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お念仏を申す生活法話

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「私の行いは 私をどこに 連れていくのだろう」

2021-09-14
 今日14日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私の行いは 私をどこに 連れていくのだろう」です。

 歎異抄第二条の
「いづれの行もおよびがたき身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし」
<親鸞聖人は「どのような行も満足に修めることが
 出来ない私にとって、地獄以外に住み家はない」
 と言われている。
 しかしそこに、念仏して、お浄土(真実の世界)に
 導かれていく人生が、与えられているのである>
からいただいた言葉です。

 昨日はよきひと法然聖人に騙されて地獄に堕ちても
後悔はしないというお話でした。
 続いて地獄の言葉が出てきます。
阿弥陀さまのお救いに遇ってお浄土に生れると
聞かせていただきますが
「地獄は一定すみかぞかし」とはすごい言葉です。
地獄以外に私が行く処はないとおっしゃるのです。

 阿弥陀さまの智慧の光明に照らし出された私です。
それこそ救われようのない煩悩具足の凡夫の私です。
 私が私がとどこまでも自分を中心に
欲の心怒りの心愚かな心を盛んに燃えたぎらせて
日々頑張って生きている私です。

 そんな私を阿弥陀さまはもうすでに見抜かれて
阿弥陀さまの方でこの私が救われて往くすべての手立てを
南無阿弥陀仏と成就して「われにまかせよ必ず救う」と
摂取不捨のおはたらきをしてくださっているのです。

 煩悩いっぱいに日々明け暮れる私をそのまま救う
救わずにはおかないとおはたらきの
阿弥陀さまのご本願に出遇えた喜びが
法然聖人に騙されて地獄に堕ちても後悔しないという
親鸞さまの安心となり
どんな行も満足に修めることができない私だが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お浄土に生れさせていただける確信になったのです。

 私たちの日々の生活を振り返ると
やっぱり私が私がと自分を中心に生きる私ですが
阿弥陀さまはそんな私を見放さず
南無阿弥陀仏といつも寄り添って
私と共に生きてくださる仏さまに成ってくださったのです。

 お念仏申して阿弥陀さまの心おはたらきをいただき
今日も一日私にできる精いっぱいの
ご恩報謝の日暮らしをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.14)


「私のための道が ここにあった」

2021-09-13
 今日13日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私のための道が ここにあった」です。

 本文は第二条の
「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて
念仏して地獄におちたりとも
さらに後悔すべからず候」
<「法然聖人にだまされて、念仏して地獄に堕ちても
 決して後悔しない」という言葉は
「他に自らの救いの道はない」という深い自覚と
 真実の言葉を正しく伝えてくださる法然聖人に対する
 絶対的な信頼の表れである>です。

 第二条の場面がずっと続きます。
関東の門弟たちから「往生極楽の道」を問われた親鸞聖人は
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひとの仰せをかぶりて 信ずるほかに別の子細なきなり」
とこたえられます。

 よきひと法然聖人に親鸞さまも同じことを問われ
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と
法然さまの仰せを聞かれたのでしょうね。

 比叡山で20年間生死出ずべき道を求めて
厳しい学問修行を積み重ねても
たすかるべき道に遇うことなく
悩み苦しみ絶望のどん底にあったあった親鸞さまに
「念仏一つで救われる」往生極楽の道を
法然さまが開いてくださったのです。

 「お念仏の道を往け」「お念仏の道を来い」の
釈迦弥陀二尊のお勧めに遇って
「お念仏の道を一緒に往こう」と
法然さまの力強い仰せだったのです。

 私が救われて往く道はただ一つお念仏の道と聞かれ
たとえ法然さまに騙されて往く処が地獄であっても
決して後悔しないとまで信順して親鸞さまは
法然さまと共にお念仏の道を歩んで往かれたのです。

 私のための道が今ここにあると
遥か遠い昔からこの私を救わずにはおかないと
阿弥陀さまは無礙の光明を放ち摂取不捨の名号となって
お念仏の道を開いておはたらきなのです。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされて
「お念仏申してこの道を来い」と
南無阿弥陀仏のお喚び声に促され
お念仏申して今日も一日
往生極楽の道を共々に歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.13)


「人間の言葉は 当てにならない そんなものに 惑わされるな」

2021-09-12
 仏教壮年会の9月の例会です。
朝早くから皆さんで境内の清掃をしていただき
お朝事のお勤めをご一緒させていただきました。
 ありがとうございます。

