本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

「真実に背き 真実から逃げても 真実に包まれている」

2021-09-06
 今日6日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「真実に背き 真実から逃げても 真実に包まれている」
 本文は『歎異抄』第一条の
「摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」です。

<阿弥陀さまに背を向け、真実から逃げている私を
 追いかけて抱き取り、導いてくださる。
 それが阿弥陀さまの「摂取不捨(摂め取って捨てない)」
 の心である>と。

 阿弥陀さまは摂取不捨の仏さまと言われます。
すべてのものをそのまま必ず摂め取って捨てない
お慈悲のお救いの仏さまです。

 私たちは阿弥陀さまに背を向け
真実から逃げているとの仏さまの思し召しなのです。

 私たちの日々の生活です。
私が私がとどこまでも自己中心に生きて
私のことで精いっぱい生きることで精いっぱいで
仏さまのお心からは遠い遠い存在の私です。

 その私を大悲のお心で見てとられた阿弥陀さまは
この私をこそ必ず救うとご本願をたてられ
南無阿弥陀仏のお名号を成就されて
「われにまかせよ必ず救う」とおはたらきなのです。

 この口から今日も南無阿弥陀仏と
お念仏が出てくださいました。
 もうすでに今ここに阿弥陀さまの大きなお慈悲の
ど真ん中に生かされてあると聞かせていただきます。

 ただ私たちの日々の生活は
これからも私が私がと自己中心に明け暮れします。
 そんな私を放っておけないと阿弥陀さまは
私をどこまでも追いかけて南無阿弥陀仏と
喚び通しに喚んでくださるのです。

 お念仏のお喚び声となって
阿弥陀さまがいつでもどこでも
私のところに来てくださって
ご一緒してくださっているのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏申して
今日も一日阿弥陀さまの大きなお慈悲に抱かれて
往生浄土の道を共々に歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.6)


「まことの言葉を 受け容れた時 生きる方向が定まる」

2021-09-05
 今日5日の『日がわり歎異抄』のことばは
「まことの言葉を 受け容れた時 生きる方向が定まる」
 本文は『歎異抄』第一条の
「往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」です。

 この前文に
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」とあり
この後に
「すなはち摂取不捨の利益に
あづけしめたまふなり」と続きます。

 現代語訳は
<念仏という行為の見返りとして
 救いが与えられるのではない。
 阿弥陀さまの言葉をまことと受け容れた時
 救いが成立するのである。
 救いとは、生きる方向が定まることである>です。

 親鸞さまは法然さまから
「どんな人も念仏一つで救われる」と聞いて
専修念仏のみ教えに帰依しました。

 その念仏とは阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきで
他力の念仏といい
私が申す念仏であってそのまま阿弥陀さまの
「まかせよ救う」のお喚び声といただかれたのです。

 念仏は私の救いの条件ではなく
阿弥陀さまのお救いの功徳が円かに満たされた
万徳施名の阿弥陀さまのおはたらきそのものであり
阿弥陀さまのお心をいただいた時すでに
私たちは南無阿弥陀仏の大悲の中に生かされているのです。

 阿弥陀さまの大悲の中を生き抜いて
人の命終わる時そのまま阿弥陀さまのお浄土に往生し
仏と成ってすぐさまこの迷いの世に還って来て
迷いの衆生を救うおはたらきを始めるのです。

 お念仏が救いの条件になると
人それぞれに念仏申す相が異なり
救われる人と救われない人という誤った見方にもなります.

 阿弥陀さまのご本願は「すべての人を必ず救う」と
おはたらきですから
そのお心をまことの言葉と受け容れる
本願を信じて疑わないと信心をいただくのです。

 信心いただく時に私の救いが成立するのです。
阿弥陀さまのお浄土に往生してさとりの仏に成ることが
決定するのです。
 生きる方向が定まるのです。
阿弥陀さまが決めてくださった往生浄土です。

 お念仏申しつつ阿弥陀さまのお心を聞きながら
確かに確かにお浄土への人生を歩ませていただく
今日の一日を安心して生き抜かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.5)

