「亡き人のためと」いう思いは「私がいかに生きるか」という問いに転換される
2021-09-19
今日19日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「亡き人のためという思いは
自分がいかに生きるかという問いに転換される」です。
歎異抄第五条の
「親鸞は父母の孝養のためとて
一返にても念仏申したること、いまだ候はず」
<親鸞聖人は、亡き父母のためと思って称える
追善供養の念仏を否定された。
それは、念仏は、私が作った善ではなく
仏さまからのよび声だからである。
私がそのよび声に導かれながら生きることこそ
実は亡き父母のためでもあるのである>です。
「人の死後、死者に縁のある生存者がその死者のために
後から追って善事を行う」追善供養についてです。
親鸞さまがいただかれたお念仏のみ教えは
阿弥陀如来がこの私を必ず救うと仕上げてくださった
南無阿弥陀仏のお救いの法を私が聞かせていただき
お念仏申す身にさせてもらってお浄土への人生を歩み
命終のとき浄土に生まれて仏に成る教えです。
お念仏は阿弥陀さまのおはたらきそのもので
私がつくる善ではありません。
私が亡き人のためにお念仏を称えることで
善根功徳を回向するのではなく
阿弥陀さまがこの私のためにお念仏を回向して
「必ず救うまかせよ」とおはたらきなのです。
「親鸞は父母の孝養のために一返も念仏申したことがない」
と聞いて
親鸞さまは父母やご先祖を大切にしない
冷たい方だと思われるかもしれません。
親鸞さまは幼い頃に母と死別し父とも生別して
ずっと叔父さんの家で暮らしていたといいます。
父母に早く別れたことで
父母を慕う気持ちは人一倍強かったのではないでしょうか。
聖徳太子さまを讃える御和讃には
仏さまを父母のように慕う思いが多く見受けられます。
それでは何故父母への思いを篤く抱く親鸞さまが
追善供養の念仏を否定されたのでしょうか。
私たちはご先祖の年回法要をお勤めしますが
どんな思いでご法事をお勤めしているでしょうか。
この世に遺った遺族親族がご法事をお勤めすることで
そのままご先祖を供養するというのが
一般的な理解でしょうが
ご法事は先にお浄土に往かれたご先祖の仏さまが
私たちのために開いてくださった仏さまのご縁なのです。
先に往かれた方は冥界を迷っている亡霊ではありません。
迷っているのはこの迷いの世界に生きている私たちです。
迷う私にどうか仏法を聞いて阿弥陀仏の本願力を信じ
お念仏を申す身になってくれよと願われているのです。
そもそもお念仏は私がつくった善ではなく
仏さまが私のためにつくってくださった救いの手立てです。
阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって
私のところに来てくださってこの私をそのまま救うと
おはたらきくださっているという教えが
南無阿弥陀仏一つで救われるお念仏の救いの法です。
ご法事のご縁に阿弥陀さまの御尊前に座らせていただき
ご先祖を仏さまと仰いでお念仏申しお礼をさせていただきます。
ご先祖有縁の仏さまが南無阿弥陀仏となって私たちに
阿弥陀さまのお念仏の救いの法を届けてくださったと
見事に先に往かれたご先祖と私たちがお念仏につながるのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
お父さんお母さんは仏さまとなって
私のところに還って来てくださって
今こここの私を護り救うとおはたらきくださっているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.19)
「できるだけのことを させていただこう」
2021-09-18
今日18日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「できるだけのことを させていただこう」です。
本文は歎異抄第四条の
「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」
<自分の損得を考えず、本当にすべての人を慈しむという
聖道門(自分の力自力をたよりに修行して
この世でさとりを獲ようとする教え)の慈悲を
実践することは難しい。
「この世では不完全な慈悲しか持てないからこそ
できるだけのことをさせていただく」という
気持ちを忘れないようにしよう。
それが浄土門(仏の力他力によって浄土に生まれ
さとりを得ようとする教え)の慈悲である>です。
慈悲は智慧と共に仏さまのお徳おはたらきです。
この慈悲に聖道門と浄土門とでは
大きな違いがあるというのです。
聖道門はこの世で修行を積んで
さとりを開き仏に成る仏道ですから
完璧な仏さまの慈悲を実践できます。
一方私たちの浄土門の仏道は
浄土に生まれて仏に成るということで
