「善をほこらず 悪をおそれず」
2021-09-09
今日9日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「善をほこらず 悪をおそれず」です。
歎異抄第一条
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず
念仏にまさるべき善なきゆゑに。
悪をもおそるべからず
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」
<阿弥陀さまの救いの前には、私の善悪は問われない。
そんな阿弥陀さまの大きな心に出遇った時
私の生き方が変わる>
私たちの生き方生活ぶりは
善悪を判断基準に生きているところがあります。
自分中心の思いで
こんなことをしたら善いとか悪いとか
周りの人から善く見られるとか悪く見られるとか等々です。
同じような見方で仏さまのお救いも
「善いことをしたら救われる」とか
「悪いことをしたら救われない」と思っている方が
多いのではないでしょうか。
どんなことが仏さまが言われる善悪でしょうか。
お経さまには「十悪五逆」が説かれ
仏道修行には厳しい戒律があります。
阿弥陀さまのご本願のお救いは
十方衆生を分け隔てなくそのまま必ず救うといわれます。
「こうしたら救うとか救わない」といった
救いの条件は一切ありません。
ただ一つ「お願いだからわが心(本願)を聞いて
お念仏申す身になっておくれ」と
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。
今日の御文章(数珠章)さまでいいますと
「他力の信心ひとつばかりなり」です。
お寺参りの人を見ると数珠を持たない人が目に付くが
阿弥陀さまのお救いは数珠を持たなくても
他力の信心一つで十分です
とのお示しです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただき
いよいよお念仏を申す生活をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.9)
「煩悩だらけの あなたを助けたい」
2021-09-08
今日8日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「煩悩だらけの あなたを助けたい」です。
本文は第一条の「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を
たすけんがための願にまします」です。
<罪深く、煩悩だらけの人間(私)を助けるために
阿弥陀さまは、願いを起こしてくださったのである。
立派な人(善人)のみを助ける宗教とは根本的に違う>
「善いことをしなさい、善いことをしたら救われる」
と説かれる宗教は私たちの理解できるところです。
仏に成る仏道も、仏さまの教えを信じ教えの通りに
諸善万行を積み重ねて仏のさとりに至ると説かれます。
ただ阿弥陀さまは諸善万行どころが
一つとして末通った善いことができない
縁がととのえばどんな悪いこともしかねない
救われようのないこの私の真実のすがたを
罪悪深重煩悩熾盛の衆生と見てとられたのです。
「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と
おほせられたる」(歎異抄第九条)と
阿弥陀さまはかねてより私たちを
あらゆる煩悩をもった凡夫であるとお見通しであると
親鸞聖人はご自身を煩悩具足の凡夫と
そして罪悪深重の凡夫とも言われました。
阿弥陀さまの智慧の光明の照らし出された
わが身の真実のすがたといただかれたのです。
そして今ここ私のところに阿弥陀さまの光明が
至り届いておはたらきだといただかれたのです。
今日の御文章さまに
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」
(光明はあまねく十方世界を照らし
念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)と
観無量寿経のお言葉をいただきました。
阿弥陀さまの力強いお救いのおはたらきであり
大きな安心とよろこびをいただきます。
阿弥陀さまの光明に照らし出され
罪悪深重煩悩具足の我が身を知らされて
そのまま救わずにはおかないと
南無阿弥陀仏のおはたらきに
摂め取って捨てないというのです。
私たちは老少・善悪・賢愚といった
相対的な価値観に執われ苦悩し生きています。
老少・善悪・賢愚を超えてどんな人もそのまま救う
南無阿弥陀仏の絶対的なおはたらきにおまかせして
お念仏申して今日の一日も
南無阿弥陀仏の大悲の中を
仏さまと共に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.8)
「どんな人でも どんな状況にあっても 見捨てない」
2021-09-07
今日7日の『日めぐり歎異抄』のことばです。
「どんな人でも どんな状況にあっても 決して見捨てない」
本文は『歎異抄』第一条の
「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず
ただ信心を要とすとしるべし」です。
<阿弥陀さまは、老人も若者も、善人も悪人も
どんな人でも分け隔てなく慈しんでくさる。
若い時も老いた時も
善いことをしている時も悪いことをしている時も
どんな時でも見捨てず慈しんでくださる。
そんな阿弥陀さまの大きな心に出遇わせていただこう>
この「老少・善悪のひとをえらばれず」を
そのまま老人も若者も善人も悪人もといただくと
今の私の状況をいわれているようですが
若い時も老いた時も
