クリスマスイブ
2024-12-24
今日12月24日はクリスマスイブで
キリスト教会ではイエス・キリストの誕生を祝う
ミサが誕生日の25日にかけて行われるといいます。
イブとはイブニングの略で「夜」の意味です。
日没から新しい一日が始まると言われ
クリスマスイブは25日の始まりになります。
先日「大逮夜とはどんな意味ですか?」と
質問されました。
逮夜とは「次の日に及ぶ夜」という意味で
仏教では命日や法要忌日の前夜をいいます。
今は故人の命日にお勤めすることが一般的ですが
以前は命日の前日の逮夜にお勤めする習わしがあって
今も地域によっては逮夜勤めの風習が残っています。
つまりは前日の逮夜から法要が始まり
次の日の命日まで丸一日お勤めをして
先に往かれた方を偲んだということです。
さて大逮夜とは
浄土真宗では宗祖親鸞聖人の御命日の前夜をいい
親鸞さまのお通夜の習いで
門徒衆一堂で
大逮夜法要のお勤めをさせていただきます。
たっぷりゆるやかな時の流れに身をまかせ
お念仏申して阿弥陀さまのお慈悲の中に
あなたも私も皆共にゆっくりゆったり過ごす
心豊かなお念仏の日暮らしを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.24)

生活の拠点
2024-12-23
今日は上皇さまの91歳の誕生日ということで
テレビ新聞でご近況が紹介されています。
90歳の上皇后さまとお二人暮らしです。
ご高齢になってお互いに気遣い支え合って
静かに穏やかにお暮らしとのことです。
6年前の天皇譲位については
大きな論議を醸しだしましたが
天皇という唯一特別な国家の職務にあって
その重要性と継続性を踏まえて
自らの意思を貫いたご英断でした。
上皇さまもまた一人の人間であり
限りあるこの人生を生死の迷いに苦悩して
生きていかねばなりません。
生活の拠点ということを思います。
人皆日々の日暮らしを送るなかで
その拠りどころとなる居場所であり
精神的な依りどころです。
誰とどこでどのように生きていくのか。
歳を重ねるなかで
共に暮らす家族のかたちが変わって行きます。
親子孫の三世代同居が一般的だったことが
高齢になるなかで夫婦二人や一人暮らしの方が
多くなってきました。
そのことだけにフォーカスすると
何か悲しい寂しさをおぼえますが
生活の拠点をハッキリ持つことで
社会とのつながりが明確になり
いかに生きていくのかを
自らの課題にすることで
充実した生活を送らせていただきます。
物質的な生活の糧もあり周囲の人とつながって
豊かな文化生活もできるでしょう。
お念仏申す生活をお勧めします。
お念仏のみ教えを生死の帰依処に生きて往きます。
この人生を生きる依り処であり
命終えて帰る処です。
お念仏申して南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
この人生を心豊かに生き抜いて
命終わってそのまま生まれさせていただくお浄土で
仏と成り懐かしい方々と再び会って迷いの世に還り
人々を救うおはたらきをさせていただくのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
あなたも私も皆共に生かされて
お念仏申す生活をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.23)

ユルサレテキク
2024-12-22
自己中心の思いはからいで生きて
縁あれば周りの人を貶め傷つけることもあるこの私を
阿弥陀さまは煩悩具足罪悪深重の凡夫と見抜かれて
必ず救うと本願をおこし成就して
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま救うと
お念仏のみ教えを聞かせていただきます。
善悪を超えてどんな人もそのまま救うといいますが
悪事悪行をそのまま許しているのでしょうか。
救いと許しは同じではありません。
親鸞さまは聴聞の聞の字のお心を
「ユルサレテキク」とお示しです。
悪事罪業をユルサレテではありません。
どんな極悪人も聞くことを許されるのです。
罪悪深重の凡夫を救うという本願のお心です。
悪人は問答無用で決して救わないのではありません。
ユルサレテというのは
聞いてくれよとの阿弥陀さまの願いです。
本願のお心に相応して聞くことを許され
ご本願のお心にかなった
私にできることをさせていただくのです。
「ユルサレテキク」とは
聞いてくれよの阿弥陀さまの
ご本願のお心だったのです。
そのお心がわが身に聞こえて来たとき
この悪人の口からお念仏が出てくださる
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.22)