この命終わってからのことになり
この世で仏さまとして完璧な慈悲の実践はできません。
浄土からこの迷いの世に還って来て
はじめて完璧な仏さまの慈悲が実践できるのです。
このことを聞いて浄土門の仏道を歩む
お念仏を申す私たちが行うことは
到底不完全なものでしかないのなら
最初から何もしなくていいというのではありません。
仏さまのお慈悲の心を聞けば聞くほど
私にできることをさせていただこうと思います。
私がしたということではありません。
仏さまのお手伝いをさせていただくということです。
私が行うことは諸善も雑毒といわれるように
私がしてあげたという慢の心が見え隠れし
してあげたのにお礼の一言がないなどと
返って人間関係がぎくしゃくすることにもなります。
これも私のありのままの姿と振り返させていただけるのも
お念仏のおはたらきと聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.18)
「悪人こそ救いのめあて 私こそ救いのめあて」
2021-09-17
今日17日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「悪人こそ救いのめあて 私こそ救いのめあて」です。
本文は歎異抄第三条の
「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」
<「善人でさえ浄土に往生することができる。
まして悪人は言うまでもない」とある。
この言葉は、常識的に考えれば、理解不可能である。
ここでいう悪人とは、煩悩だらけの人間のことである。
具体的には、私のことである。
この私こそ阿弥陀さまの救いのめあてなのである>
「悪人こそ救いのめあてである」という悪人正機の教えは
親鸞聖人の教えの代名詞のようになっていて
私が高校生の時に習った記憶がありますが
鎌倉時代に親鸞というお坊さんが浄土真宗を開いて
悪人正機という教えを説いたというぐらいのことです。
善いことをすれば救われて
悪いことをすれば救われないと聞くと
うんと頷ける私たちですが
悪人こそが救いのめあてであるというと
えっと思うのではないでしょうか。
親鸞聖人ご在世の頃
悪人正機の教えを聞いて悪人が救いのめあてだったら
進んで悪いことをしようと聞いた人がいました。
造悪無礙(ぞうあくむげ)という
悪事を犯しても浄土往生の救いのさまたげにならないという
異義といわれる正統な教義とは異なる教説です。
悪人こそ阿弥陀さまの救いのめあてという悪人は
法律上道徳的に悪いことをした悪人ではなく
阿弥陀さまの智慧の光明に照らし出された悪人で
煩悩具足の凡夫の私こそが悪人だと親鸞さまは
法然聖人の教えを聞かれたのです。
人人を見てあの人は悪人でこの人は善人という
私たちのものの見方ではありません。
阿弥陀さまが私に真正面から向き合うなかで
智慧の光明でこの私を悪人と知らせて
大悲のお心おはたらきでそのまま光明の中に
救うてくださるのです。
この私をこそ摂め取って捨てないお姿が
お立ち姿の阿弥陀さまです。
すっとお立ちになって向こうから
私を眺めているのではありません。
南無阿弥陀仏のお名号となって
私のところに来てくださって「まかせよ救う」と
喚んでくださっているのです。
悪人とはどういう人なのでしょうか
悪人とは誰のことなのでしょうか。
欲の心怒りの心愚かな心を暇なく起こし続けて
日夜生きている私のことだったと
お念仏の法に聞かせていただくときに
「わが名を称えて我をたのめ必ず救う」と
阿弥陀さまのお喚び声が聞こえてきます。
「他力をたのみたてまつる悪人
もっとも往生の正因なり」のお言葉を力強く承ります。
阿弥陀さまの仰せに「はい」っと信順して
今日一日も往生浄土のお念仏の道を歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.17)
「自分で選んだ 道だけど 選ばせていただいた 道でした」
2021-09-16
今日16日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「自分で選んだ 道だけど 選ばせていただいた 道でした」です。
歎異抄第二条の「念仏をとりて信じたてまつらんとも
またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」
<「念仏ひとつで救われる教えを受け容れるかどうかは
皆さん一人ひとりのお考えしだいです」という言葉は
やさしい言葉のようにも聞こえるが
実はとても厳しい言葉である。
自らの生きる依りどころとして、念仏を選ぶかどうかは
各々の責任で決断しろということである。
ただし、念仏を選んだ後には、選ばせていただいた
という気持ちが湧いてくるのも確かである>です。
第二条はずっと今日まで続きました。