「すべての人を 平等に慈しむ そんな大きな心に 包まれている」

2021-09-04
 今日4日の『日めぐり歎異抄』のことば
「すべての人を 平等に慈しむ そんな大きな心に
包まれている」です。

 本文は昨日と同じ『歎異抄』第一条の
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」です。

 現代語訳に
<「すべての人を必ず救う」という阿弥陀さまの願いは
 「善人は救われ、悪人は救われない」と
 人を分け隔てしている私の思いを超えている(不思議)。
 そんな願いに出遇った時
 私の小さな思いが打ち破られる>とあります。

 私たち人間の知恵を分別といいます。
あの人は分別のある人というと
社会的な常識を兼ね備えた知恵の人というのでしょう。
 一方分別がない人というのは
世間の常識に疎く自分勝手な言動をとる
子どものような人とでもいうのでしょうか。

 共に社会生活を営む私たちの思いでいうと
善悪の分別のある人は尊ばれますが
善悪の分別がない人には近づいたら
どんなことになるかもしれないと敬遠するのが
私たちではないでしょうか。

 仏さまの智慧仏智は無分別智といいます。
無分別といって私たちがいう分別が無いのではなく
善悪の分別を超えた智慧仏さまのおさとりのお心です。

 昨日菅首相が自民党総裁選挙に出馬しないと表明し
事実上の首相退陣が決まったということで
今朝の朝刊各紙共に第一面に大きな見出しで伝えています。

 一年前安倍前首相の突然の辞任で総裁選挙があり
菅さんの船にみんなが一斉に乗って総裁選に大勝し
首相として華々しく船出したわけです。
 ところがこの一年コロナ禍のなかで
政策が思うように行かず支持率が転落傾向にある中で
任期満了を控えての総選挙です。

 泥船に乗りたくないと菅船長を見放した格好です。
宝の船といったり泥船と分別しているのは一体誰か
総裁選でいったら自民党関係者ですが
結局は私の思い都合で右往左往している私たちです。

 善い悪いと人を分け隔てしては
自らの思い悩み苦しむ私たちを見てとって
阿弥陀さまは「すべての人を必ず救う」と願い
南無阿弥陀仏とおはたらきです。

 縁がととのえば悪いことでもしかねないこの私に
お念仏申して我が国に生まれて来いよと喚び通しの
阿弥陀さまのお心を聞かせていただき
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきの中に
今日も日暮らしをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.4)

「私の願いは 自己中心の願い 真実の願いに 耳を傾けよう」

2021-09-03
 昨日お話しました
皆さんの前に毎朝繰っていただいている
『日めぐり歎異抄』の日々のことばについて
これから一か月お話させていただきます。

 皆さんに本願寺出版社発行の『歎異抄』の冊子と
『日めぐり歎異抄~現代のことばで味わう~』
(小池秀章師著)を
パソコンでおこしたフアイルを差し上げます。

 難しい仏教用語もありますが
声に出して読んで味わっていただきたいと思います。

 本日3日のことばは
「私の願いは 自己中心の願い 真実の願いに 
耳を傾けよう」です。
 歎異抄の本文では第一条の
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」で
「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつ
こころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
と続きます。

 浄土真宗の教えの肝要を簡潔に表現した有名な御文です。

 3日のことばの現代語表現の解説です。
<私の願いは、自分の欲望を満たそうとする
 自己中心の願い。
 阿弥陀さまの願いは、智慧と慈悲の領域から出てきた
 真実の願い。
 すべての人を必ず救うという願いであるとともに
 それがかなわなければ仏に成らないという
 誓いでもあるので、誓願という。
 真実の願いに出遇わせていただこう>と。

 私の願いと阿弥陀さまの願いです。

 願いをもって生きるのが私たち人間だといわれますが
その願いは私たち人それぞれで違います。
 私の願いが思い通りになればいいのでしょうが
私の願いはどこまでも自己中心の願いで
私たちが共に生きる社会の中では思い通りに行かなくて
他の人と衝突したり私の苦悩の原因にもなります。

 阿弥陀さまの願いは十方衆生に開かれた大きな願いで
私たちは阿弥陀さまの願いの中に生きているというのです。
 阿弥陀さまは迷いの世界に苦悩する私たちを見てとって
大悲のお心ですべてのものをそのまま救うと本願をたて
南無阿弥陀仏の名号に成就仕上げられて
私たちを喚び通しに喚んでくださっているといいます。

