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お念仏を申す生活法話

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パラリンピックと中村久子さん

2021-08-27
 今朝6時の梵鐘を撞く時に鐘楼から周囲を見渡すと
朝日が空の雲や家々の壁や窓にあたって
茜色に染まって見えました。
あかね雲です。

 前のお家の方がホースで水まきをしていました。
もう今は既に陽が昇って暑いんですが
ちょっと秋の気配を感じます。

 パラリンピックが始まり東京開催ということで
終日テレビ中継があっています。
 これまではメダル獲得選手のことは
テレビニュースや新聞報道でみることはあっても
水泳や卓球そして車いすラグビーやバスケットなど
たくさんの競技を最初から最後まで
観ることはありませんでした。

 こんなに多くの競技種目があることにびっくりしますし
個々の選手のハンデキャップをものともしない
アスリート魂が伝わってきて
点数が入るゲーム競技など気になって見逃がせず
結局は2時間近く観戦してしまいます。

 この身一つでも中々思い通りに動くことが難しいのに
車いすを使ってあんなに速く素早くボール回しができて
互いに相手をブロックし合う作戦もあったりして
本当に面白く興味をひかれます。

 心身障碍者といわれる心や体に障碍があって
日常の社会生活に相当な制限を受ける人たちが
スポーツを通して自らの可能性に挑戦するのです。

 水泳競技では手足が不自由というか
手足が短い選手もいますが
残った有る機能を駆使して泳ぎます。
 競技を終えた選手がインタビューに
堂々と受け答えする姿は
自信がみなぎっているように見えます。

 身障者も共に生きる社会を垣間見る思いですが
ちょっと以前は身障者の方は社会の片隅で
隠れるように暮らしていましたし
今も身障者の方を特別視し差別する風潮が
なくなったわけではありません。

 人それぞれに歩んできた人生です。
いろんな苦しみ悩み葛藤があっで
何度も何度も何でどうしてと落ち込んでは
生きる意味さえ見失うようなことも
あったのではないでしょうか。

 私たちのお念仏の先人に
中村久子さんという方がいらっしゃいます。
 岐阜の高山の方です。
幼い頃に脱疽の病気で両手両足を無くされます。

 小さい頃からお寺参りのご縁があって
親鸞聖人のお念仏のみ教えに出遇い心の依りどころにして
結婚して子どもを育てたくましく生き抜かれたといいます。
 後に全国各地のお寺に講演に行き記念に決まって
「ただ念仏のみぞまことにておわします」と
歎異抄の御文を
口に筆をくわえて書かれたといいます。

 中村久子さんは講演で
「人の命とはつくづく不思議なもの。
 確かなことは自分で生きているのではない
 生かされているのだと言うことです。
 どんなところにも必ず生かされていく道があります」と
逆境に追い詰められた人々を力強く支え
生かされている尊さを語っています。

 手がない足がない何がない何もないと
思い通りにならない自分にもがき苦しんでいたときに
「ない」と思っていたものが「ある」に転換し
すべてが「ある」と気づくお念仏の出遇いだったといいます。

 すべてのものに私たちは生かされて「ある」のです。
阿弥陀さまのお慈悲の中です。
 それは私一人ではなくて
みんなが共に生かされてある世界なのです。

 「ただ念仏のみぞまこと」と
お念仏の力おはたらきに生かされて
私たちは共々に生きていくことができるのです。

 パラ選手の競技する姿やインタビューをみて
身障者の方を本当に受け入れる
心身ともにバリアフリーの社会になっているのか
可哀そうに自分じゃなくてよかったという
身障者への偏見差別の風潮がこの私の中にないかと
自分を中心に自分さえよければと生きる私を
お念仏のみ教えに問い聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.27)


猛暑の中もコロナの中もお寺のお朝事は変わりません

2021-08-26
 昨日ちょっと外に出る機会があったのですが
暑かったですね。
 今年初めての猛暑日で
大分市が全国3番目の気温だったといいます。

 熱帯夜で朝から暑いなと思いきや
今朝起きて部屋の外に出たら心地よい風が吹いて
何かさわやかな感じがしました。
 ただもう今はすでに外は太陽が照り付けて
日中は昨日以上に暑くなるのでしょうか。

 暑い寒い温かい涼しいと移り変わる四季折々のなかに
私たちの日々の生活です。
 一年半以上続くコロナ禍にあって
今まで当たり前のようにできていたことが
思うようにできません。
 急激な感染者の増加で
小中学校は昨日から二学期の予定が
夏休みの延長ということです。

 これから一体どうなるのか
いつになったらコロナ禍が収束するのか
不安を抱えての生活が続きます。

 コロナ禍で今までとは違った日常を余儀なくされ
生活が変わって行きました。

 お寺の生活はというと
葬儀や法事が家族や近い親族だけの少人数のものになり
法要行事のあり方も中止したり内容を変更したりで
多少変わりましたが
お朝事から始まる日々の生活は
コロナの前も後も変わりません。