 今月一か月は御仏前に毎朝掲示しています
『日めぐり歎異抄』のことばのお話をしています。 

 今日12日のことばは
「人間の言葉は 当てにならない 
そんなものに 惑わされるな」です。

 本文は『歎異抄』第二条の
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん
また地獄におつべき業にてやはんべるらん
総じてもつて存知せざるなり」
<親鸞聖人は「念仏が浄土に生れる因か
 地獄に堕ちる行いなのか、まったく知らない」
 と言われている。
 この「知らない」という言葉は
 「私が判断することではない」ということを
 知らせるとともに、人間の言葉によって
 確証を得ようとすることの危険性を教えてくれる>です。

 歎異抄第二条は、関東の門弟お弟子さんたちが
京都の親鸞聖人を訪ねて来て面談する場面です。
 当時は歩いて行く旅で道中盗賊にあったり
いろんな危険をはらむことで
まさに命がけで何日も旅して
親鸞さまにお会いできたのです。

 その目的は「往生極楽の道」を問い聞くためで
浄土真宗のみ教えの一番の根幹です。
 ただその肝要は親鸞さまが関東に居た時に
何度も何度もお話していたことであり
何度も何度も門弟たちは聞いていたことです。

 親鸞さまが関東から京都に帰られて10年20年経つと
異議といって異なる教えが門弟の中で広まって
迷いや不安がおこってきたといいます。

 人間が言う言葉です。
私は親鸞さまからこう聞いたとかこう思うとか
私はということの危険性です。

 通常私たちが日常生活を営む上での言葉ではなく
仏さまのご法義についての言葉です。
 阿弥陀さまの真実信心のみ教えです。
私のはからいが一つも入らない仏さまのお言葉です。

 親鸞さまは門弟たちの問いに
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひとの仰せをかぶりて
信ずるほかに別の子細なきなり」とだけ答えました。

 遠路はるばる命がけで旅して来た門弟たちは
親鸞さまから「こうだよこうだよこうだからこうだよ」と
聞いて往生極楽の確証を得たいのです。

 親鸞さまが言われた言葉が肝要なのです。
親鸞さまが言うことは間違いない
他の人たちも疑う余地はないということです。

 間違いないのは阿弥陀さまの本願念仏のみ教え
南無阿弥陀仏のお救いの法です。
 そのことを善知識に遇って聞信し
お念仏申す身にさせていただくのです。

 人間の言葉というのは
自分の都合でものを言っていることが多く
仏さまからいうと虚仮不実というのです。

 阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の言葉になった仏さま
と聞かせていただきます。
 称えやすく保ちやすく
私の口から出てくださる南無阿弥陀仏のお念仏です。

 阿弥陀さまは「わが名を称えてくれよ聞いてくれよ」と
いつでもどこでも誰にでもおはたらきです。
 南無阿弥陀仏とお念仏を申すところ
「私がいるよ大丈夫だよ安心しなさい。
どんなことがあってもあなたを見捨てることはないからね。
我にまかせよ必ず救う」と
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
私たちは生かされて生きているのです。

 仏さまから見ると
自分のことで生きることで精いっぱいで
右往左往ウロウロ迷っている私を
無礙の光明と名号でそのまま抱き取り
お念仏申す身にさせて必ずわがさとりの浄土に生れさせると
おはたらきくださる南無阿弥陀仏の言葉になった
阿弥陀さまが今こここの私とご一緒くださる有難さ尊さです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.12)


「尊敬できる人に 出遇えた人は しあわせです」

2021-09-11
 今日11日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「尊敬できる人に 出遇えた人は しあわせです」
 本文は『歎異抄』第二条の
「親鸞におきては
ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひと(法然)の仰せをかぶりて
信ずるほかに別の子細なきなり」です。

<親鸞聖人は「法然聖人の仰せをただ信じるだけだ」
 と言われている。
 しかしそれは、法然聖人の考えを信じる
 という意味ではなく
 自分の考えを入れず阿弥陀さまの願いを
 そのまま伝えてくださっている
 法然聖人の言葉を信じているのである>と解説です。

