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お念仏を申す生活法話

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お念仏に生きる者のたしなみ

2021-10-14
 私たちの阿弥陀さまのお救いは無条件の救いです。
「こうしなさい、こうしたら救うよ」というような
条件が全くありません。

 何の条件も出さず「あなたをあなたのままで救う」と
いってくださる阿弥陀さまのお心が本当に受け取れたら
「私にできるだけのことはさせていただきます」と
いうことになるのが本当だと思いますが
「そのまま救う」といってくださるのをいいことに
「このままでいいのだ」と胡坐をかいて
座り込んでしまう聞き方をする人がいます。

 阿弥陀さまのお心を聞かせていただくほどに
御恩報謝の行いを精いっぱいさせていただくのが
お念仏に生きる者のたしなみですよと
教えてくださるのが今日の言葉です。

 これは蓮如上人のお言葉ではなく
越中五箇山の赤尾の道宗さんが常日頃言っていた言葉で
『蓮如上人御一代記聞書』に収められています。

 「一日のたしなみには
朝つとめにかかさじとたしなむべし。
 一月のたしなみには
ちかきところ御開山様の御座候ところへ
参るべしとたしなめ。
 一年のたしなみには
御本寺へ参るべしとたしなむべし」
<「そのまま救う」という阿弥陀さまの
 深く大きなお心おはたらきに
 遇わせていただいたよろこびの上からは
 朝夕のおつとめをさせていただこう。
 月一度は親鸞聖人のみ教えをよろこぶ法座に
 参らせていただこう。
 一年一度は親鸞聖人のまします本願寺に
 参らせていただこう>と
道宗さんは自らに言い聞かせて
一日を、一月を、一年をすごしておられたのです。

 何か救いの条件のようにも聞こえますが
人にこうしなさいと言っていることではなくて
この私がさせていただくことと受けとめてください。

 一日のたしなみはお家のお仏壇にお参りしましょう
一月のたしなみにはお寺のご縁にお参りしましょう
一年のたしなみにはご本山にということですが
近くの本願寺のお別院にお参りしましょうと
聞かせていただきます。

 皆さん私たちの一日のたしなみは
お寺のお朝事参りから始まります。
 お念仏申す生活ですが
その生活ぶりは人それぞれ違います。

 今は毎朝ご飯を炊くところが少なくなりましたが
ご飯を炊いたときはお仏壇にお仏飯をお供えしましょう。
御仏前に座ってお灯明をつけお線香を焚いて
手を合わせ南無阿弥陀仏とお念仏申して
仏さまにお礼をさせていただく生活のたしなみです。

 人それぞれのお念仏を申す生活ぶりですが
「そのまま救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
欠かさず聞かせていただくお聴聞が肝要と
今朝の言葉をいただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.14)


同座平座のお心

2021-10-13
 蓮如上人はお念仏のご法座で
お参りの皆さんとご一緒に同じ場に座る同座
それぞれの立場に関係なく平たく座る平座ということを
実践され私たちに勧められました。

 私たちは人と人との関係で
先輩後輩であったり、会社では上司と部下
学校では先生と生徒という関係で
座る場所も違ったり、話しぶりも立場の上の者が
上から目線で話したり言葉遣いにも気を配ったりと
何かと大変です。

 ただ仏法の場では同座平座といって
私たちは同じ阿弥陀さまの御前に座らせていただき
等しく阿弥陀さまの真実信心を賜る御同朋
お念仏のお仲間といいます。
 
 蓮如さまは「身をすててをのをのと同座するをば
聖人のおほせにも、四海の信心の人はみな兄弟と
仰せられたれば、我もその御ことばのごとくなり」
<自分の立場や身分を捨て、みんなの人と同座するのは
 親鸞聖人の「この世でお念仏をよろこぶ人はみな兄弟です」と
 言われたお言葉のように生きようと思ってのことです>
と言われました。

