「善知識にあひてとへば、徳分あるなり」
2021-10-29
蓮如上人のお言葉です。
「日ごろ、しれるところを
善知識にあひてとへば、徳分あるなり」
<わかったつもりになっているところでも
重ねて尋ねることが大切です>と言われます。
仏法聴聞させていただいて
分かった知っているというところも
重ねて尋ねることが大切であるというのです。
分かっているつもりで自分の心におさめておくと
心得違いもあって直されることなく
全く異なる領解にでもなるということでしょう。
重々気をつけて
気になるところは尋ねなさいというのです。
そして続いて
「不知處をとはば、いかほど殊勝なることあるべき」
<だから分からないところを尋ねるということは
どれほど素晴らしく大切なことかわかりません>
と言われたのです。
私たちは人にものを尋ねることを躊躇しがちです。
こんなことを聞いて
「そんなことも知らないのか」と
自分の無知を笑われるとでも
思ってらっしゃるのでしょうか。
不審なことを尋ねることで
不審が晴れれば心も晴れます。
実は私の不審は私だけのことではなく
周りの皆さんも同じような不審をもっている
ことも多いのではないでしょうか。
仏事のことは何でもお寺に相談してくださいと
再々言っていますが
お寺の敷居が高いと言われお寺にお参りすることも
お坊さんに尋ねることも難しいと言われます。
今日の御和讃
「善知識にあふことも をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」
<善知識(仏法を説いて仏縁を結ばせる人)に出会うことも
その教えを説き伝えることも難しい。
また聞くことも難しく、信じることもなお難しい>
に通じることです。
ふっと思うところを
尋ねるところがある有難さです。
阿弥陀さまのご本願のお心に聞かせていただき
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
今日一日もお念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.29)
「仏法には無我と仰せられ候」
2021-10-28
蓮如上人のお言葉に
「仏法には無我と仰せられ候。
我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」
とあります。
仏教は三法印という根本的な三つの原理
旗じるしをかかげて
この世の中のことは
諸行無常(すべてのものは移り変わる)で
諸法無我(すべてのものには不変の実体がない)であるから
涅槃寂静(絶対安楽のさとりの境地)の滅度をこそ
求めなければならないと教えます。
私たちは私が私がと自己中心に生きていて
何かにつけて「私がこうしてやった」と
「私が」を前面に出して
私の思い通りになれば満足するのでしょうが
思い通りに行かなくて周囲に不平不満をぶつけては
苦しみ悩むことになります。
私が私がと自分を中心にしたものの見方に
とらわれはからうことが
私の苦悩の原因だというのです。
仏さまのものの見方でいいますと
私が今ここに生きているのは
「私が」ということで生きているのではないのです。
多くの「いのち」をいただき
多くの「いのち」に支えられて
生かされて生きているのです。
この私の身体一つ考えてみても
多くの「いのち」が私の血となり肉となって
くださっているのです。
何一つとってみても
私が一人で生きているということではありません。
蓮如さまは
仏法に遇ってみると
「我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」と
「私が」でなく、多くの「いのち」によって
生かされて生きているという「いのち」の本当のあり方を
教えていただくとお示しなのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私もあなたもみんな共にお念仏の世界に
生かされて生きていると聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.28)
仏法をしっかり噛みしめてこの身に味わう
2021-10-27
仏法を聞くとは、経文に説かれた仏さまのお話を聞いて
覚えることではありません。
自らの身に当てて味わわせていただくのが
仏法聴聞という仏さまの思し召しです。
仏法を覚え知っているだけでは
仏法は全く生きる力になりません。
身にかけて問い、身にかけて聞くとき
仏法は何よりも強い力となって
わが「いのち」を支えてくださいます。
蓮如上人は「かむとはしるとも
呑むとはしらすなといふことがあるぞ」
<食物でもしっかり噛んでその味を十分に味わうことが
大切であるということを教え
鵜吞みせよと教えてはならない>と言われ
「妻子を帯し、魚鳥を服し、罪障の身なりといひて
さのみ思いのままにはあるまじき」と
<仏法をしっかり噛みしめて味わえば
罪の深い人間だから、悪人だからといって