善いことをしている時も悪いことをしている時もというと
ずっとこれまでも変わらず私のことを見てくださっている
阿弥陀さまの大悲のお心を知らされて
安心します。
私がどんな状況にあっても
阿弥陀さまは私を見捨てることなく
ずっとご一緒してくださっていたのですね。
「こうしなさい」「こんなことをしてはいけない」と
注文一つ告げることなく
「私がいるよ大丈夫だよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となって
ご一緒だったのですね。
縁がととのえばどんな悪いことでもしかねない私を
放っておけずいつでもどこでも寄り添って
「わが名をよんでくれよ」と
おはたらきなのですね。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中にあったのですね。
そしてこれからも大悲の中を共々に生かされて
阿弥陀さまのお浄土に生きて往くのですね。
今日も一日お念仏申して
阿弥陀さまがご一緒の日暮らしをさせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.7)
「真実に背き 真実から逃げても 真実に包まれている」
2021-09-06
今日6日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「真実に背き 真実から逃げても 真実に包まれている」
本文は『歎異抄』第一条の
「摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」です。
<阿弥陀さまに背を向け、真実から逃げている私を
追いかけて抱き取り、導いてくださる。
それが阿弥陀さまの「摂取不捨(摂め取って捨てない)」
の心である>と。
阿弥陀さまは摂取不捨の仏さまと言われます。
すべてのものをそのまま必ず摂め取って捨てない
お慈悲のお救いの仏さまです。
私たちは阿弥陀さまに背を向け
真実から逃げているとの仏さまの思し召しなのです。
私たちの日々の生活です。
私が私がとどこまでも自己中心に生きて
私のことで精いっぱい生きることで精いっぱいで
仏さまのお心からは遠い遠い存在の私です。
その私を大悲のお心で見てとられた阿弥陀さまは
この私をこそ必ず救うとご本願をたてられ
南無阿弥陀仏のお名号を成就されて
「われにまかせよ必ず救う」とおはたらきなのです。
この口から今日も南無阿弥陀仏と
お念仏が出てくださいました。
もうすでに今ここに阿弥陀さまの大きなお慈悲の
ど真ん中に生かされてあると聞かせていただきます。
ただ私たちの日々の生活は
これからも私が私がと自己中心に明け暮れします。
そんな私を放っておけないと阿弥陀さまは
私をどこまでも追いかけて南無阿弥陀仏と
喚び通しに喚んでくださるのです。
お念仏のお喚び声となって
阿弥陀さまがいつでもどこでも
私のところに来てくださって
ご一緒してくださっているのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申して
今日も一日阿弥陀さまの大きなお慈悲に抱かれて
往生浄土の道を共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.6)
「まことの言葉を 受け容れた時 生きる方向が定まる」
2021-09-05
今日5日の『日がわり歎異抄』のことばは
「まことの言葉を 受け容れた時 生きる方向が定まる」
本文は『歎異抄』第一条の
「往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」です。
この前文に
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」とあり
この後に
「すなはち摂取不捨の利益に
あづけしめたまふなり」と続きます。
現代語訳は
<念仏という行為の見返りとして
救いが与えられるのではない。
阿弥陀さまの言葉をまことと受け容れた時
救いが成立するのである。
救いとは、生きる方向が定まることである>です。
親鸞さまは法然さまから
「どんな人も念仏一つで救われる」と聞いて
専修念仏のみ教えに帰依しました。
その念仏とは阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきで
他力の念仏といい
私が申す念仏であってそのまま阿弥陀さまの
「まかせよ救う」のお喚び声といただかれたのです。
念仏は私の救いの条件ではなく
阿弥陀さまのお救いの功徳が円かに満たされた
万徳施名の阿弥陀さまのおはたらきそのものであり
阿弥陀さまのお心をいただいた時すでに
私たちは南無阿弥陀仏の大悲の中に生かされているのです。
阿弥陀さまの大悲の中を生き抜いて
人の命終わる時そのまま阿弥陀さまのお浄土に往生し
仏と成ってすぐさまこの迷いの世に還って来て
迷いの衆生を救うおはたらきを始めるのです。
お念仏が救いの条件になると
人それぞれに念仏申す相が異なり
救われる人と救われない人という誤った見方にもなります.
阿弥陀さまのご本願は「すべての人を必ず救う」と
おはたらきですから
そのお心をまことの言葉と受け容れる
本願を信じて疑わないと信心をいただくのです。
信心いただく時に私の救いが成立するのです。
阿弥陀さまのお浄土に往生してさとりの仏に成ることが
決定するのです。
生きる方向が定まるのです。
阿弥陀さまが決めてくださった往生浄土です。
お念仏申しつつ阿弥陀さまのお心を聞きながら
確かに確かにお浄土への人生を歩ませていただく
今日の一日を安心して生き抜かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.5)