 そして「同座をもしてあらば、不審なることをもとへかし
信をよくとれかしと、ねがふばかりなり」
<こうして皆さんと同じ場に座り、ひざをつきあわせて
 いるのですから、どうか日頃み教えを聞きながら
 わからないところ、疑問に思うところ
 もうひとつはっきりしないところがあったら
 どうぞ遠慮なく尋ねてください
 と願うばかりです>と言われたのです。

 ご法座でお坊さんが一方的にお話をするばかりではなく
同座の皆さんからもお話を聞かせていただくことの大事です。
 阿弥陀さまの御仏前にお同行の皆さんが
車座になってお聴聞のご縁をいただく
話し合い法座です。

 蓮如さまの同座平座のお心です。
このお朝事のご縁もそうです。
 阿弥陀さまの御尊前に同じく座らせていただき
阿弥陀さまのお浄土に向かって阿弥陀さまのお徳を讃嘆し
親鸞さま蓮如さまのお言葉をいただいて
阿弥陀さまの大悲の中にお念仏を申す生活を
始めさせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.13)


罪の沙汰

2021-10-12
 蓮如上人のお言葉です。

 私たちは他の人が為したことは
あまり見向きもしないくせに
自分の為したことには周囲に認めてほしい
誇らずにはおれないところがあります。

 ところが自分のやったことを誇る人が
逆に罪を犯したり悪いことを行うと
阿弥陀如来の救いもこれでダメになるのではと
落ち込みます。

 阿弥陀さまのお救いに遇うことは
自分の為した善根によりお救いにあづかり
自分の為した罪悪により救いは遠のくと思うのでしょう。

 「善いことをしたら救われて
悪いことをしたら救われない」と聞いて
私たちは頷きます。

 蓮如さまは「つみの沙汰無益なり
たのむ衆生を本とたすけたまふ事なり」と
おっしゃられています。

 私たちの為した善悪によって
救う・救わないという阿弥陀如来ではないのです。
 決して悪いことをしてもいいよと
言っているのではありません。

 阿弥陀さまは縁次第で善いことをし
また悪いこともしかねない私のことをご存知で
そのまま救うと南無阿弥陀仏とおはたらきなのです。

 阿弥陀さまの大悲のお心本願のお救いを聞いて
その確かなお心ひとつを依りどころに
「弥陀をたのむ」と阿弥陀さまにまかせ安心して
お念仏申して今日一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.12)

「回向といふは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいふなり」

2021-10-11
 蓮如上人のお言葉です。
「回向」ということについてです。

 回向は仏教の大切な言葉ですが
他の宗派と浄土真宗ではその意味は全く違います。

 他の宗派では亡くなった人にお経をあげることを
回向というようです。
 お経をあげることで
お経の功徳を故人や先祖にふり向けるということです。

 私がご先祖にということで
回向ということを思われている方が
多いのではないでしょうか。

 蓮如さまは「回向といふは、弥陀如来の
衆生を御たすけをいふなり」
<回向とは阿弥陀如来が私たちを救わずにはおかない
 というおはたらきなのです>とお示しです。

 回向とは、仏さまの方が「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏の名号となって
おはたらきくださることだというのです。

 私が仏にではなく
仏が私にと方向が逆なのです。
 ここが浄土真宗と他の宗教との
大きな違いなのですが
自己中心のものの見方考え方の私たちには
どうしても理解できない納得できない
素直に受け入れられないところがあるようです。

 今日の第一首目の御和讃です。
「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
   往相回向の利益には 還相回向に回入せり」
<南無阿弥陀仏の名号を回向していただいた恩徳は
 あまりにも広大で思いはかることができない。
 その南無阿弥陀仏の回向により
 浄土に往生してさとりを開くことの利益として
 迷いの世界に還ってすべてのものを救うのである>
とありました。

 南無阿弥陀仏と私がお念仏申して
私の方から回向すると思われてるかもしれませんが
私がお念仏申すようになったのは
南無阿弥陀仏の回向おはたらきがあって
私の口からお念仏が出てくださるようになったのです。