 一般に大きな行事になればなるほど
多くの人が関係することで感染防止対策も細部に及び
いろんな方々のものの見方考え方もあり配慮して
結局差し控えることになります。

 お寺の行事についても
複数のお寺が関わる活動行事は中止になりましたが
お寺お寺のいつもの常例のご法座などは
継続して行われているとお聞きします。

 このお朝事のご縁もそうです。
本当に有り難いことです。
 お家の食事に重ねて思います。
いつもの時間にいつもの家族の食事です。

 いつもの時間にいつものお同行がご一緒して
お朝事のお勤めをさせていただきます。
 いつものお同行といって
5年前10年前の皆さんとは顔ぶれが違いますが
先人も毎朝お念仏の声となって
ご一緒してくださっているのです。

 今朝は御和讃が最初に返って
「弥陀成仏のこのかたは」で始まりました。
 毎日お正信偈さまを読誦し御和讃を繰り読みして
親鸞さまのお言葉をいただき
御文章さまを拝読して蓮如さまからの手紙をいただきます。

 親鸞さま蓮如さまがご一緒です。
阿弥陀さまのご本願を信じお念仏を申す身になっておくれと
南無阿弥陀仏と喚び通しにお勧めくださいます。

 猛暑の中もコロナの中も
日々移ろい変わり行く中も
円光寺のお朝事のご縁は変わりません。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日の一日を始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.26)


今ここ阿弥陀さまのお慈悲の中を生きる

2021-08-25
 今日いただいたご和讃で『正像末和讃』が終わり
明日からまた最初に返って『浄土和讃』のいつも拝読する
「弥陀成仏のこのかたは」で始まる和讃に戻ります。

 正像末とは正法像法末法の三時という仏教の時代観で
お釈迦さまが亡くなられて次第に悪く濁り
五濁悪世になってその時代に生きる人の心も濁り
煩悩深くして悩み苦しみ惑うというのです。

 親鸞聖人の時代はすでに末法の世でした。
天変地異が続き戦や飢饉で
人々の生活は地獄さながらであったといわれます。

 そして今私たちも末法の世を生きているのです。
末法の世はお釈迦さまの教えはあっても
教えを行ずる人も証る人もいない時代といいます。

 正像末和讃をいただきますと
この末法の世にあって弥陀の本願が広まると
親鸞さまは何度もお示しくださっています。

 お釈迦さまが説かれた自力聖道門の教えは
龍宮に隠されますが
阿弥陀さまの本願他力の教えだけが
末法の世の人々を救うというのです。

 お経さまに「浄土真宗は大乗の至極」といわれ
浄土真宗こそが十方衆生を救うということですが
決して浄土真宗以外の他の宗派を
軽んじているのではありません。

 浄土真宗は浄土の真実の教えという意味で
一般にいう宗派の意味ではないのです。

 お浄土の阿弥陀さまの往相還相二回向の
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
どんな人も等しく浄土に救われて往き生まれ
さとりの仏さまとなってこの末法の世に還って来て
迷いの人々を救う活動をし続けるという
お念仏のみ教えです。

 浄土真宗のお寺の門徒といい
他宗派のお寺の檀家といったりしますが
宗派やお寺は決まったセクトではありません。

 この私が仏法のご縁をいただくなかで
お家の宗派であったり所属寺であったりすることです。

 お念仏のみ教えは広く
皆さんに等しく開かれてあるのです。
 ご縁をいただいてお念仏のみ教えを
聞かせていただくことが肝心要だと
教えてくださるの『正像末和讃』です。

 今日は月の25日で後で配り物をしていただきますが
来月八月のことばです。
「頑張らない 欲張らない 今ここを 念仏申して 生きる」
と書かせもらいました。

 世間一般に言う頑張るということも含めて
末通った仏道修行を頑張ることは
頑張らないというか結局は頑張れないのです。

 この身のこともそうだし身の周りのことも
思い通りにならないことばかりのなかに
私たちは生きているということです。

 まさに末法五濁の世にあって
あらゆる煩悩を身にまとい生きる頑張る
苦悩の凡夫のこの私です。
 そのありのままの私を見抜きそのまま抱き取って
必ず救うというお念仏のみ教えです。

 今ここ阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされて
お念仏申して生まれて往ける
お浄土への道を共々に生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.25)

アフガニスタンと仏教

2021-08-24
 今アフガニスタン情勢が
世界の注目を集めています。

 20年前にアメリカでイスラム過激派組織
アルカイダによる同時多発テロがおこり
アフガニスタンにアルカイダを匿っている疑いで
アメリカが一方的に戦争を仕掛けて
時のタリバン政権が崩壊しました。

 以来親米政権が樹立され国家運営していましたが
20年が経ち頼りの米軍が撤退するに至り
再びタリバンがアフガニスタンを
統治することになったのです。

 前政権の時にタリバンはイスラム法に則り
市民に過激な原理主義を強制し
背く者は公開処刑などして恐怖心を煽り
特に女性は外出や教育を受ける権利を奪われ
人々は恐怖におびえているといいます。

