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お念仏を申す生活法話

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お念仏よろこび申す身にさせていただく

2021-10-19
 人の話を聞いて「わかった」といっても
いろんなわかり方があります。
 頭で理解できたというわかったもありますし
心で共感できたのもわかったということでしょう。

 仏教では領解(りょうげ)という言葉で
わかったと味わいます。
 領解とは頭でも心でもなく
身に受けとめることができたということです。

 頭の理解は、上手な説明があればできますし
心の共感は、上手なお話にあえば生まれてきますが
身の領解は、み教えを身にかけてよろこんでいる人の
よろこびに遇わなければ開けてこないようです。

 仏法聴聞は頭でも心でもなく身にうけとめて聞くことで
お念仏を申す身にさせていただくのです。

 口先でお念仏を申すことではなく
声に出さずに心の中でお念仏を申すという
ことでもありません。

 お念仏を申す身になってお念仏に生きる
お念仏を申す生活です。
 縁にふれてこの口からお念仏が出てくださいます。
仏さまのお喚び声を聞かせていただきます。

 蓮如上人は
「御一流の義を、承はりたるひとは有とも
 聞うる人は少なりといへり。
 信をうる機まれなりといへる意なり」
<ご法義の言葉の表面だけを聞いている人はあるが
 その言葉の奥にあるこころといいますか
 よろこびを受けとる人は少ない>
と言われました。

 阿弥陀如来の大悲のお救いのお心を領解する人
真に受けとる人信心の人は稀であるといわれたのです。
 頭で心で分かったという人がいるけれども
この身に受けて聞かせていただく人は少ないというのです。

 お念仏を申す身にさせていただくことの有難さです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に日暮らしさせていただき
お念仏申す身のままに命終えて阿弥陀さまのお浄土に
南無阿弥陀仏となって生まれさせていただけると
よろこばせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.19)


「仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめと御掟なり」

2021-10-18
 「いつまでも暑いですね」などと言っていたら
昨日から急に寒くなりました。
 急遽衣替えをしました。
今日から冬の布袍です。
 夏が過ぎて秋になって冬支度ということですが
近年秋が本当に短く感じます。

 日々季節の移ろい中にのなかに
今日から御和讃が最初に返って
「弥陀成仏のこのかたは」で始まりました。
 気持ちも新たに
お念仏申す生活です。

 蓮如上人のお言葉です。

 私たちの仏法聴聞は
阿弥陀如来の本願念仏のお心
南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただくことです。
 阿弥陀さまのお救いはそのままの救いといわれ
この私を条件なしにそのまま救うてくださるといいます。

 どんな人も無条件で救われると聞いて
身で行ってはならないことを行い
口で言ってはならないことを言い
(こころ)で思ってはならないことを思って
こんなつまらない私をお救いくださる阿弥陀さまと
よろこんでおられる人がありますが
勝手気ままな人間が自分の勝手気ままを全部許し
勝手気ままに振る舞ってよろこんでいるだけで
周りの人にとってはどうにもならない
困った存在でしかありません。

 これは阿弥陀さまのそのままのお救いを
横着者が自分の横着に合わせて受けとめた結果でしょう。

 こうした人たちの姿を蓮如上人は
常日頃から見てらっしゃったんでしょうね。
 蓮如さまのお傍にいたお子さんで
本願寺第九代宗主の実如上人は
「仏法のこと、わがこころにまかせず
 たしなめと御掟なり。
 こころにまかせては、さてなり。
 すなはち、こころにまかせず
 たしなむ心は他力なり」
<仏法の日暮らしは
 自分のお粗末な心のおもむくままにまかせて
 勝手気ままに振る舞う生活を送ることでなく
 お粗末な自分を知らされれば知らされるほど
 気をひきしめ、たしなまねばならない>と
たびたび注意されたといわれます。

 勝手気ままな心に日々の生活をまかせず
お念仏申して阿弥陀さまのお心を仰ぎつつ
気をつけて慎んでいきたいものです。

 仏法にわが身を煩悩具足の凡夫と知らせてもらい
この私をこそ必ず救うとおはたらきの阿弥陀さまが
いつでもどこでもご一緒してくださってあると
お聞かせいただきます。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲のお救いの中に
生かされる私は何ができるかといって
今の私にできることってそんなにありませんが
仏さまの御恩に感謝する思いいっぱいに
今日一日もお念仏申して
日暮らしさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.18)


「聴聞はかどをきけ」

2021-10-17
 昨日に続いて蓮如上人と同じ時代を生きた
法敬坊さんの言葉です。

 90歳まで生きられましたが
この歳まで何度聴聞申されても
阿弥陀さまのお心を知ってこれで大丈夫ということではなく
まだまだとあきることなく聞かせていただきますと
言われてその後に
「讃嘆のとき、なにも、おなじようにきかで
聴聞はかどをきけと、まうされさふらふ。
詮あるところをきけとなり」
<仏德讃嘆のお話ご法話を聞くときは
 初めから終わりまで同じように
 のんべりだらりと聞き流すのではなくて
 ここだけは、このことだけはと
 お話くださる肝要なところを
 しっかりと聞かせてもらいましょう>
と言われました。