勝手気ままな放逸無慚の生活などできるはずがない>と
言われたのです。
蓮如さまが何度も繰り返しおっしゃることですが
阿弥陀さまのご本願のお救いは
悪いことをしたものでも救うと聞いて
悪いことをしましょうということではありません。
阿弥陀さまの大悲のお心を聞けば聞くほど
私にできる御恩報謝の生活を
精いっぱいさせていただきますと
聞かせていただくのが仏法聴聞だというのです。
今こここの私に届けられた阿弥陀さまの
南無阿弥陀仏の仰せといただいて
仏法をたしなみお念仏を申す生活を
今日一日もさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.27)
仏法聴聞は一つ事を聞き抜くことです
2021-10-26
私たちは同じ話より違った話が聞きたがります。
その時その時に違う話を聞くのは心楽しいですし
新しい事を知ることで知的満足を得ることもできます。
しかしそれはそれだけのことであって
何も残らないというのです。
仏法を聞くとは
お話を聞いて楽しかった
知らないことを聞いて嬉しかったということではなく
一つ事をこの身にしみこむまで
繰り返し聞くことなのです。
一つ事を、この身にしみこむまで聞くことで
この身の血や肉になるまで、一つ事を聞き抜くのが
仏法聴聞なのです。
一つ事とは、「どんなことがあっても
私を捨てることのない」阿弥陀如来の確かなお心です。
あるお同行が蓮如上人に
「どんなことがあっても私を捨てることのない
阿弥陀如来がましますと聞かせていただき
阿弥陀如来におまかせするだけで
間違いなくお浄土に生まれさせていただくのだと
お聞かせいただいていますが
このような領解でいいのでしょうか」と尋ねた時に
周りで聞いていた人が
「そのようなことは、いつも聞いていることではないか。
もっと変わったことを尋ねたらどうか」といったそうです。
それを聞いて、蓮如上人は
「それぞとよ、わろきとは
めづらしき事を聞きたくおもひ、しりたく思うなり
信のうへにては、いくたびも心中のおもむき
かように申さるべきことなるよし」
<それが一番わるのです。
それとは、変わった話を聞きたく思う心です。
一つことをいくたびも、この身にしみるまで
聞くのが仏法聴聞です>と
厳しく注意されたといいます。
仏法聴聞はいつも同じ話の繰り返しのようですが
阿弥陀さまはちゃんと私の心根まですべてお見通しで
仏法を聞いても他人事のように聞いてすぐ忘れるし
自分の都合のいいように聞いて
自己中心に生きているこの私が心配だからこそ
繰り返し繰り返し何度も何度も
「念仏申して、われにまかせて浄土に生まれて来いよ」と
南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
喚び通しに喚んでくださってあると聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.26)
「木像よりは絵像、絵像よりは名号」
2021-10-25
蓮如上人のお言葉に
「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」
とあります。
浄土真宗のご本尊です。
三つのおすがたがあります。
お寺のご本尊はお木像の阿弥陀如来さまです。
皆さんのお家のご本尊はお木像もありますが
絵に描かれたご絵像の阿弥陀さまです。
もう一つのおすがたが
南無阿弥陀仏のお名号のご本尊です。
三つありますと
どれが一番いいんですかと聞かれます。
蓮如さまのお言葉を改めていただきますと
浄土真宗以外の他流のご本尊は
「名号よりは絵像、絵像よりは木像」といわれます。
この目に見えるお木像やご絵像の
仏さまのお姿をおがむことによって
仏を念じ、仏を見て、仏に遇うといいます。
ですからより具体的なお姿である
お木像が一番いいのです。
ではどうして蓮如さまは
「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と
言われたのかということです。
この部分だけ切り取って
浄土真宗のご本尊は本来お名号なのに
お寺のお木像やお家のご絵像の阿弥陀さまは
間違いで偽物だと言われる方がいますが
この三つのご本尊のおすがたは共に
阿弥陀さまのおはたらきを表すものなのです。
「どんなことがあってもあなたを必ず救う
我にまかせよ」と南無阿弥陀仏のみ名になって
くださったおはたらきです。
南無阿弥陀仏のおはたらきが私に届けられて
この口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださるのです。
阿弥陀さまはどこに?と聞かれて
この目で見たらお木像やご絵像のおすがたですが
そのお心おはたらきは南無阿弥陀仏となって
もうすでに私のところに届いていますよと
名号本尊の尊さを言われたのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.25)