 昨日お話しましたが
関東から門弟たちが京都の親鸞聖人を訪ねて来ます。
 浄土真宗のみ教えの肝要である
「往生極楽の道」を聞くためでした。

 それに対して親鸞さまは
「ひとすじにお念仏をよろこんで
阿弥陀如来にたすけられるのですよと言われた
よき師法然聖人のお言葉をそのままに信じているほかに
別のわけなど何もないのです」(意訳)と答えられます。

 門弟たちは「こうだよこうだよこうだからこうだよ」と
親鸞さまから納得のいく説明を直接聞くことを
期待していたのではないでしょうか。

 今日の御文章さまに「善知識」とありました。
阿弥陀さまの本願念仏のお心をお取り次ぎしてくださった
親鸞さまにとっては法然さまなのですが
法然さまの考えを信じるのではありません。
 南無阿弥陀仏のお心のままに生きてらっしゃる
法然さまのことを慕って
その言われるところを信じるということです。

 御文章さまの最後には
「善知識というは阿弥陀仏に帰命せよといえる
つかいなり」
<善知識とは阿弥陀仏に帰命しなさいと
 教えすすめる「つかい」>とあり
「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを
本とすべきこと、おおきなるあやまりなり」
<帰命すべき阿弥陀仏をないがしろにして
 善知識ばかりをたのむことは、おおきなあやまりです>
と続きます。

 お念仏のみ教えを伝え勧める人との出遇いは大切ですが
要はその中心は南無阿弥陀仏の本願力一つであり
伝える人も聞く人も共に阿弥陀仏に帰命し
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と
共々にお念仏申す身にお育ていただくことと
有難く聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.11)


「どこに向かって 生きていますか?」

2021-09-10
 今日10日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「どこに向かって 生きていますか?」です。

 本文は『歎異抄』第二条の
「おのおの十余箇国のさかひをこえて
身命をかへりみずして
たづねきたらしめたまふ御こころざし
ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり」です。

<私たちはどこに向かって生きているのだろう。
 親鸞聖人は「さとり(真実)の世界である極楽浄土に
 向かって生きよ」とお示しくださっている。
 極楽浄土に往生する(往って生まれる)のは
 この世のいのちを終えると同時であるが
 極楽浄土に向かって生きるのは
 「いま、ここ」なのである>

 第二条は関東から門弟たちが京都の親鸞聖人を訪ねて
「往生極楽の道」を問いただそうとする緊迫の場面です。
 何日も歩き続けての旅で道中身の危険もあり
まさに命がけのことでした。

 それほどまでに「往生極楽の道」は浄土真宗の肝要で
親鸞さまが関東に居た時に直接何度も示されたことですが
京都に帰られて10年20年と経つと異義が出てきて
門弟たちに迷いが生じ大きな不安になったのです。

 迷いとは
道に迷うことを例にすると
迷いの要件が二つあって
一つは現在地が分からない一つは目的地が分からないことで
これを迷いというのです。

 人生を旅に譬えて人生の旅の道中にあって
「どこに向かって生きているのか?」という問いです。

 目的地がはっきりすることで
今をどう生きるのかが確かめられますが
目的地がはっきりしないと大きな不安になり
迷い苦しみ悩むということになります。

 人生は一日一日の積み重ねと
私たちは若くて元気なうちは
「今を生きる」ことに執心努力しますが
生きるということは
いつまでも若く健康であるわけではなく
老いていく病んでいくなかに
死ということを意識します。

 「死んだらどうなるのか」という問いです。
後生の一大事の解決こそが
人生の根本的な宿題なのですが
そのことに向き合うことなく
「死んだら終い」などと嘯いている私がいます。

 阿弥陀さまはそんな私に南無阿弥陀仏の法を成就して
「わが名を称えてまかせよ救う」と
喚んでくださっているのです。

 本願を信じお念仏を申す身に仕上げてくださって
阿弥陀仏の摂取の光明の中にこの人生を生きて
人の命終わる時そのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏にしてくださるのです。

 阿弥陀さまのお浄土に往き生まれる人生を
南無阿弥陀仏とお念仏申して
今こここの身を生き抜かせていただく
浄土真宗のお念仏の道です。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
阿弥陀さまのお慈悲の光明の中に
今すでに救い取られて往生極楽の道を
歩ませていただいているのです。

 お釈迦さまの「この道を往け」のお勧めの声に励まされ
阿弥陀さまの「この道を来い」のお喚び声にまかせて
今日一日もお念仏申して往生極楽の道を
歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.10)


円光寺
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