本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

「聖教はよみやぶれ」

2021-10-04
 蓮如上人のお言葉
「聖教はよみやぶれ」です。

 お聖教といい聖典のことです。
お釈迦さまが説かれたお経さまであり
お経さまのお心を伝えてくださる
親鸞聖人蓮如上人のお言葉です。

 毎朝お朝事のお勤めで
お正信偈御和讃と親鸞さまのお言葉
蓮如さまのお手紙の御文章を拝読させていただきます。
 お聖教に遇わせていただく有難いご縁です。

 お聖教を大切な証文といいます。
大切なものだから大切にしましょうということです。
 皆さんもそれぞれ大切なものがあって
大切にされていると思いますが
大切なものだから仕舞い込んでしまっているという
話を聞くことがあります。
 私にも思い当たることがあります。

 蓮如さまは「聖教は読み破れ」とおっしゃっています。
お聖教を大切にするというのは仕舞い込むのはなく
常に日々の生活のなかで拝読させていただくことが
大切であるというお示しです。

 皆さんの聖典です。
毎日ずっと長く触れていると手垢がついて
汚れてきます。
 毎日何度も御文章を拝読してボロボロになったという
お念仏の先人の話を伝え聞きます。

 「聖教はよみやぶれ」と
読み破れるぐらいにお聖教を読み聞くことが大切なんだと
聞かせていただきます。

 聖典の汚れは立派な勲章です。
勲章といって人に誇るようなことではありません。
 この私に毎朝届けてくださる親鸞さま蓮如さまのお手紙です。
お聖教のお心南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただいて
また今日一日をお念仏申して始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.4)


「おもいうちにあれば、いろほかにあらはるる」

2021-10-03
 今日からしばらく<蓮如上人のお言葉>を
お取り次ぎさせていただきます。

 お寺のお内陣やお家のお仏壇の向かって左奥に
ご安置させていただいていますお坊さまです。
 親鸞聖人のお流れをくむ本願寺第八代宗主で
本願寺中興の祖とかご再興の上人と尊崇され
広く親しまれています。
 お念仏のみ教えを全国津々浦々に伝道教化されて
今日の本願寺教団の基盤をつくられたご功績です。

 浄土真宗門徒の日常勤行として
親鸞さまが著述された『正信念仏偈』を制定され
蓮如さまのお手紙『御文章』を届けて
浄土真宗のみ教えの肝要を分かりやすく
お説きくださいました。

 蓮如さまが日々おっしゃられたお言葉を
『蓮如上人御一代記聞書』にまとめて
私たちに伝えてくださっています。
その中の言葉です。

 浄土真宗のキーワードは念仏です。
念仏なしに浄土真宗を語ることはできません。

 念仏はそのままいいますと
仏を念じる心に憶うということです。

 7世紀に中国に出られた善導大師の頃までの念仏は
阿弥陀仏のお徳おはたらきを心に憶うことでした。

 ただ私の心はいつも平静ではありません。
それこそ自己中心に欲の心怒りの心愚痴の心が
暇なくわきでて縁に触れて心が乱れます。
 常に心乱されるものにとって
念仏することは大変難しいことでした。

 そこで善導さまは「常に心乱れるものでも
南無阿弥陀仏と称えることはできるでしょう」と
「念ずることは称えることだ」と
称名念仏をすすめてくださったのです。

 お念仏は仏さまの名号南無阿弥陀仏を称えることで
いつでもどこでも誰でもみんなできることだと
念仏といえば南無阿弥陀仏と称える
称名念仏が一般的になったのです。

 蓮如さまは
「おもいうちにあれば、いろほかにあらはるる」と申され
心は乱れていても南無阿弥陀仏とお念仏が口から出るのは
阿弥陀仏を憶う心が内にあるからですよと
教えてくださったのです。
 阿弥陀さまのお心がもうすでに届けられているから
南無阿弥陀仏が口から出てくださるのです。

 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお徳おはたらきが
この凡夫の身に届いてこの凡夫の卑しい口から
南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださると
先人はお念仏申して阿弥陀さまのお慈悲のお心を
有難くいただいて私たちに伝えてくださったのです。

