本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

「尊敬できる人に 出遇えた人は しあわせです」

2021-09-11
 今日11日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「尊敬できる人に 出遇えた人は しあわせです」
 本文は『歎異抄』第二条の
「親鸞におきては
ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひと(法然)の仰せをかぶりて
信ずるほかに別の子細なきなり」です。

<親鸞聖人は「法然聖人の仰せをただ信じるだけだ」
 と言われている。
 しかしそれは、法然聖人の考えを信じる
 という意味ではなく
 自分の考えを入れず阿弥陀さまの願いを
 そのまま伝えてくださっている
 法然聖人の言葉を信じているのである>と解説です。

 昨日お話しましたが
関東から門弟たちが京都の親鸞聖人を訪ねて来ます。
 浄土真宗のみ教えの肝要である
「往生極楽の道」を聞くためでした。

 それに対して親鸞さまは
「ひとすじにお念仏をよろこんで
阿弥陀如来にたすけられるのですよと言われた
よき師法然聖人のお言葉をそのままに信じているほかに
別のわけなど何もないのです」(意訳)と答えられます。

 門弟たちは「こうだよこうだよこうだからこうだよ」と
親鸞さまから納得のいく説明を直接聞くことを
期待していたのではないでしょうか。

 今日の御文章さまに「善知識」とありました。
阿弥陀さまの本願念仏のお心をお取り次ぎしてくださった
親鸞さまにとっては法然さまなのですが
法然さまの考えを信じるのではありません。
 南無阿弥陀仏のお心のままに生きてらっしゃる
法然さまのことを慕って
その言われるところを信じるということです。

 御文章さまの最後には
「善知識というは阿弥陀仏に帰命せよといえる
つかいなり」
<善知識とは阿弥陀仏に帰命しなさいと
 教えすすめる「つかい」>とあり
「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを
本とすべきこと、おおきなるあやまりなり」
<帰命すべき阿弥陀仏をないがしろにして
 善知識ばかりをたのむことは、おおきなあやまりです>
と続きます。

 お念仏のみ教えを伝え勧める人との出遇いは大切ですが
要はその中心は南無阿弥陀仏の本願力一つであり
伝える人も聞く人も共に阿弥陀仏に帰命し
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と
共々にお念仏申す身にお育ていただくことと
有難く聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.11)


「どこに向かって 生きていますか?」

2021-09-10
 今日10日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「どこに向かって 生きていますか?」です。

 本文は『歎異抄』第二条の
「おのおの十余箇国のさかひをこえて
身命をかへりみずして
たづねきたらしめたまふ御こころざし
ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり」です。

<私たちはどこに向かって生きているのだろう。
 親鸞聖人は「さとり(真実)の世界である極楽浄土に
 向かって生きよ」とお示しくださっている。
 極楽浄土に往生する(往って生まれる)のは
 この世のいのちを終えると同時であるが
 極楽浄土に向かって生きるのは
 「いま、ここ」なのである>

 第二条は関東から門弟たちが京都の親鸞聖人を訪ねて
「往生極楽の道」を問いただそうとする緊迫の場面です。
 何日も歩き続けての旅で道中身の危険もあり
まさに命がけのことでした。

 それほどまでに「往生極楽の道」は浄土真宗の肝要で
親鸞さまが関東に居た時に直接何度も示されたことですが
京都に帰られて10年20年と経つと異義が出てきて
門弟たちに迷いが生じ大きな不安になったのです。

 迷いとは
道に迷うことを例にすると
迷いの要件が二つあって
一つは現在地が分からない一つは目的地が分からないことで
これを迷いというのです。

 人生を旅に譬えて人生の旅の道中にあって
「どこに向かって生きているのか?」という問いです。

 目的地がはっきりすることで
今をどう生きるのかが確かめられますが
目的地がはっきりしないと大きな不安になり
迷い苦しみ悩むということになります。

 人生は一日一日の積み重ねと
私たちは若くて元気なうちは
「今を生きる」ことに執心努力しますが
生きるということは
いつまでも若く健康であるわけではなく
老いていく病んでいくなかに
死ということを意識します。

 「死んだらどうなるのか」という問いです。
後生の一大事の解決こそが
人生の根本的な宿題なのですが
そのことに向き合うことなく
「死んだら終い」などと嘯いている私がいます。

 阿弥陀さまはそんな私に南無阿弥陀仏の法を成就して
「わが名を称えてまかせよ救う」と
喚んでくださっているのです。

 本願を信じお念仏を申す身に仕上げてくださって
阿弥陀仏の摂取の光明の中にこの人生を生きて
人の命終わる時そのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏にしてくださるのです。

 阿弥陀さまのお浄土に往き生まれる人生を
南無阿弥陀仏とお念仏申して
今こここの身を生き抜かせていただく
浄土真宗のお念仏の道です。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
阿弥陀さまのお慈悲の光明の中に
今すでに救い取られて往生極楽の道を
歩ませていただいているのです。

 お釈迦さまの「この道を往け」のお勧めの声に励まされ
阿弥陀さまの「この道を来い」のお喚び声にまかせて
今日一日もお念仏申して往生極楽の道を
歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.10)


「善をほこらず 悪をおそれず」

2021-09-09
 今日9日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「善をほこらず 悪をおそれず」です。

