手が
片ひざをついて手のひらで丁寧に土をならし
定位置に就いたという記事です。
グラウンドが荒れるたびに繰り返し行われた
大会を通じての光景といいます。
グラウンドがあっての野球です。
このたびの大会は雨天で日程が7日間順延変更になり
今までで一番遅い決勝戦になったということです。
ある試合では降りしきる雨の中で強烈なゴロが
大きな水溜まりに止まって記録はヒットになりました。
野球といって人人がすることですが
そこにグラウンドがあって炎天下の甲子園ですね。
大会期間中選手にコロナ感染者が出て
やむなく試合を辞退したチームが二校ありました。
さまざまな自然社会の環境の中に
私たちの生活があり
周りの方々をはじめいろんなおかげさまのなかに
一人一人一つ一つのドラマがあるということです。
パラリンピックもそうです。
私たちはメダルを獲ったとか金か銀か銅かということに
目が行きがちですが
たとえメダルに届かなくても
それまでの人生の過程においてそれぞれのドラマがあり
そこには多くの方々の支えがあるということに
気づかせていただくことこそ
人生の金メダル大きな宝ものと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.30)
子どもさんの50回忌のご法事です
2021-08-29
昨日は50回忌のご法事のご縁がありました。
通常は祖父母の50回忌が殆どで
今は長寿で父母の50回忌の多くなりましたが
子どもさんの50回忌でした。
昭和47年に5か月でご往生された子どもさんで
今お父さんは90歳になります。
一周忌から3回忌、7、13、17、25、33回忌を経て
50回忌までお寺からご通知をしますが
実際に50回忌をお勤めするところは少なくなりました。
会ったことがないとかよく知らないからと言われますが
ご先祖は私の命の大恩人です。
その一人でも欠けたらこの私は今ここに居ないからです。
今ここ阿弥陀さまのご尊前に座らせていただき
手を合わせてお念仏申させていただける有難さを思います。
戦後間もない時代食糧不足と医療の脆弱で
小さなお子さんが亡くなることが多かったのです。
お家の過去帳を書かせていただくとき
毎年のように何人も続けてというお家もあります。
子どもに先立たれる親の悲しみは
いかばかりかと思います。
ただ私たちのお念仏のご法義は
愛する人と死別する悲しみのご縁をそのまま
仏さまのご縁としてくださると教えてくださいます。
子どもさんのご縁があって
お寺とのご縁が仏さまのご縁ができたということです。
分家のお家にはお仏壇は殆どありません。
お家の方が亡くなって仏さまのご縁ができて
はじめてお家にお仏壇を申すのです。
49年前からお家の中心にお仏壇をご安置できて
南無阿弥陀仏とお念仏を申す生活を
されてきたということです。
「先立つ子は善知識」といいますが
子どもさんが善知識として仏さまのご縁に
導いてくださったといただきます。
仏さまのご縁に遇うというのは
自らはいっと手を挙げてお寺参りを始めたり
お仏壇を申すことでは中々ありません。
殆どの方が有縁の方を亡くされる悲しみの中に
仏さまのご縁をいただくのです。
悲しみのご縁をそのまま仏さまのご縁と
いただける有難さです。
仏さまのご縁に遇ってお念仏を申す身になってくれよと
仏さまの願いの中にお念仏のみ教えを聞かせていただきます。
90歳のお父さんが
「そろそろわしもあっちに往くようになった」
とぽつりをおっしゃいました。
いずれ私たちもみんなその時が来ます。
お念仏申してお浄土参りさせていただきます。
お浄土は俱会一処(くえいっしょ)の世界とお聞きします。
お浄土に生まれて子どもさんの仏さまと再会したときに
「父ちゃんよう50回忌まで勤めてくれたね
ぼくのことを最期まで忘れないでくれてありがとう」と
きっと子どもさんが言ってくれるでしょう。
お念仏申すなかにお浄土に生まれて
先に往かれた方々と再び共に会うことができるのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
先にお浄土に往かれた方も後に遺った私たちも
みんな一つにつながってあると教えていただく
お念仏のご法義の有難さ尊さを
深く深く味わわせていただきました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.29)
お念仏の声を聞きまかせ信じて生きる
2021-08-28
パラリンピックの陸上競技を注目して観ました。