 ご先祖の大切な方とお別れする悲しいご縁を
そのまま仏さまのご縁といただくなかに
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただき
お念仏申す身にさせていただいたのです。

 私たちのご先祖有縁の仏さま方の御恩おかげです。
ご先祖の供養のためにお経の功徳を回向してといいますが
ご先祖の仏さまがお念仏申す私にしてくださったのです。

 今日の御和讃にも御文章さまにも
他力という言葉が何度も出てまいりました。
 他力の回向といただきましょう。
他力とは阿弥陀如来の本願他力のおはたらきです。

 もっと広くいうと十方諸仏の他力です。
私が私がと何か自分一人で頑張って生きている私たちですが
私たちのこのいのちは多くの命に支えられ生かされてあり
十方世界の諸仏方がほめたたえる南無阿弥陀仏の
大きないのちにつながって
今日も一日お念仏を申す生活をさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.11)


往生のたね

2021-10-10
 今月は毎日蓮如上人のお言葉をお取り次ぎしています。
この本堂のお内陣や皆さんのお家のお仏壇の左奥に
ご安置させていただく本願寺第八代宗主の蓮如さまです。

 今日は「往生のたね」ということについてです。

 私たちは日々の生活の中で
何をしてもそこに何か得るもの結果をすぐ求めがちです。

 私たちの朝夕のおつとめやお念仏申すときにも
同じように考えることがありませんか。
 おつとめをすれば何か得があるのか
念仏すればどういうご利益があるのか
などといったことです。

 蓮如さまの時もこれに似た話があって
ある人が「朝夕の正信偈和讃のお勤めや念仏申すことは
往生のたねになるのかならないのか」と尋ねたそうです。

 それを聞いていた人たちの意見は
「往生のたねになる」という人と
「往生のたねにはならない」という人の
真反対に分かれたいいます。

 今朝は仏教壮年会の月例会のご縁で
皆さんお朝事にお参りされて正信偈和讃をお勤めし
何度もお念仏申されましたね。
 さてこれは往生のたねになるのかどうか
どのように受け止められますか。

 蓮如さまのお答えは「いづれもわろし」と
両方の意見ともよくないと言われたのです。

 その時のお言葉が
「正信偈和讃は衆生の阿弥陀如来を
 一念にたのみまいらせて
 後生たすかりもうせとの、ことはりをあそばされたり。
 よくききわけて、信をとりて、ありがたやありがたやと
 聖人の御前にてよろこぶことなり」
<正信偈和讃は「どんなことがあってもあなたを
 決して捨てない」という阿弥陀如来の確かなお心に遇って
 このいのちを力いっぱい生き抜かしていただくところに
 救いがあることを説き明かしてくださったもので
 阿弥陀如来のお心をいただき
 阿弥陀如来のお心に遇ったことをよろこぶおつとめです>
とのことでした。

 正信偈和讃は親鸞聖人のお言葉です。
毎朝お朝事で皆さんのお家のご法事や月参りのご縁でも
ご門徒有縁の皆さんご一緒にお正信偈のお勤めをします。

 私たちのご本尊の阿弥陀さまのご本願のお救いのお心
南無阿弥陀仏のおはたらきを
讃嘆させていただくお勤めです。
 「どんなことがあってもあなたを決して捨てない」と
阿弥陀さまは摂取不捨のおはたらきをされ続け
私たちは阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
生かされて生きているというみ教えを
聞いてくれよと親鸞さま蓮如さまのお勧めです。

 阿弥陀さまのお心を聞かせて信心いただき
お念仏を申す身にさせていただいて
このいのち精いっぱい生かさせていただくところに
私たちの救いがあるのです。

 往生のたねは私の側にあるのではなく
信心正因といって
阿弥陀さまのお心を聞かせていただくことに
依るのです。

 今日もこうして皆さんと正信偈和讃のお勤めができ
お念仏申して阿弥陀さまのお徳に
お礼をさせていただけたことを
本当に有難く尊く嬉しく思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.10)


円光寺
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