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お念仏を申す生活法話

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「自分で選んだ 道だけど 選ばせていただいた 道でした」

2021-09-16
 今日16日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「自分で選んだ 道だけど 選ばせていただいた 道でした」です。

 歎異抄第二条の「念仏をとりて信じたてまつらんとも
またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」
<「念仏ひとつで救われる教えを受け容れるかどうかは
 皆さん一人ひとりのお考えしだいです」という言葉は
 やさしい言葉のようにも聞こえるが
 実はとても厳しい言葉である。
 自らの生きる依りどころとして、念仏を選ぶかどうかは
 各々の責任で決断しろということである。
 ただし、念仏を選んだ後には、選ばせていただいた
 という気持ちが湧いてくるのも確かである>です。

 第二条はずっと今日まで続きました。
往生極楽の道を問い聞くために関東から門弟たちが
命がけで親鸞聖人の元を訪ねます。

 親鸞さまのおこたえは
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひとの仰せをかぶりて
信ずるほかに別の子細なきなり」でした。

 そして最後に今日の本文です。
「私の信心はこの通りです。
このうえは、お念仏を信じようと、また捨てようと
皆さん方各自の判断におまかせするばかりです」
との仰せだったのです。

 えっと思われたのではないでしょうか。
関東から遙々京都まで訪ねてきて
親鸞さまからあたたかいお言葉をいただこうと
思っていたのではないでしょうか。
 「それはこうだよこうだよ。こうだから大丈夫だよ」と
親鸞さまの確固たるお墨付きを
いただきたかったと思うのです。

 それが「念仏をとりて信じたてまつらんとも
またすてんとも、面々の御はからいなり」と
突き放すように言われるのです。

 でも確かにそうですよね。
親鸞さまが言ったから真実まことなのではなく
みんなが言ってるから昔から言ってるから
でもありません。
 念仏そのものが真実まことであって
信じるのも捨てるのもそれぞれ各自の選びなのです。

 往生極楽のお念仏の道はあなたが歩く道でしょ
他人に歩んでもらう道ではなくあなたが生きる道でしょ
との仰せといただきます。

 私が念仏を選んで私が歩む道です。
今日も皆さん阿弥陀さまの御尊前に座っていますね。
 私がいつもの席に座ったのです。
皆さんそれぞれの指定席です。

 私が自ら座った席ですが
御仏前に座ってお念仏申させていただくと
「ここに座れ」とこの席を用意して待っていてくださった
阿弥陀さまのおはたらきが有難く思われます。

 いつも私のことを思ってくださって
阿弥陀さまがご一緒してくださることの
これほど確かな安心はありません。

 「面々の御はからひなり」といって厳しいお言葉ですが
親鸞さまのあたたかい仰せだったのです。
 そのことを有難くいただいて
関東の門弟たちは日々の生活に帰って行ったのですね。

 お念仏を申す生活です。
今日もお念仏申して始めましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.16)


「永遠の真実が 今 ここに 届いている」

2021-09-15
 今日15日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「永遠の真実が 今 ここに 届いている」です。

 本文は引き続き第二条の
「弥陀の本願まことにおはしまさば
釈尊の説教虚言なるべからず。
 法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね
またもつてむなしかるべからず候ふか」
<釈尊や高僧が言われたから真実なのではない。
 真実そのものが、釈尊や高僧を通して
 現れているからこそ、真実なのである。
 だから、その真実を受け容れている親鸞聖人の言葉も
 空しいものではない>です。

 私たちの日常会話のなかで
「私が言うことを信じなさい」と
「私が言うことは間違いないから」と言われます。

 誰々という権威のある人が言っているからとか
あの人もこの人もみんな言ってるから
昔から言ってることだからということを
根拠にして理屈を言い出すのが私たちのようです。

 この歎異抄の論法は
「弥陀の本願まことにおはしまさば」と
阿弥陀仏の本願が真実であるならと示され
それをお説きになったお釈迦さまの教えは真実であり
そのお心を七高僧さまから伝え届けられた
法然さまのお言葉が真実であるなら
この親鸞が申すことも無意味なことでは
ないでしょうと言われるのです。

 要は阿弥陀仏の本願の真実を
信じるか疑うかということであって
今こここの私に届けられた真実を聞かせていただくことで
私の言うことを信じなさいではなくて
真実の言葉を共々に聞きましょうということなのです。

 私たちは人と人と関係で
お互いに自分の都合に合わせて
ものを言ったり聞いたりしていませんか。

 どこまでも自分の意見を主張するところがある一方で
あの人の言うことはまあまあ聞いておこうという姿勢では
お互いに理解し合える人間関係とはほど遠く
不信感もめばえてきます。

 真実依りどころの中心です。
私たちは仏さまのご縁をいただいて
阿弥陀さまの御仏前にご一緒しお念仏申して
南無阿弥陀仏の真実のみ教えを聞かせていただきます。

 お念仏を伝え届けてくれた善知識がいます。
親鸞さまにとっては法然さまであり
法然さまにとっては中国の善導大師ということでしょう。
そしてお釈迦さまです。

 阿弥陀さまから無量の諸仏方によって
貼るかな時間と空間を超えて
今こここの私のところに永遠の真実である
南無阿弥陀仏が届けられているのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.15)


「私の行いは 私をどこに 連れていくのだろう」

2021-09-14
 今日14日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私の行いは 私をどこに 連れていくのだろう」です。

 歎異抄第二条の
「いづれの行もおよびがたき身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし」
<親鸞聖人は「どのような行も満足に修めることが
 出来ない私にとって、地獄以外に住み家はない」
 と言われている。
 しかしそこに、念仏して、お浄土(真実の世界)に
 導かれていく人生が、与えられているのである>
からいただいた言葉です。

