「この一言に 出遇えて 本当によかった」
2021-09-29
今日29日の『日がわり歎異抄』のことばは
「この一言に 出遇えて 本当によかった」です。
歎異抄後序の
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと
みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておはします」
<「私は、煩悩だらけの愚かな人間であり、この世は無常で
すべてのことは、そらごと、たわごとで
何一つとして永遠に変わらないまことはない。
ただ、念仏のみ永遠に変わらないまことである」とある。
南無阿弥陀仏のみ教えに出遇った時
そんな世界が開けてくる>です。
私たちは今コロナ時代を生きてます。
コロナ感染対策のためにステイホームの外出自粛が続き
学校も職場も休みになったりリモート対応だったりと
私たちの生活がすっかり変わりました。
コロナ下で殊更今日の御文を思い起こします。
この世のことは燃えさかる家のように
瞬く間に移り変わるというのです。
日々変わり行く大きな不安の中に
南無阿弥陀仏の救いの法を聞かせていただきます。
「ただ念仏のみぞまこと」と私たちは真実まことの
生きる依りどころをいただいているのです。
阿弥陀さまは「どんなことがあっても
あなたを見捨てることはないから
よりかかれよりたのめ、わが名を称えてこの道を往こう」と
いつでもどこでもご一緒してくださる
仏さまになってくださいました。
コロナ下の中だけでなく
私たちは日々無常の中を生きているのです。
変わって行きます。
世の中のこともわが身のこともです。
いつまでも若くて健康でというわけにはいきません。
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏となって
老いるなかに病むなかに私のところに来てくださり
この命終わるときそのまま
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただいて
さとりの仏さまに成らせていただける
「ただ念仏のみぞまこと」のみ教えに
聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.29)
「私の都合で「いい」「悪い」」
2021-09-28
今日28日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私の都合で「いい」「悪い」」です。
歎異抄後序の
「聖人の仰せには「善悪のふたつ
総じてもつて存知せざるなり」」
<親鸞聖人は「何が善で何が悪なのか
そのどちらも私はまったく知らない」と言われている。
私たちの善悪の判断は、自己中心的である。
私にとって都合のいいものを「善」といい
私にとって都合の悪いものを「悪」という。
仏の教えに出遇った時
そんな自らの姿が明らかになる>です。
私たちのものの見方は
「いい」とか「悪い」とかに終始しています。
今日はいい日だった悪い日だったと言い
あの人いい人悪い人と
全てと言っていいほど「いい」「悪い」というところの
判断です。
そういう私のものの見方を仏さまは
自分の都合で「いい」と言ったり
「悪い」言ったりしていませんかというのです。
昨日まで「これほどいい人はいない」と言っていた人が
今日には見事に悪い人にひっくり返るのが
自分の都合に合わせた私たちの善悪の判断です。
自分のことはどこかに置いていてということですが
私もそういう見方で見られているということです。
お互いに自己中心的なものの見方のなかで
自ら苦しみ悩んでいるこの私の姿を見た阿弥陀さまは
すっとお立ちになってこの私をそのまま救うと
南無阿弥陀仏とおはたらきだというのです。
昨日は秋篠宮家の眞子さまと結婚の調整が進む
小室圭さんがアメリカから帰国し
そして大相撲の横綱白鵬の引退もあって
ワイドショーだけでなくテレビ報道が賑やかでした。
話題のことだけにここも「いい」「悪い」が
ついてまわります。
その人人のことで私には直接関係ないことなのですが
面白おかしく報道されていつか忘れ去られることの
繰り返しです。
人人それぞれにいろんな見方があってもいいわけですが
この私のことで「いい」「悪い」と言われたくないし
そっと見守ってほしいですね。
わが身のことでいったら
この人生、いいことも悪いこともあった人生です。
いい悪いをひっくるめてこれまで生きてきて
今のこの私なのです。
善悪の判断を超えてこの私をそのまま救うと
いつも阿弥陀さまがご一緒してくださることを
南無阿弥陀仏とお念仏を申し聞かせていただいて
今日もこの命輝かせて生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.28)
「私一人のための ご苦労でありました」
2021-09-27
今日27日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私一人のための ご苦労でありました」です。
歎異抄後序の
「聖人のつねの仰せには
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとへに親鸞一人がためなりけり。
さればそれほどの業をもちける身にてありけるを
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
<「すべての人を必ず救うという阿弥陀さまのご本願は
よくよく考えてみれば、この私のためだった」
このように受け取れたとき
はじめて本願の真意が心に響いてくる>です。
この言葉もよく聞かれる有名な言葉です。
般若経というお経さまに
「如来、ひとり我がために法を説けり」とあります。
如来仏さまは私一人のために仏法を説いてくださったと
今日の親鸞さまのお言葉に通じます。
「親鸞一人がため」のお心を
私たち一人一人にあてはめていただくと有難いですね。
この私一人のために阿弥陀さまはお立ち姿になって
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」と