往生極楽の道を問い聞くために関東から門弟たちが
命がけで親鸞聖人の元を訪ねます。
親鸞さまのおこたえは
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひとの仰せをかぶりて
信ずるほかに別の子細なきなり」でした。
そして最後に今日の本文です。
「私の信心はこの通りです。
このうえは、お念仏を信じようと、また捨てようと
皆さん方各自の判断におまかせするばかりです」
との仰せだったのです。
えっと思われたのではないでしょうか。
関東から遙々京都まで訪ねてきて
親鸞さまからあたたかいお言葉をいただこうと
思っていたのではないでしょうか。
「それはこうだよこうだよ。こうだから大丈夫だよ」と
親鸞さまの確固たるお墨付きを
いただきたかったと思うのです。
それが「念仏をとりて信じたてまつらんとも
またすてんとも、面々の御はからいなり」と
突き放すように言われるのです。
でも確かにそうですよね。
親鸞さまが言ったから真実まことなのではなく
みんなが言ってるから昔から言ってるから
でもありません。
念仏そのものが真実まことであって
信じるのも捨てるのもそれぞれ各自の選びなのです。
往生極楽のお念仏の道はあなたが歩く道でしょ
他人に歩んでもらう道ではなくあなたが生きる道でしょ
との仰せといただきます。
私が念仏を選んで私が歩む道です。
今日も皆さん阿弥陀さまの御尊前に座っていますね。
私がいつもの席に座ったのです。
皆さんそれぞれの指定席です。
私が自ら座った席ですが
御仏前に座ってお念仏申させていただくと
「ここに座れ」とこの席を用意して待っていてくださった
阿弥陀さまのおはたらきが有難く思われます。
いつも私のことを思ってくださって
阿弥陀さまがご一緒してくださることの
これほど確かな安心はありません。
「面々の御はからひなり」といって厳しいお言葉ですが
親鸞さまのあたたかい仰せだったのです。
そのことを有難くいただいて
関東の門弟たちは日々の生活に帰って行ったのですね。
お念仏を申す生活です。
今日もお念仏申して始めましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.16)
「永遠の真実が 今 ここに 届いている」
2021-09-15
今日15日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「永遠の真実が 今 ここに 届いている」です。
本文は引き続き第二条の
「弥陀の本願まことにおはしまさば
釈尊の説教虚言なるべからず。
法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね
またもつてむなしかるべからず候ふか」
<釈尊や高僧が言われたから真実なのではない。
真実そのものが、釈尊や高僧を通して
現れているからこそ、真実なのである。
だから、その真実を受け容れている親鸞聖人の言葉も
空しいものではない>です。
私たちの日常会話のなかで
「私が言うことを信じなさい」と
「私が言うことは間違いないから」と言われます。
誰々という権威のある人が言っているからとか
あの人もこの人もみんな言ってるから
昔から言ってることだからということを
根拠にして理屈を言い出すのが私たちのようです。
この歎異抄の論法は
「弥陀の本願まことにおはしまさば」と
阿弥陀仏の本願が真実であるならと示され
それをお説きになったお釈迦さまの教えは真実であり
そのお心を七高僧さまから伝え届けられた
法然さまのお言葉が真実であるなら
この親鸞が申すことも無意味なことでは
ないでしょうと言われるのです。
要は阿弥陀仏の本願の真実を
信じるか疑うかということであって
今こここの私に届けられた真実を聞かせていただくことで
私の言うことを信じなさいではなくて
真実の言葉を共々に聞きましょうということなのです。
私たちは人と人と関係で
お互いに自分の都合に合わせて
ものを言ったり聞いたりしていませんか。
どこまでも自分の意見を主張するところがある一方で
あの人の言うことはまあまあ聞いておこうという姿勢では
お互いに理解し合える人間関係とはほど遠く
不信感もめばえてきます。
真実依りどころの中心です。
私たちは仏さまのご縁をいただいて
阿弥陀さまの御仏前にご一緒しお念仏申して
南無阿弥陀仏の真実のみ教えを聞かせていただきます。
お念仏を伝え届けてくれた善知識がいます。
親鸞さまにとっては法然さまであり
法然さまにとっては中国の善導大師ということでしょう。
そしてお釈迦さまです。
阿弥陀さまから無量の諸仏方によって
貼るかな時間と空間を超えて
今こここの私のところに永遠の真実である
南無阿弥陀仏が届けられているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.15)