 お寺の本堂やお家のお仏壇お墓の前で
お念仏は称えやすいですね。
 どうぞ声に出してお念仏を申しましょう。
ただ私たちの日々の生活の中でもお念仏は申せます。
 忙しく仕事をしている間も遊びに行ってる時も
食事をしている時も風呂に入っている時も
南無阿弥陀仏と阿弥陀さまが「必ず救うまかせよ」と
喚び通しに喚んでおはたらきくださっているのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.3)


「仏法聴聞はかどを聞け」

2021-10-02
 今朝6時に花火が上がって
今日は小学校の運動会です。

 昨日に続いて仏法聴聞のお話です。

 親鸞聖人は聴は<ユルサレテキク>
聞は<シンジテキク>とお示しです。

 聴はこちらの方から聴いていくといいます。
お医者さんの聴診器の聴で
患者さんに不具合がないか具に漏らさず聴きます。
 耳が横に付いています。
耳をそばだててひたすら聴くのです。

 聞は<シンジテキク>といいます。
聞は門構えの中に耳と書きます。
 「聴聞はかどを聞け」と言われます。
仏さまのお話の要点を聞くということで
仏さまの教えを信じて聞くというのです。

 信じて聞くというと私が信じるか信じないかと
私がと力が入りますが
南無阿弥陀仏のご法義は
阿弥陀さまがこの私を条件なしに必ず救うという
本願力回向(他力)のお救いの法ですから
私が信じるか疑うかの前に
先手ですでに成就されおはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
そのまま信心いただく他力のおはたらきです。

 親鸞聖人が「聞とは仏願の生起本末を聞いて
疑心あることなし」とお示しのように
阿弥陀さまが本願を建てられた理由(わけ)と
その結末を聞かせていただきます。

 この私がいたということです。
迷い続ける救われ難い私がいたからこそ
阿弥陀さまがこの私をこそ必ず救うと本願を起こし
成就されたお姿がこのお立ち姿の阿弥陀さまであり
南無阿弥陀仏のお名号となって
「われにまかせよ必ず救う」と
今ここ、この私におはたらきなのです。

 阿弥陀さまのご本願のお心を私が聞いた信じたから
救われるのではありません。
 阿弥陀さまのお心を聞かせて信心いただいき
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされていることを
知らされて安心できるのです。

 信心いただきお念仏を申す身にさせていただかなければ
私たちはこのままずっと迷いの境涯をこれからも
経巡って行かねばなりません。

 大学受験の合格発表を自分で見に行けずに
友人に合格の可否を知らせてほしいと頼んで
合格発表の時間が過ぎても中々連絡がこなくて不安な中に
やっと合格したと連絡が入って安心するという譬え話です。

 連絡があって合格したのではなくて
もうすでに合格していたのです。
 合格通知がないまでは不安でいっぱいで
合格通知があって安心するのです。

 阿弥陀さまのご本願は今から十劫の遥か昔に
成就されているのですが
「聞其名号信心歓喜」とお経さまにあるように
本願成就の南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただく
そのままに信心いただくことが肝要なのです。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきの中にありながら
そのお心を聞くことなくこの人生を空しく過ごしては
また迷いの境涯を繰り返すだけです。

 阿弥陀さまが先手の南無阿弥陀仏のお救いです。
この私のこととしてお聴聞させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.2)


「仏法は聴聞に極まる」

2021-10-01
 10月になりました。
この時期はテレビ番組の再編成期にあたり
朝の番組の顔が一部変わって新たなスタートの装いです。

 自民党の新総裁に岸田さんがなって
4日の臨時国会で首相に就任するはこびです。
 総裁選挙の中で岸田さんは何度も
「私の長所は<聞く力>人の話をよく聞くことです」
とおっしゃっていました。
 国民の声をよく聞くと言うことなのでしょう。

