南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
2022-03-21
今日は春分の日の祝日で
春のお彼岸のお中日です。
この後納骨堂そして円光寺墓地で
お彼岸のお勤めをさせていただきます。
お彼岸といえばお墓参りを連想するように
日頃は仏教とか関係ないという人も
ご先祖のお墓にお参りして合掌することに
違和感をもつことがないように
私たちの生活に根づいたものになっています。
お墓には私の大切な命の恩人のご先祖が
お遺骨となってご安置させているという
皆さんにとっては特別な場所です。
死んだらお終いではないと
浄土真宗の教えをお取り次ぎをさせていただきます。
先に往かれた方は
人の命は終えましたが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
そのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏さまとなって
今も私と共に生きてくださってある
と聞かせていただきます。
ただこの目に見えませんからね。
懐かしい声が聞こえてくるわけではありませんからね。
その証しってどこにあるのということでしょうが
南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
私のところに還って来ているというのです。
南無阿弥陀仏と今日も皆さんの口から
お念仏申しましたよね。
私の声です、隣の人の声ですが
この南無阿弥陀仏の声の大本は
阿弥陀さまの「まかせよ救う」の
南無阿弥陀仏のお喚び声といただきます。
生きとし生けるものすべてを分け隔てなく必ず救うと
阿弥陀さまのご本願のお心おはたらきが
南無阿弥陀仏となって
私たちのお念仏の先人のご縁を通じて届けられ
今日のお念仏申す皆さんがいらっしゃるのです。
お彼岸のお中日です。
先に往かれた方を思いお浄土を思い
南無阿弥陀仏と声に出してお念仏を申す一日に
させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.21)

「後世をしるを智者とすといえり」(2009年アーカイブ)
2022-03-20
お彼岸のお中日です。
今日20日拝読の御文章は「八万法蔵章」です。
「八万の法蔵をしるというとも
後世をしらざる人を愚者とす
たとい一文不知の尼入道なりというとも
後世をしるを智者とすといえり」
<釈尊がお説きになった教えを
すべて知っているとしても
後世のことを知らないものは愚者であり
たとえ文字一つ知らないとしても
浄土に往生するいわれを知るものは
智者である>とあります。
仏教のお勉強をたくさんされて
仏教のことは何でも知ったわかったといっても
それは仏教の知識であって
知識をいくら身につけても
この私の後世、後生の一大事である
いのちの行き先を知らないものは
愚者だよという厳しい戒めです。
現代社会に生きる私たちは
ものが豊かで便利な生活を享受しています。
学問する機会にも恵まれ
多く知識を得て豊かになりました。
ただ知識もわが身についたはからいで
知識が増えれば増えるほど
何でも理屈で物事を考えて
仏道修行の邪魔をすることにもなりかねません。
仏法を頭で分かっているつもりでも
本当にこの身につかないのです。
仏さまは私を煩悩具足の迷いの凡夫と言われます。
煩悩をいっぱい抱えて悩み苦しむこの私を
阿弥陀さまはすでにご存知で
そのまま救うと誓いを立てられ
長い長い間厳しい修行を積まれて
南無阿弥陀仏の仏さまに成ってくださったのです。
「おまえの命の行く先はここぞ」と
この私のために阿弥陀さまは
お浄土を建立してくださったのです。
お浄土は私一人に開かれたものではなく
私の大切なご先祖有縁の方々も往ってらっしゃる
仏さまのさとりの国です。
そのお浄土への道をたずねて
仏法を聞かせていただくご縁が
今日のお彼岸のご法座です。
今日だけではありませんが
日頃は私が私がと自分のことで精いっぱい
生きることで精いっぱいの私たちお互いが
共々にいただく仏さまのご縁です。
お誘い合わせお参りください。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.3.20)

仏さまは見てござる(2011年アーカイブ)
2022-03-19
今朝の大分合同新聞のコラムに
東日本大震災の中で不届き者がいる
という記事がありました。
大震災の非常時に義援金詐欺や
円相場が急激に円高になる中で
金儲けをもくろむ投資家がいるとの指摘です。
全国各地で予定されているイベントが
軒並み中止か延期になっています。
開催するか中止するかどうするか
関係者は大変苦慮するところです。
昨日のニュースで春のセンバツ高校野球は
そのまま開催することになったそうです。
わからないことではありません。
高校生の球児にとって3年間のこの時期だけの
それも全国何千の学校から選ばれての出場ですからね。
一方プロ野球は
直接被災した仙台球場を本拠地とする
楽天が所属するパリーグは早々に
4月中旬の開催延期を決めましたが
セリーグは予定通り3月25日の開催を決定したところ
早速各球団に抗議の電話が殺到したといいます。
選手会は今も行方不明者の救出活動をしている最中で
球場使用について特にナイターは
電力をたくさん使うということで
こうした状況でプレーしていいものかとの
声が多いといっていますが
経営者のオーナー側は
こういう時だからこそ野球を見せることが
被災者を勇気づけ元気づけることになるというのです。
何かもっともらしい意見ですが
ちょっとどうかなと思います。
新聞のコラムの最後に
この非常時にその人人のあり様がよく見える
よく見えてくると書かれていました。
その人の心根です。
日頃から何を大事に考え生きているかということです。
日頃のその人のあり様が
非常時に形となって出てくるということなのでしょう。
仏さまは見てござるです。
常日頃から私のことを思って
見守ってくださっているのです。
こんなことでは駄目だよ
こうしなさいという見方ではありません。
どこまでも自己中心に生きている私を
悲しいねって見てござるのです。
大震災に遭って大切な人を亡くされ
帰る家も無くして
何でどうしてと一人悲しみの中にある私を
どこまでも見守ってくださるのです。
いつでもどこでもどんな状況にあろうとも
南無阿弥陀仏とこの私に寄り添って
そのまま救うとおはたらきくださっているのです。
「われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏のお喚び声がこの私に届き聞こえたとき
この非常時にあって私たちは何をすべきか
人それぞれに違うと思いますが
私にできる精いっぱいのことをさせていただこうと
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.3.19)