一つは走り幅跳び一つはトラック競技です。
色んな障碍があってその程度(ランク)も違いますが
昨日は視力障碍者の競技でした。
目が不自由で一人では競技できません。
走ることについてはガイドランナーという伴走者がいます。
興味深かったのは女子の走り幅跳びでした。
コーチの声と拍手にタイミングをとって跳躍するのです。
選手は手をあげてスタートを合図し
「1,2,3,1,2,3」のコーチの声と拍手に合わせて
助走し踏み切って大きくジャンプします。
声をかける掛け声です。
声を聞いて動作を起こすのですが
声を聞くそのままに信じて走り出します。
耳で聞いて頭で理解してという猶予はありません。
瞬時に全身で聞いてそのまま全身で反応するのです。
聞くそのままを信じて行動です。
目が見えない暗闇の世界にあって
どこに飛んで行くのか
この目で確かめることはできません。
全身で飛んでどこに着地するのか
私がどうなるのか
聞こえてくる声を信じて
まかせる命をあずけるということです。
大丈夫「まかせろ」「まかせた」という
お互いの信頼関係のなかで
真っ暗闇の中を光に向かって飛んでいけるのです。
私たちのご法義に重ねて思います。
私たちが生きるこの世界は
まさに真っ暗闇の迷いの世界だと仏さまは教えます。
そんなことあるものか
この目で明るい世界が見えているじゃないか
どこが迷いかということですが
私が私がという我執に閉ざされた心の闇の世界です。
自己中心の欲の心怒りの心愚かな心の
煩悩に絡み取られ縛られた私なのです。
無明煩悩の迷いの闇の世界を生きる私に
阿弥陀さまの声が聞こえてくるのです。
南無阿弥陀仏のお喚び声です。
「私がいるよ大丈夫だよ
決してあなたを見捨てないから
我にまかせよ必ず救う」と
声がかかっているのです。
弥陀招喚のお喚び声に乗じて
迷いの中を私たちは生きていけるのです。
南無阿弥陀仏の声の仏さまです。
聞くということはそのまま信じることと
聞かせて信心いただくお念仏の世界なのです。
声をかけてくださる方がいます。
一人じゃないということです。
二人だけでもありません。
この目に見えない多くのご先祖有縁の仏さま方が
ご一緒してくださっているのです。
迷いの闇の世界をお念仏申して
お浄土から開かれた明るい光の世界に
生きていけるのです。
聞即信ということ
阿弥陀さまのご本願のお心を聞くことは
そのまま信じることだよと教えていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.28)
パラリンピックと中村久子さん
2021-08-27
今朝6時の梵鐘を撞く時に鐘楼から周囲を見渡すと
朝日が空の雲や家々の壁や窓にあたって
茜色に染まって見えました。
あかね雲です。
前のお家の方がホースで水まきをしていました。
もう今は既に陽が昇って暑いんですが
ちょっと秋の気配を感じます。
パラリンピックが始まり東京開催ということで
終日テレビ中継があっています。
これまではメダル獲得選手のことは
テレビニュースや新聞報道でみることはあっても
水泳や卓球そして車いすラグビーやバスケットなど
たくさんの競技を最初から最後まで
観ることはありませんでした。
こんなに多くの競技種目があることにびっくりしますし
個々の選手のハンデキャップをものともしない
アスリート魂が伝わってきて
点数が入るゲーム競技など気になって見逃がせず
結局は2時間近く観戦してしまいます。
この身一つでも中々思い通りに動くことが難しいのに
車いすを使ってあんなに速く素早くボール回しができて
互いに相手をブロックし合う作戦もあったりして
本当に面白く興味をひかれます。
心身障碍者といわれる心や体に障碍があって
日常の社会生活に相当な制限を受ける人たちが
スポーツを通して自らの可能性に挑戦するのです。
水泳競技では手足が不自由というか
手足が短い選手もいますが
残った有る機能を駆使して泳ぎます。
競技を終えた選手がインタビューに
堂々と受け答えする姿は
自信がみなぎっているように見えます。
身障者も共に生きる社会を垣間見る思いですが
ちょっと以前は身障者の方は社会の片隅で
隠れるように暮らしていましたし
今も身障者の方を特別視し差別する風潮が
なくなったわけではありません。
人それぞれに歩んできた人生です。
いろんな苦しみ悩み葛藤があっで
何度も何度も何でどうしてと落ち込んでは
生きる意味さえ見失うようなことも
あったのではないでしょうか。
私たちのお念仏の先人に
中村久子さんという方がいらっしゃいます。
岐阜の高山の方です。
