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お念仏を申す生活法話

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「いづれも、仏になることをよろこぶこころよし」

2021-10-09
 蓮如上人に「今救われていることのよろこびの上から
念仏申すのが本当でしょうか
将来必ず救われることをよろこんで
念仏するのが本当でしょうか」とお尋ねした時に
蓮如さまは「いづれもよし(中略)いづれも仏になることを
よろこぶこころよし」とこたえられたといいます。

 阿弥陀さまのお救いは現当二益といって
現在今の救いと当来に浄土に往生し仏に成る救いです。
どちらも阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきです。

 よく「私はあの宗教で救われた」とか
「あの神さま仏さまに救われた」とか聞きます。
 病気が治ったとか受験合格したという
現世のご利益救いです。

 私たちの阿弥陀さまの救いはというと
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされてあるという救いです。

 阿弥陀さまは十劫という遥か昔に阿弥陀仏に成られて
十方衆生を必ず救うという南無阿弥陀仏のおはたらきを
ずっとしてくださっています。
 阿弥陀さまが先手の南無阿弥陀仏のお慈悲の救いの中に
私たちはこれまでも共に生かされてきたし
これからも共に生かされていくと聞かせていただきます。

 阿弥陀さまのお救いのみ教えに遇って
私たちはみんな共に南無阿弥陀仏の大きないのちの
つながりのなかに生かされてあるという
本当のいのちのあり方に目覚めさせていただくのです。

 「仏に成る」よろこびは
自らに固執するあり方を超えて
自分と他のいのちを分け隔てせず同じように大切にして
自他共に心豊かに生きるということです。

 みんなが共に生きる真実のいのちの世界である
阿弥陀さまのお浄土に生まれると今聞かせていただき
この命終わって阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏にさせていただくのです。

 中川静村さんのお念仏の詩です。
『生きる』
「生かされて 生きてきた
   生かされて 生きている
   生かされて 生きていこうと
 手をあわす 南無阿弥陀仏」

 お念仏申して今日も一日
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.9)


「ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかとうたがいをなげくものあるべし」

2021-10-08
 蓮如上人のお言葉
「ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかと
うたがいなげくものあるべし」です。

 「どうでもいいようなことには熱中できても
本当にしなければならないことには中々気がすすまなくて
横着な日暮らしをしているが
こんなことではすくわれないのではないか」と
思う人がいるといわれるのです。

 懈怠(けたい)です。
するべきことを怠けるおこたるという意味です。
 日々の生活の中で「今日一日何をしてたのか」と
思うことってありませんか。
 「もう10月、もう一年終わるのか。
この一年、一体何をしてきたのかな」と振り返ります。

 久しぶりにお会いしたご門徒さんが
「ご院家さん、最近お寺にご無沙汰でお参りできなくて
すみません」と申し訳なさそうに言われます。
「こんなことで大丈夫でしょうか」とか
「こんなことで救われますかね」と思われてるのでしょうか。

 自分の趣味や好きな事にはすっと体が動くけれども
お寺参りに誘われてもまだまだ先のことと思って
「忙しいから」「まだ若いから」とか言って断ります。

 本当に今するべきことをどこかに置いて
いつでもできるどうでもいいことをしている私です。
「こんなことで大丈夫でしょうか」と
蓮如さまに尋ねたのでしょうね。

 「こんなことで本当にいいのでしょうか」と尋ねられて
「それでいいのですよ」と答えれば
「これでよかったんですね」とそこに胡坐をかかれるし
「それではいけませんよ」といえば
どうにかならないと救われないように思って
「やっぱりああならなければいけないのですね」と
一人決めされます。

 ですから「こんなことでいいのか」というお尋ねには
「いい」と答えても「わるい」と答えても
違った方向に行ってしまいます。

 ではどう受け止めたらいいのでしょうか。
ついつい怠け心が起こる横着な私を阿弥陀さまはご存知で
放っておけないと阿弥陀さまの方から
手を差しのべてくださっているのです。

 「どんなことがあっても決して捨てることはない。
まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきにおまかせして
その上はどのようなことがあっても
阿弥陀さまのお救いに間違いはありません。

 「これこれこういうことをしなさい
こうすれば救われますよ」と言われた方が
分かりやすいようですが
人人それぞれに生活ぶりが違います。
 私にできることもあれば
できないこともあります。

 阿弥陀さまのご本願のお心をお聞かせいただき
私にできる仏恩報謝のおつとめを
精いっぱいさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.8)


「聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心を、しかと決定なくば、いたづらごとなり」

2021-10-07
 蓮如上人のお言葉です。
「聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心を
しかと決定なくば、いたづらごとなり」です。

 お聖教とはお釈迦さまが説かれたお経さま
そして毎日拝読させていただく正信偈和讃や御文章といった
お経さまのお心を著述された聖典のことです。

 仏法聴聞はお聖教を学ぶということでもあります。
学ぶというと学校のお勉強のように受けとめがちですが
知識として学ぶということとはちょっと違います。

 よく仏教のお勉強をされている方がいます。
仏教の知識をたくさんお持ちの方です。
 それでこれはどういう意味ですかと尋ねられたり
こういう意味ではありませんかと言われることもあります。

 知識として学ぶ覚える理解する知ってる分かってると
知的満足を追求しておられるのかと思う人がいます。

 お聖教を学ぶ姿勢は大切です。
仏法を聞くとはお聖教に依ることで
自分勝手な思いで聞くと間違ってしまいます。

 仏法を聞くとはお聖教に説かれた仏法の本意を
聞かせていただくことです。
 今日の御文章にも他力の一心他力の安心のお心を
聞けよいただけよと
そのこと一つなのです。