雨の彼岸の入りです
2022-03-18
今日は朝から久しぶりの大きな雨になりました。
この時期はなたね梅雨といって結構雨が多いのですね。
命芽生える季節で
雨が降ってまたいよいよ命がめばえてくる
大きな季節の変わり目です。
今日は春の彼岸の入りです。
「暑さ寒さも彼岸まで」との
古人の言葉に頷きます。
春の彼岸のお中日には
この辺では昔から弘法さんのおせったいがあって
私も友だちや兄妹で近くのお家の弘法さんにお参りしては
おせったいのお菓子をもらったものです。
何故か雨のおせったいの思い出があって
お彼岸には雨がよく降るという印象があります。
昨日宮崎のお寺さんからハガキが届きました。
私と同学年の宮崎のお寺のご院家さんが
急にお亡くなりになったとの連絡でした。
京都の龍谷大学で私がお世話になった時に知り合った方で
同じ先生のゼミでご一緒でした。
今から思うと面白いゼミでした。
お寺のご縁の方で一般の大学で勉強された方や
色んな学歴経歴の持ち主を受け入れてくれて
お寺の世界の感覚とはまた少し違う
興味深い話題を聞くことができました。
一年間だけのご縁でしたが
それぞれお寺に帰った後もご縁があって有難かったです。
それぞれの持ち場持ち場で色んな活動をされることで
情報交換しながら大いに刺激もいただきました。
その方は学者さんではありませんが
自ら仏教真宗のお勉強をするなかで
お寺の活動実践を通してお書物も上梓され
現代の課題を提起してくださいました。
私はというと寺報の『ようこそ』を届けていましたが
お寺関係の会合でご一緒することもあり
お説教にもご出講いただいたりして
お念仏のご縁つながりをいただいたことで感謝します。
同年輩の方の往生の報に接するようになり
もう70歳を前にしていい歳になりました。
ただ私が最近思うのは
70歳という節目が本当に何か待ち遠しいことです。
70歳になって初めて見える景色が
あるのではないかと思うと楽しみです。
今までのことをただ懐かしいと振り返るのではなく
これまでご縁をいただいた人と色んなことがあっての
これからのご縁つながりということです。
南無阿弥陀仏のお念仏のご縁つながりです。
人のいのちは終えます。
会った人とは別れて往きますが
その往く先は同じ阿弥陀さまのお浄土です。
お念仏の先人は「生きても死んでもお慈悲の中」と
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
生かされてお念仏の道を生きて往かれました。
私たちの彼岸である阿弥陀さまのお浄土への道を
この春の彼岸のご縁に共々にたずねてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.18)

五濁悪世をお念仏申して生きる
2022-03-17
昨夜遅く東北地方で震度6強の
大きな地震があったということで
今朝のニュースはウクライナのことはさて置き
地震のニュースで持ちきりです。
昨日は新型コロナウイルスのまん延防止が
全国で一斉に解除になるという首相会見があり
そして地震が起こったということです。
コロナの疫病も地震の自然災害も
私たち人間の力の及ばないどうしようもないことですが
戦争は人間がしでかすもので
どうしようもないことではありません。
今朝のご和讃は
「末法五濁の衆生は」で始まりました。
末法五濁と親鸞さまは何度も言葉を重ねられています。
親鸞さまが生きた時代世の中の相ですが
私たちが生きているこの世の中にも
ピタリ当てはまる言葉です。
とりわけ戦争のことについては
これまで何度も何度も戦争の歴史を繰り返し
戦争に勝者はなくは殺りくと破壊の挙句に
悔恨と怨念が残るばかりです。
何でどうしてと思うことばかりですが
劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の
五濁の仏さまの教えに頷くことばかりです。
自己中心の煩悩をたぎらせる衆生濁です。
衆生が劣化するというのです。
一切の衆生が共生するこの地球を支配するように
わがもの顔に振る舞っている私たち人間の為せる業です。
人間だけが戦争ができるのです。
傲慢で愚かな私たち人間の深くて重い罪業です。
結果最後の命濁です。
命は短くなるを通り越して
無くなってしまうような事態も
核兵器の存在が可能にしてしまいます。
そんなに人間は愚かではないと思いたいですが
今のウクライナの事態は非常に悲観的です。
今朝のご和讃があらためて有難いと思ったのは
『高僧和讃』の第四祖道綽禅師のところなのですが
道綽讃は七首しかありません。
昨日二首頂きましたから
今日六首頂くと一首足りないのです。
それで最後の第六首目にいただいたのは
『高僧和讃』の後で『正像末和讃』に移る間の
「五濁悪世の衆生の」で始まるご和讃です。
「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」
<さまざまな濁りと悪に満ちた世で
往生の行として念仏を選び取られた
本願を信じるものには
たたて尽くすことも、説き尽くすことも
思いはかることもできない
功徳が満ちているのである>とあります。
南無阿弥陀仏のお徳おはたらきが
私たち五濁悪世の衆生の身に
満ち満ちてくださるというのです。
五濁悪世のわれらこそ
阿弥陀さまのお救いのめあてであり
どうかお念仏のみ教えを聞かてくれよとの
親鸞さまのお勧めなのです。
戦争は私たち人間がつくった罪業です。
仏さまのみ教えに背を向けた
五濁悪世の衆生のわれらが為す業です。
この五濁悪世を生きる私を
お念仏のみ教えに聞かせていただきましょう。
仏さまのお心にかなうことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.17)