 お念仏申せよ「わが名をよんでくれよ」と
おはたらきです。
 お念仏申すところにいつでもどこでもどんな人にも
阿弥陀さまがご一緒してくださっているのです。

 阿弥陀さまの真実の願いお慈悲の中に共々に生かされて
生きている私たちであると知らされて
日々のいろんなことがありますが
お念仏申して阿弥陀さまのお浄土への人生を
共々に生き抜かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.3)


「自分勝手な ものの見方が 真実を 見えなくしている」

2021-09-02
 毎日MYさんがめくってくださる歎異抄のことばです。
仏さまにお仏飯をお供えし外陣の香炉にお線香を焚きます。
 日頃は歎異抄のことばの前をすっと通り抜けるのですが
今日は目にすっと入ってきて有難いなあと思いました。


 「自分勝手な ものの見方が 真実を 見えなくしている」
昨日1日のことばです。
 歎異抄からいただいた言葉を著者が現代のことばで
味わったものです。

 原文は「まったく自見の覚悟をもって
他力の宗旨を乱ることなかれ」という
歎異抄の序文のお言葉です。
 <「私の自分勝手な思い(自見の覚悟)で
 阿弥陀さまのおはたらき(他力の教え)を
 判断してはならない」
 それは、私の思いの中に阿弥陀さまを閉じ込めてしまう
 ことになるからである。阿弥陀さま(他力の教え)が
 私の自分勝手なものの考え方の枠組みを破り
 真実の教えに導いてくださるのである>
と解説されています。

 お聖教という仏さまのお言葉についてのことですが
私たちの日々の生活のあり様にも通じることばです。

 私たちの生活ぶりはそれぞれ異なり
共に同じ社会をそれぞれ違う立ち位置で生きています。
 それぞれものの見方考え方も異なりますが
自分中心の思いで生きているのが
私たちのありのままの生活です。

 自分の思いといって自分の都合にかなったものの見方で
自分勝手なものの考え方に通じます。
 この人生が自分の思い通りに行けば
それはそれでいいのでしょうが
自分一人で生きている社会ではありませんから
それぞれ不都合なことも多くあります。

 自分の思い都合にかなったものは善くて
都合にかなわないものは悪いという見方で
私たちそれぞれが生きると
人と人との関係で互いに付いたり離れたりを繰り返し
今は近くて仲の良い者もある時には遠ざけて
背中合わせになり対立して喧嘩になったりします。
 まさに愛憎の中に苦悩し迷う
私たちのすがたです。

 これまでの人生の経験からうまく人間関係を保って
生活していくのが人間の知恵です。
 自分の思い通りに行かない時はじっと我慢も大事ですが
周囲の意見に合わせるように自分の思いを曲げることも
中々できないところです。

 自らを反省するところもたくさんありますが
素直に「ごめんなさい」と謝れない私がいます。

 今日2日のことばは
「一つの言葉との 出遇いが 私の人生を 
支えてくれることもある」です。
 「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ
いささかこれを注す」(歎異抄序文)
<ありがたいことに、親鸞聖人の弟子の唯円が書いたと
 言われている『歎異抄』の中に、親鸞聖人の言葉が
 書き残されている。
 その言葉が、私の人生を支えてくれる。
 真実の言葉に耳を傾けよう>と。

 ちょっと乱暴な言い方になりますが
自分勝手なものの見方で生きる私たちお互いが
言うことすること思うことって全てが
仏さまからいうと虚仮不実というのです。

 そうした自分中心の思いで生きて苦悩している私たちに
仏さまは真実の言葉を示され真実の世界に導かれるのです。

 真実の言葉に遇うことの有難さです。
ほっとします。
 自分の立ち位置を気づかせてくださり
安心します。
 お念仏申すご縁を仏さまからいただいているという
有難さです。

 ただ我が身は変わりません。
どこまでも自分中心の欲の心怒りの心愚かな心を
兼ね備えた煩悩具足の凡夫の身です。

 この凡夫の身を阿弥陀さまのご尊前に座らせていただき
そのままお念仏を申す身にさせていただく
南無阿弥陀仏のお心おはたらきをいっぱいいただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.2)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
0
4
6
7
9
9
TOPへ戻る