 聖教を学ぶといって知識が自分のはからいになって
大切な肝要が欠け落ちて知識だけのものになってしまうと
私の自分勝手な解釈(自見の覚悟)で阿弥陀さまのおはたらき
(他力の教え)を判断してしまうことにもなるのです。

 蓮如さまは当時の念仏者の中にそのようなことを見て
御文章や聞書きに何度も何度も
お聖教を学ぶというのは他力の信心をいただくことだよと
私たちに教えてくださっているのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.7)


「正信偈をよみて、仏にも聖人にもまいらせんとおもふか、あさましや」

2021-10-06
 蓮如上人のお言葉です。
「正信偈和讃をよみて、仏にも聖人にも
まいらせんとおもふか、あさましきや」です。

 浄土真宗の朝夕のおつとめであるお正信偈和讃を
阿弥陀仏のためとか親鸞聖人のためにつとめてあげている
というような気持ちならば、それは間違っていますと。

 お朝事のご縁に正信偈和讃のお勤めをさせていただきます。
蓮如上人の頃からの浄土真宗門徒の日々のたしなみですが
このお勤めをするときの心待ちを言っているのです。

 何のためにと思いますね。
何のためにお朝事にお参りするのか
お参りして何かいいことご利益があるのかと
外の人の見方です。

 皆さんはどういう心持ちで
お朝事にお参りしてお勤めをされていますか。
 今日このお言葉をいただくということで
お勤めをしながら思ったことです。

 正信偈和讃は親鸞聖人のお言葉で
御文章は蓮如さまのお言葉です。
 そのお言葉を毎朝聞かせていただけるということです。
もっと言うと毎朝親鸞さま蓮如さまにお会いして
声をかけていただいているということです。

 この尊いご縁をお念仏の先人が
私たちに送り届けてくれたのです。
 蓮如さまから500年以上です。
500年以上もの間全国津々浦々で多くの私たちの先人が
毎朝正信偈和讃をお勤めし御文章を拝読して
お念仏申す生活を始められたのです。

 いろんなことがある日々の生活です。
人それぞれに生活ぶりは違います。
 思い通りに行くこともあれば
思い通りに行かなくて何でどうしてと思い悩むこともあれば
思いがけないことにあって涙することもあります。

 「どんなことがあっても私はあなたと一緒ですよ。
あなたを捨てることは決してありませんよ」と
阿弥陀さまのお喚び声を聞かせていただき
お念仏をよろこび申す身にお育ていただいて
どんな困難な中にあっても仏さまと共々に
お浄土への人生を生き抜かせていただけるのです。

 ご先祖の供養のためにお経をあげるといったりしますが
先に往かれた大切なお方は阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏さまとなってこの迷いの世に還って来て
今もこの私を護り救うという
南無阿弥陀仏のおはたらきをしてくださっていると
お経さまに聞かせていただきます。

 阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
お念仏申して今日一日も生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.6)


「ききわけて、之信ぜぬもののことなり」

2021-10-05
 人の話を聞くのは難しいことです。
特に親の話です。
 いつもの同じ話です。
子どもにとっては耳の痛い話です。
その繰り返しです。
 だからそういうことを言い出すと
「もういい。わかっている」「もう知っている」と
話をすぐ断ち切ろうとします。

 人の話を聞くとき
どこかで聞き分けているところがあります。
 自分の得になるためになる話は耳をそばだてて聞きますが
得にならない関心のない話は聞いても上の空で
スーッと右から左へ通り抜けます。

 本当に分かっているのか、分かっていないから
親は何度も何度も同じことを繰り返し言うんですね。
 子どもに嫌な顔をされても
親だから言うんですね。
言ってくれるのですね。

 仏さまのお話を聞くのも人から聞くわけですから
私には関係ない死んでから後の話ぐらいに思って
聞き流してしまうのではないでしょうか。

 蓮如上人は「ききわけて、之信ぜぬもののことなり」
とおっしゃっています。
 聞き分けるとは自分の思いで聞いているということです。
自分の思いで阿弥陀さまのお救いの法を聞いても
信じるということではありません。

 お経さまに「聞其名号信心歓喜」とあるように
南無阿弥陀仏のお名号のおいわれを聞かせていただく
そのままが信心いただくことだよと言うのです。
 阿弥陀さまの大悲のお心を素直に聞いて
そのまま受け入れるということですが
これができないのがこの私です。

 お経さまの文字の解釈を聞くのではありません。
お経さまに説かれる仏さまのお心を聞かせていただくのです。
 阿弥陀さまが私たちのために何で
ご本願を起こされたのかというお心です。

 今日の御和讃の六首目に
「超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり」
<阿弥陀仏は、あらゆる仏がたに超えすぐれた
 この上ない誓いを五劫もの長い間思惟して
 選び取られたのであり
 それは光明無量の願と寿命無量の願を
 大いなる慈悲の根本とされたのである>
とありました。

 光明無量寿命無量の願を本とする
阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心おはたらきです。
 無量の光明を放ってどこまでも照らし尽くし
無量の寿命でいつの世にあっても摂め取って捨てない
ご本願のお心おはたらきです。

 大悲の心大きな悲しみのお心です。
そこに救われ難いわが子がいたのです。
わが子を思う親の深い悲しみです。

 南無阿弥陀仏を聞かせていただくなかに
阿弥陀さまのお心が聞こえてくるといいます。
 お聴聞です。
お念仏申しそのまま聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.5)


円光寺
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