 ご法話を聞く人の中に
阿弥陀如来の「どんなことがあってもあなたを捨てない」
という大悲のお心を聞かないで
ただ例話やたとえだけを聞き覚えている人がいます。

 そして「今日のお話は分かりやすくてよかった」とか
中には「面白かった」と感想をもらす方がいます。
 どんな話を覚えているのかというと
例話やたとえ話です。
 「今日のお話は有り難かった」ではなく
「よかった」のです。

 仏法聴聞とはただ一つ
阿弥陀さまのご本願のお心おはたらき
南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただくのです。
 ここが肝要なのですが
そのことはもう聞いたとばかりに
胡坐をかいて座り込んでしまっていませんか。

 90歳になっても幾つになっても
今聞かせていただく仏法聴聞の大事です。

 「かどをきけ」と言われます。
南無阿弥陀仏の肝要です。
 大事な肝要を聞かずじまいに
今日は面白い話だったというのなら
お寺に落語でも聞きに行っているのでしょうか。

 お寺参りは阿弥陀さまのお浄土参りに通じることです。
お浄土の阿弥陀さまの御尊前に座らせてもらって
救われ難い煩悩具足の凡夫の身を生きるこの私が
唯一救われていく本願念仏の道を聞かせていただく
私のために開かれた仏法聴聞のご縁に
遇わせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.17)


法味無尽~阿弥陀さまの大悲のお心の深さ尊さ

2021-10-16
 「仏法は聴聞に極まる」と
阿弥陀さまの本願成就の南無阿弥陀仏のお心を
聞かせていただくことが
浄土真宗の肝要といわれます。

 仏法を聞くとは
学校の勉強のように聞いて知って覚えることではなく
阿弥陀さまのお心をたずねていくということなのですが
ちょっと仏法をかじり聞いた人に限って
仏法がわかったようなことをいいます。

 仏法はそんなに底の浅いものではありません。
聞いても聞いても奥深くあきることのないものです。

 もう何回も聞いて知っていますというのは
あまり聞いていない証拠です。
 聞けば聞くほど阿弥陀さまのお心の深さ大きさが
途方もないものと知らされ
まだまだお聞かせにあずからねばとなるのが仏法聴聞です。

 蓮如上人と同じ時代に生きた法敬坊というお方は
90歳まで生きられましたが
「この歳まで聴聞まうしさふらへども
これまでと存知たることなし、あきたりもなき事なり」と
言われたそうです。

 90歳になるまでお聴聞させていただいたけれども
まだまだあきたということはないと
いよいよお聴聞させていただくことを
よろこんでいかれたのです。

 お念仏に生きた先人のすばらしさを思うとともに
阿弥陀さまのお慈悲のお心の深さ尊さを
あらためて有難く味わわせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.16)


「我が心にまかせずして、心を責めよ」

2021-10-15
 蓮如上人のお言葉です。

 阿弥陀さまのお救いはそのままの救いといわれます。
阿弥陀さまが先手で一方的に必ずこの私を救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 「あなたはあなたのままでいいから力いっぱい生きなさい
どんなことがあっても私はあなたを捨てません」と
私の「いのち」の全体をつつみ支えてくださる
阿弥陀さまのあたたかいお心にあって
小さな「我」の殻に閉じこもって冷えきっている
私の「いのち」を解きほぐしてくださる
阿弥陀さまのお救いです。

 ところが「そのままの救い」と聞いて
「このまま」何もしなくても救ってくださると
横着な私が自分の横着に合わせて受けとりますと
横着がますます横着になって
勝手気ままな生き方になります。

 そんな姿を他の教えに生きる人が見たら
「何もしないのが他力本願」となって
浄土真宗の要である他力本願の教えが
誤解されることになってしまいます。

 蓮如上人は「我が心にまかせずして、心を責めよ。
仏法は、心のつまる物かと思へば信心に御なぐさみ候」
<横着な心にまかせず、心をひきしめ、たしなみなさい。
そういうと仏法は堅苦しいものだと思うかもしれませんが
阿弥陀さまのあたたかい心にふれて、常に慰められるので
本当は堅苦しいものではないのです>
と教えてくださったのです。

 昨日はお念仏に生きる者のたしなみをお話しましたが
これは阿弥陀さまのお慈悲のお心を聞かせていただく
私がたしなむということで
他の人にこうしなさいということではありません。

 私たちはそれぞれ生活ぶりが違うように
お念仏申す生活たしなむあり方も
それぞれ違ってくると受けとめましょう。

 阿弥陀さまのあたたかいお心にふれて
氷が融けて水になるように
氷のような固く冷たい心が水となって広がるのです。

 阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきで
小さな狭い私の世界から大きな世界に生れるのです。

 私が私がと小さな世界に閉じこもって
自己中心にはからい生きるこの私に
「大きな広い阿弥陀の世界に生まれて来いよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞かせていただき
お念仏にたしなむ生活をさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.15)


円光寺
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