幼い頃に脱疽の病気で両手両足を無くされます。
小さい頃からお寺参りのご縁があって
親鸞聖人のお念仏のみ教えに出遇い心の依りどころにして
結婚して子どもを育てたくましく生き抜かれたといいます。
後に全国各地のお寺に講演に行き記念に決まって
「ただ念仏のみぞまことにておわします」と
歎異抄の御文を
口に筆をくわえて書かれたといいます。
中村久子さんは講演で
「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは自分で生きているのではない
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず生かされていく道があります」と
逆境に追い詰められた人々を力強く支え
生かされている尊さを語っています。
手がない足がない何がない何もないと
思い通りにならない自分にもがき苦しんでいたときに
「ない」と思っていたものが「ある」に転換し
すべてが「ある」と気づくお念仏の出遇いだったといいます。
すべてのものに私たちは生かされて「ある」のです。
阿弥陀さまのお慈悲の中です。
それは私一人ではなくて
みんなが共に生かされてある世界なのです。
「ただ念仏のみぞまこと」と
お念仏の力おはたらきに生かされて
私たちは共々に生きていくことができるのです。
パラ選手の競技する姿やインタビューをみて
身障者の方を本当に受け入れる
心身ともにバリアフリーの社会になっているのか
可哀そうに自分じゃなくてよかったという
身障者への偏見差別の風潮がこの私の中にないかと
自分を中心に自分さえよければと生きる私を
お念仏のみ教えに問い聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.27)
猛暑の中もコロナの中もお寺のお朝事は変わりません
2021-08-26
昨日ちょっと外に出る機会があったのですが
暑かったですね。
今年初めての猛暑日で
大分市が全国3番目の気温だったといいます。
熱帯夜で朝から暑いなと思いきや
今朝起きて部屋の外に出たら心地よい風が吹いて
何かさわやかな感じがしました。
ただもう今はすでに外は太陽が照り付けて
日中は昨日以上に暑くなるのでしょうか。
暑い寒い温かい涼しいと移り変わる四季折々のなかに
私たちの日々の生活です。
一年半以上続くコロナ禍にあって
今まで当たり前のようにできていたことが
思うようにできません。
急激な感染者の増加で
小中学校は昨日から二学期の予定が
夏休みの延長ということです。
これから一体どうなるのか
いつになったらコロナ禍が収束するのか
不安を抱えての生活が続きます。
コロナ禍で今までとは違った日常を余儀なくされ
生活が変わって行きました。
お寺の生活はというと
葬儀や法事が家族や近い親族だけの少人数のものになり
法要行事のあり方も中止したり内容を変更したりで
多少変わりましたが
お朝事から始まる日々の生活は
コロナの前も後も変わりません。
一般に大きな行事になればなるほど
多くの人が関係することで感染防止対策も細部に及び
いろんな方々のものの見方考え方もあり配慮して
結局差し控えることになります。
お寺の行事についても
複数のお寺が関わる活動行事は中止になりましたが
お寺お寺のいつもの常例のご法座などは
継続して行われているとお聞きします。
このお朝事のご縁もそうです。
本当に有り難いことです。
お家の食事に重ねて思います。
いつもの時間にいつもの家族の食事です。
いつもの時間にいつものお同行がご一緒して
お朝事のお勤めをさせていただきます。
いつものお同行といって
5年前10年前の皆さんとは顔ぶれが違いますが
先人も毎朝お念仏の声となって
ご一緒してくださっているのです。
今朝は御和讃が最初に返って
「弥陀成仏のこのかたは」で始まりました。
毎日お正信偈さまを読誦し御和讃を繰り読みして
親鸞さまのお言葉をいただき
御文章さまを拝読して蓮如さまからの手紙をいただきます。
親鸞さま蓮如さまがご一緒です。
阿弥陀さまのご本願を信じお念仏を申す身になっておくれと
南無阿弥陀仏と喚び通しにお勧めくださいます。
猛暑の中もコロナの中も
日々移ろい変わり行く中も
円光寺のお朝事のご縁は変わりません。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日の一日を始めさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.26)