行ったり来たり
2024-12-21
仏法聴聞のご縁にあって
「有難いなあ」と聞き入る仏さまのお話も
生活の場にかえるとすっかり忘れてしまい
ああやこうやと自分の思いはからいで生きようとしては
腹が立ったり泣いたり笑ったりで
苦しみ悩み行ったり来たりと迷う私ですが
これでいいのでしょうか?
と聞かれました。
阿弥陀さまは生死の迷いの境涯を生きる私を
煩悩具足の凡夫と見抜かれて
真実の浄土に生まれさせ必ずさとりの仏にすると願われ
本願成就の南無阿弥陀仏のおはたらきで
この私をそのまま救うと
往生浄土のお念仏の仏道を開いてくださいました。
転迷開悟の仏道です。
南無阿弥陀仏のおはたらきで
迷う私がそのまま転ぜられひっくり返って
お浄土でさとりの仏と成る浄土真宗の仏教です。
では日々の生活の中でお念仏のみ教えを
どのようにいただいたらいいのでしょうか。
お念仏申す生活実践です。
お念仏のみ教えを生活の中心要として
お念仏申されるように生きてまいりましょう。
こうしなさいこうしないといけませんと
生き方を告げる教えではありません。
私たちの生活ぶりは自分の思いを中心に
人それぞれに違いますが
南無阿弥陀仏のお心おはたらきにそのまま順じて
私にできることをさせていただきましょう。
左右に揺れ動く振り子の譬えです。
人それぞれに人生の道行きは
人との出会いと別れを繰り返し
楽しいことも苦しいことも喜び悲しみ
泣いたり笑ったりと揺れ動く人生です。
振り子は中心の要支点がしっかりしていることで
大きく左右に揺れることができるのです。
支点がなければ揺れることもかないませんし
どこかに飛んで行ってしまうことにもなります。
支点があることで行っては帰る
往復運動が続くのです。
自己中心の思いはからいで凡夫の身を生きる私が
南無阿弥陀仏のおはたらきで
そのままお念仏申す身にお育ていただくのです。
凡夫の身をお念仏がそのまま支えくださって
「大丈夫、思いっきり生きなさい」とおはたらきです。
ああやこうやと悩み苦しみ
行ったり来たりする迷いの凡夫を
往っては還す南無阿弥陀仏のおはたらきです。
行ったり来たりと色んなことがあるこの人生ですが
お念仏相続させていただき南無阿弥陀仏にまかせて
往生浄土の道行きをご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.21)

「響流」※転載
2024-12-20
わが子の高校の卒業式で
「遅く届く言葉があります。
それを受けとめられるようになってください」
という祝辞を聞きました。
元となっている哲学者の言葉があるようですが
「遅く届く言葉」という表現は
大変印象深いものでした。
当然、郵便や電子メールの遅速などを指している
わけではありませんから
言葉自体はすでに届いているけれども
言葉の意味するところの理解や受けとめに
時間がかかるという大意でしょう。
たとえよく知られている格言でも
年を重ねてからようやくその含蓄に触れられる場合が
あるかもしれません。
経典には「響流十方(こうるじっぽう)」(仏さまの言葉は
あらゆる世界に響きわたる)と説かれ
私たちが今、聞かせていただいている仏さまの言葉は
2500年前のインドから伝わり届いています。
しかし、さとりの世界の言葉を理解したり
さらにわが身に引き当てて味わうことは
時間のかかる場合が多い
というべきではないでしょうか。
ネット上では
一見して目を引く言葉が発信され続けていますが
来たる2025年もまた
ゆっくりと仏さまの言葉にたずねてゆきたく思います。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(本願寺派総合研究所 高田未明副所長)より転載
ー本願寺新報2024年12月20日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.20)