おはたらきくださっているというのです。
阿弥陀さまは十劫の昔に仏さまに成られたといわれます。
十劫という遥か昔にこの私一人のためにというのです。
と言われても私たちはこの世に生まれて生きている間の
ことぐらいにしか思っていませんが
この人間に生まれる前があった
その前もあったその前も前もと
遠い遠い遥か昔から私たちは迷いの世界を流転して来て
このたび人間に生まれて今生きているというのです。
この私を必ず救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏のお心が今ここに届けられて
遥か昔からこの私一人のために
ご苦労いただいたと聞かせていただくときに
何ともったいない何と有難いと
お礼のお念仏を申す生活をさせていただけるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.27)
「何をしでかすか わからない そんな私」
2021-09-26
今日26日の『日めぐり歎異抄』ことばは
「何をしでかすか わからない そんな私」です。
歎異抄第13条の
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」
<「しかるべき縁があれば
どのような行いもするものである」とある。
「いいことをしようと思ったら出来る。
悪いことを止めようと思ったら止められる」と思ったら
大間違いである。
縁にあえば(条件がそろえば)
どんな恐ろしいこともしでかすか
わからないのが私なのである。
そんな私という存在の危うさを忘れないでいたい>です。
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」
のお言葉は歎異抄の代表的な言葉の一つで
よくご法話等々で聞かせていただきます。
最近は耳を疑うような信じられない
凶悪事件の報道にあいます。
そんな時に「私はとてもあんなことはできない」と
思うのが私たちではないでしょうか。
第13条は親鸞さまと唯円坊との会話で
人を千人殺せと言われて殺せないのが私たちだが
縁があって条件が整えば人を殺すことも
どんなことでもしかねない私だと
親鸞さまがおっしゃるのです。
事件までにはなりませんが
人と人との関係で
何であんなことを言ったのか何でこんなことをしたのか
何でどうしてと今も思い起こすことってありませんか。
言葉や行いに出さないまでも
「あいつさえいなければ」と心の中で
何人も人を殺してこなかったでしょうか。
偶々条件がそろわなかっただけで
何をしでかすかわからないこの私を
見抜かれた上で必ず救うとおはたらきの
阿弥陀さまなのです。
悪いことをしてもいいよ
どんなことをしても救うからいいよと
いっているのではありません。
何をしでかすかわからない私が
心配で心配でならなくて大悲の中から
南無阿弥陀仏とお念仏を申してくれよと
喚んでくださっているのです。
阿弥陀さまのお心とは裏腹の私たちの有り様です。
自分の思い通りにならないことがって腹を立てます
怒りの心が口に出ます。
その口からお念仏が出てくださるのです。
「どんなことがあってもあなたを見捨てないからね」と
大悲のお心でいつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒です。
お念仏申すとき安心できます。
阿弥陀さまのお喚び声が聞こえてほっとします。
いつも私のことを思ってくださり心配して
ご一緒くださる阿弥陀さまのことを思って
お念仏申させていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.26)
「私のはからいが 邪魔になることもある」
2021-09-25
今日25日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私のはからいが 邪魔になることもある」です。
歎異抄第10条の
「念仏には無義をもって義とす。
不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」
<「他力の念仏は、自力のはからいがないことを
本義(根本的な意義)とする」とある。
「念仏をたくさん称えれば安心し
少ししか称えなければ不安になる」
それが自力のはからいである。
他力の念仏は、私が称えているままが
阿弥陀さまがはたらいてくださっている
(真実へと導いてくださっている)姿なのである>です。
私たちははからいをもって生きています。
私のはからい思いです。
それはどこまでも自分中心の思いであって
欲の心怒りの心愚かな心の煩悩に通じます。
仏さまはかねてよりこの私を
煩悩具足の凡夫と見られたのです。
私たちは命終わるときまで
煩悩具足の凡夫の身を生きていくというのです。
念仏申すことにも私のはからいが入ると
阿弥陀さまのお心とは遠い念仏になるというのです。
私が称える念仏ということに力が入ると
念仏をたくさん称えたほうがいいとかいう見方になって
他の人が称える念仏にも善い悪いと見方を付けます。
他力の念仏といいます。
他力とは阿弥陀さまの力おはたらきですから
阿弥陀さまからいただいたお念仏というのです。
私がこの口で称える私の声になったお念仏ですが
称えるままが阿弥陀さまがおはたらきくださっている
お念仏と聞かせていただくのです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申すそのままが聞こえてきます。
「われにまかせよ必ず救う」の阿弥陀さまのお喚び声です。
阿弥陀さまの他力のおはたらきのお念仏が
私に至り届いたときに「はい」と
お念仏申させていただきます。
阿弥陀さまのお救いの御恩に報謝する
お礼の念仏です。
南無阿弥陀仏と声に出して
お念仏を申させていただきましょう。
私の耳に届いてきます。
隣の人にも届きます。
阿弥陀さまのお救いのおはたらきが
十方衆生に行き渡ってくださっている尊いご縁です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.25)