 私たち仏教徒がタリバンに関心をもったのは
バーミヤンの大石窟の仏教遺跡を爆破したことです。
 偶像崇拝を禁ずるイスラム教だからという理由ですが
イスラム教と仏教は違いますからね
何とも不条理で身勝手な解釈に驚いたものです。

 シルクロードの絵画で有名な平山郁夫画伯を中心に
その後バーミアンの復興がなされていますが
アフガニスタンという国はアメリカからいうと
何の利権もない不毛の地ということだそうです。

 石油が出るわけでもなく天然ガスや鉱山などの
資源に乏しい広大な砂漠と山岳地帯の国です。
 福岡の中村哲さんがアフガニスタンで灌がい工事に尽力し
砂漠が緑の大地になって作物ができるようになりましたが
中村哲さんもタリバンとの紛争の渦中で命を落とされます。

 ただ仏教にとってはアフガニスタンは大変重要な国です。
バーミヤンの遺跡をはじめ仏教文化が花開いた土地なのです。

 仏教はお釈迦さまによってインドの国で始まり
中国で大成します。
 インドから中国に行くのに険しいヒマラヤ山脈を
越えて行くことはまずできません。
 シルクロードの道を通って行くのです。
インドからパキスタンそしてアフガニスタンを通って
トルコからヒマラヤの北側を回り込むように
中国に入っていくのです。

 インドからお釈迦さまの説かれた経典が
中国に伝えられて漢訳されたものが
私たちは目にするお経さまなのです。

 アフガニスタンには資源も何もない
自国の利益にならない国を守るために
アメリカが軍を派遣し自国民を死なせることは
到底理に合わないと軍を撤退させるのです。

 でも待てよ!
最初に一方的に戦争を仕掛けたのはアメリカですよ。
その前にアフガニスタンに軍事侵攻したのがソビエト
今のロシアですよ。

 そうした大国の論理です。
大国の身勝手な論理で中近東の歴史は
ずっと混乱と迷走不安定な中にあり
そこに人々が生きているのです。

 結局はそこに住んでいる人がひどい目に遭うのです。
元々そこに住んでいた人たちが
故郷を追われ家族を引き裂かれていくのです。

 そういうなかにあってイスラム教キリスト教仏教の
世界の三大宗教です。

 宗教とは私が宗とする教えであり
自分の都合の良いように解釈する教えではありません。
 教えはそのまんま聞いて教えです。
そこに人間のはからいが入ると
教えそのものが捻じ曲げられるのです。

 何か大きな話をしているようですが
私たちの日々の生活の中にも
そういうことってありませんか。

 自分の都合に合わせて仏さまはこう言っていると
自分を正当化するものの見方で
相手を懲らしめたり傷つけていませんか。

 仏さまのみ教えに聞かせていただきましょう。
本願を信じ念仏申さば仏に成るこの道を往けと
お釈迦さまが背中を押してくださり
一心正念にこの道を来いと阿弥陀さまが
南無阿弥陀仏と喚んでくださるお念仏の道です。

 御仏前に座してそのまま謙虚に
仏さまのみ教えに耳を傾けてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.24)


納骨のご縁で思うこと

2021-08-23
 昨日は四十九日満中陰のご縁で
お勤めの後納骨にまいりました。

 この前から別府の墓所での納骨が続いていますが
昨日も別府の市役所に近い別府市の共同墓地でした。
 小高い丘にある大きな墓地で多くのお墓でいっぱいです。
背景に別府湾から烏帽子姿の高崎山がはっきり見えて
最高のロケーションです。

 大きなお家のお墓でした。
元々墓地の一角にお家のご先祖の個人墓がたくさんあり
区画整理事業で道路になって立ち退き
今の場所にお家のお墓を建てお遺骨を移したというお話です。

 お墓の奥に法名俗名が彫られた個人墓の石碑が
数基並べて置かれてありました。
 納骨する際に中を見たらお遺骨の壺が沢山ありました。
お家のご先祖のお遺骨です。

 昨日は100歳でご往生したお父さんの納骨で
子ども孫曾孫の三代のご家族がお参りでした。
 一番下の曾孫さんは未就学児の子どもさんで
一緒に納骨のご縁に立ち会いました。

 今はどこに何をしに行ったか理解できないことでも
自分たち家族にとって共通の大事な場所ということが
いつか分かるようになるでしょう。

 私の命の大恩人のご先祖の方々を訪ねていく処であり
ずっとずっと先のことでいうと
私の身近なおじいちゃんおばあちゃんお父さんお母さんを
偲ぶところになり
私の命を見つめ確かめていけるところです。

 死んだら終いでゴミになるだけだから
お墓なんか要らないということも聞きます。
 火葬してもお遺骨を持って帰らない
ご遺族もいるそうです。

 この目で見える形で
私の命の大恩人の大切な先人を訪ねて
手を合わせお礼ができるお墓は
大事な私のいのちの依り処自分を見つめ直す居場所と
また改めて思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.8.23)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
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