 歎異抄第一条
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず
念仏にまさるべき善なきゆゑに。
 悪をもおそるべからず
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」
<阿弥陀さまの救いの前には、私の善悪は問われない。
 そんな阿弥陀さまの大きな心に出遇った時
 私の生き方が変わる>

 私たちの生き方生活ぶりは
善悪を判断基準に生きているところがあります。
 自分中心の思いで
こんなことをしたら善いとか悪いとか
周りの人から善く見られるとか悪く見られるとか等々です。

 同じような見方で仏さまのお救いも
「善いことをしたら救われる」とか
「悪いことをしたら救われない」と思っている方が
多いのではないでしょうか。

 どんなことが仏さまが言われる善悪でしょうか。
お経さまには「十悪五逆」が説かれ
仏道修行には厳しい戒律があります。

 阿弥陀さまのご本願のお救いは
十方衆生を分け隔てなくそのまま必ず救うといわれます。
「こうしたら救うとか救わない」といった
救いの条件は一切ありません。

 ただ一つ「お願いだからわが心(本願)を聞いて
お念仏申す身になっておくれ」と
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。

 今日の御文章(数珠章)さまでいいますと
「他力の信心ひとつばかりなり」です。

 お寺参りの人を見ると数珠を持たない人が目に付くが
阿弥陀さまのお救いは数珠を持たなくても
他力の信心一つで十分です
とのお示しです。

 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただき
いよいよお念仏を申す生活をさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.9)


「煩悩だらけの あなたを助けたい」

2021-09-08
 今日8日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「煩悩だらけの あなたを助けたい」です。

 本文は第一条の「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を
たすけんがための願にまします」です。
<罪深く、煩悩だらけの人間(私)を助けるために
 阿弥陀さまは、願いを起こしてくださったのである。
 立派な人(善人)のみを助ける宗教とは根本的に違う>

 「善いことをしなさい、善いことをしたら救われる」
と説かれる宗教は私たちの理解できるところです。
 仏に成る仏道も、仏さまの教えを信じ教えの通りに
諸善万行を積み重ねて仏のさとりに至ると説かれます。

 ただ阿弥陀さまは諸善万行どころが
一つとして末通った善いことができない
縁がととのえばどんな悪いこともしかねない
救われようのないこの私の真実のすがたを
罪悪深重煩悩熾盛の衆生と見てとられたのです。

 「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と
おほせられたる」(歎異抄第九条)と
阿弥陀さまはかねてより私たちを
あらゆる煩悩をもった凡夫であるとお見通しであると
親鸞聖人はご自身を煩悩具足の凡夫と
そして罪悪深重の凡夫とも言われました。

 阿弥陀さまの智慧の光明の照らし出された
わが身の真実のすがたといただかれたのです。

 そして今ここ私のところに阿弥陀さまの光明が
至り届いておはたらきだといただかれたのです。

 今日の御文章さまに
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」
(光明はあまねく十方世界を照らし
 念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)と
観無量寿経のお言葉をいただきました。

 阿弥陀さまの力強いお救いのおはたらきであり
大きな安心とよろこびをいただきます。

 阿弥陀さまの光明に照らし出され
罪悪深重煩悩具足の我が身を知らされて
そのまま救わずにはおかないと
南無阿弥陀仏のおはたらきに
摂め取って捨てないというのです。

 私たちは老少・善悪・賢愚といった
相対的な価値観に執われ苦悩し生きています。
 老少・善悪・賢愚を超えてどんな人もそのまま救う
南無阿弥陀仏の絶対的なおはたらきにおまかせして
お念仏申して今日の一日も
南無阿弥陀仏の大悲の中を
仏さまと共に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.8)


「どんな人でも どんな状況にあっても 見捨てない」

2021-09-07
 今日7日の『日めぐり歎異抄』のことばです。
「どんな人でも どんな状況にあっても 決して見捨てない」
 本文は『歎異抄』第一条の
「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず
ただ信心を要とすとしるべし」です。

<阿弥陀さまは、老人も若者も、善人も悪人も
 どんな人でも分け隔てなく慈しんでくさる。
 若い時も老いた時も
 善いことをしている時も悪いことをしている時も
 どんな時でも見捨てず慈しんでくださる。
 そんな阿弥陀さまの大きな心に出遇わせていただこう>

 この「老少・善悪のひとをえらばれず」を
そのまま老人も若者も善人も悪人もといただくと
今の私の状況をいわれているようですが
若い時も老いた時も
善いことをしている時も悪いことをしている時もというと
ずっとこれまでも変わらず私のことを見てくださっている
阿弥陀さまの大悲のお心を知らされて
安心します。

 私がどんな状況にあっても
阿弥陀さまは私を見捨てることなく
ずっとご一緒してくださっていたのですね。

 「こうしなさい」「こんなことをしてはいけない」と
注文一つ告げることなく
「私がいるよ大丈夫だよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となって
ご一緒だったのですね。

 縁がととのえばどんな悪いことでもしかねない私を
放っておけずいつでもどこでも寄り添って
「わが名をよんでくれよ」と
おはたらきなのですね。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲の中にあったのですね。
そしてこれからも大悲の中を共々に生かされて
阿弥陀さまのお浄土に生きて往くのですね。

 今日も一日お念仏申して
阿弥陀さまがご一緒の日暮らしをさせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.7)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
0
4
6
7
9
9
TOPへ戻る