 この聞くということについて
蓮如上人は「浄土真宗の仏法は聴聞に極まる」とお示しです。
 聴聞です。

 岸田新総裁誕生を受けてテレビのコメンテーターが
「人の話を聞くといって門構えの聞くではなく
耳辺の聴くで聴いてほしい」と言っていました。

 傾聴です。
耳を傾けて聞くということで
相手の話を相手の立場に立って共感しながら理解しようと
小さな声に耳を傾けるということです。

 相手の言うことを否定せず聴くということですが
できそうで中々難しいことです。
 相手の思いを聴くなかで
自分の思いをつい言ってしまうことがあります。

 「仏法は聴聞に極まる」の聴はひたすら仏法を聴くのです。
人を通じて仏法を聴くということです。
仏さまのお話ですが人がお話することです。

 ところが聴聞の門構えの聞は仏さまのお話を聞くのです。
同じ仏法仏さまのお話ですが
聴くと聞くの違いです。

 門構えの聞は門の中に耳が入っています。
仏門の門です。
 私たちの仏門は浄土真宗です。
浄土の門に入って仏さまのお心が聞こえてくるのです。

 ひたすら仏さまのお話を聴くなかに
仏さまのお心が聞こえてくるというのです。
 仏さまのお慈悲のお心です。
阿弥陀さまの本願念仏のお心
南無阿弥陀仏のお救いのおはたらきのお慈悲の心が
聞こえてくるのです。

 仏法聴聞とは仏さまのお心が聞こえてくるまで
ひたすら聴かせていただくということでしょう。
 生涯聴聞です。
聴いて仏さまのお心が分かったと思うところに
落とし穴があるようです。
 だからこそ仏法はひたすら聞かせていただくと
「仏法は聴聞に極まる」は大切にしたい言葉の一つです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.1)


「怒られたことより 悲しませたことが 心に残る」「人生をかけて 読む本に 出遇えた よろこび」

2021-09-30
 今日30日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「怒られたことより 悲しませたことが 心に残る」です。

 歎異抄後序の
「一室の行者のなかに、信心異なることなからんために
なくなく筆を染めてこれをしるす。
なづけて『歎異抄』といふべし」
<『歎異抄』は、親鸞聖人が伝えてくださった
 念仏の教えの受け取りが
 異なっていくのを嘆いて書かれたもので
 著者(弟子の唯円だと言われている)は
 「なくなく筆を染めてこれをしるす」と述べている。
 他を批判し糾弾する態度(怒り)ではなく
 異なることを嘆き、涙を流しながら(悲しみ)
 書いてくださったのである>です。

『歎異抄』を書かれた唯円さんの心持ちです。
怒るというよりも悲しむといいます。
 何が悲しいかといって
親鸞聖人から伝え聞いた阿弥陀さまのご本願のお心が
間違って受け取られている
これほど悲しいことはないと
泣く泣く筆を執って書かれたというのです。

 「それは間違いだ」と大上段に説き伏せるというのでは
人は素直に聞いてくれません。
かえって反発反論します。

 この泣く泣く書かれたというお心こそ
阿弥陀さまのお心といただきます。
 大悲のお心です。
阿弥陀さまの大きな悲しみお慈悲のお心です。

 それこそ救われようのない私がいたのです。
仏さまに背を向けて罪業を重ねる煩悩具足の凡夫の私です。
 その私に「そんなあなたじゃもう知りませんよ」
「これこれこうしなさい」と注文一つ言わないで
そのまま私に寄り添い抱き取って救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏のお救いのお心おはたらきを
ずっとお聞かせいただきます。

 9月は30日までですので
最後に31日のことばです。
「人生をかけて 読む本に 出遇えた よろこび」です。

「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。
無宿善の機においては
左右なく、これをゆるすべからざるものなり」
<第八代宗主蓮如上人は、『歎異抄』を
 当流(浄土真宗)の大慈の聖教と位置づけてくださった。
 聖教とは、単なる書物ではなく
 自分の人生を預けるに値するような書物のことである。
 人生をかけて読ませていただこう>です。

 これは蓮如上人が『歎異抄』を自ら書き写された最後に
「歎異抄は大切なお聖教で無宿善の人には
読ませてはいけない」と書き添えられたものです。

 それほど聖教は大事なお書物であるというのです。
自らの生死の帰依処
生きる依りどころ死して帰する処にまでなるものです。

 お聖教に親鸞聖人が唯円坊の筆を通じて
私たちに伝え届けられたのは
「念仏一つでどんな人も等しく救われる教え」
そのこと一つだったのです。

 どうぞ何度も何度もできたら声に出して
『歎異抄』を読まれて
人生の道しるべにしていただきたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.30)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
0
5
3
6
3
3
TOPへ戻る