 昨日はよきひと法然聖人に騙されて地獄に堕ちても
後悔はしないというお話でした。
 続いて地獄の言葉が出てきます。
阿弥陀さまのお救いに遇ってお浄土に生れると
聞かせていただきますが
「地獄は一定すみかぞかし」とはすごい言葉です。
地獄以外に私が行く処はないとおっしゃるのです。

 阿弥陀さまの智慧の光明に照らし出された私です。
それこそ救われようのない煩悩具足の凡夫の私です。
 私が私がとどこまでも自分を中心に
欲の心怒りの心愚かな心を盛んに燃えたぎらせて
日々頑張って生きている私です。

 そんな私を阿弥陀さまはもうすでに見抜かれて
阿弥陀さまの方でこの私が救われて往くすべての手立てを
南無阿弥陀仏と成就して「われにまかせよ必ず救う」と
摂取不捨のおはたらきをしてくださっているのです。

 煩悩いっぱいに日々明け暮れる私をそのまま救う
救わずにはおかないとおはたらきの
阿弥陀さまのご本願に出遇えた喜びが
法然聖人に騙されて地獄に堕ちても後悔しないという
親鸞さまの安心となり
どんな行も満足に修めることができない私だが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お浄土に生れさせていただける確信になったのです。

 私たちの日々の生活を振り返ると
やっぱり私が私がと自分を中心に生きる私ですが
阿弥陀さまはそんな私を見放さず
南無阿弥陀仏といつも寄り添って
私と共に生きてくださる仏さまに成ってくださったのです。

 お念仏申して阿弥陀さまの心おはたらきをいただき
今日も一日私にできる精いっぱいの
ご恩報謝の日暮らしをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.14)


「私のための道が ここにあった」

2021-09-13
 今日13日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私のための道が ここにあった」です。

 本文は第二条の
「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて
念仏して地獄におちたりとも
さらに後悔すべからず候」
<「法然聖人にだまされて、念仏して地獄に堕ちても
 決して後悔しない」という言葉は
「他に自らの救いの道はない」という深い自覚と
 真実の言葉を正しく伝えてくださる法然聖人に対する
 絶対的な信頼の表れである>です。

 第二条の場面がずっと続きます。
関東の門弟たちから「往生極楽の道」を問われた親鸞聖人は
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひとの仰せをかぶりて 信ずるほかに別の子細なきなり」
とこたえられます。

 よきひと法然聖人に親鸞さまも同じことを問われ
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と
法然さまの仰せを聞かれたのでしょうね。

 比叡山で20年間生死出ずべき道を求めて
厳しい学問修行を積み重ねても
たすかるべき道に遇うことなく
悩み苦しみ絶望のどん底にあったあった親鸞さまに
「念仏一つで救われる」往生極楽の道を
法然さまが開いてくださったのです。

 「お念仏の道を往け」「お念仏の道を来い」の
釈迦弥陀二尊のお勧めに遇って
「お念仏の道を一緒に往こう」と
法然さまの力強い仰せだったのです。

 私が救われて往く道はただ一つお念仏の道と聞かれ
たとえ法然さまに騙されて往く処が地獄であっても
決して後悔しないとまで信順して親鸞さまは
法然さまと共にお念仏の道を歩んで往かれたのです。

 私のための道が今ここにあると
遥か遠い昔からこの私を救わずにはおかないと
阿弥陀さまは無礙の光明を放ち摂取不捨の名号となって
お念仏の道を開いておはたらきなのです。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされて
「お念仏申してこの道を来い」と
南無阿弥陀仏のお喚び声に促され
お念仏申して今日も一日
往生極楽の道を共々に歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.13)


「人間の言葉は 当てにならない そんなものに 惑わされるな」

2021-09-12
 仏教壮年会の9月の例会です。
朝早くから皆さんで境内の清掃をしていただき
お朝事のお勤めをご一緒させていただきました。
 ありがとうございます。

 今月一か月は御仏前に毎朝掲示しています
『日めぐり歎異抄』のことばのお話をしています。 

 今日12日のことばは
「人間の言葉は 当てにならない 
そんなものに 惑わされるな」です。

 本文は『歎異抄』第二条の
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん
また地獄におつべき業にてやはんべるらん
総じてもつて存知せざるなり」
<親鸞聖人は「念仏が浄土に生れる因か
 地獄に堕ちる行いなのか、まったく知らない」
 と言われている。
 この「知らない」という言葉は
 「私が判断することではない」ということを
 知らせるとともに、人間の言葉によって
 確証を得ようとすることの危険性を教えてくれる>です。

 歎異抄第二条は、関東の門弟お弟子さんたちが
京都の親鸞聖人を訪ねて来て面談する場面です。
 当時は歩いて行く旅で道中盗賊にあったり
いろんな危険をはらむことで
まさに命がけで何日も旅して
親鸞さまにお会いできたのです。

 その目的は「往生極楽の道」を問い聞くためで
浄土真宗のみ教えの一番の根幹です。
 ただその肝要は親鸞さまが関東に居た時に
何度も何度もお話していたことであり
何度も何度も門弟たちは聞いていたことです。

 親鸞さまが関東から京都に帰られて10年20年経つと
異議といって異なる教えが門弟の中で広まって
迷いや不安がおこってきたといいます。

 人間が言う言葉です。
私は親鸞さまからこう聞いたとかこう思うとか
私はということの危険性です。

 通常私たちが日常生活を営む上での言葉ではなく
仏さまのご法義についての言葉です。
 阿弥陀さまの真実信心のみ教えです。
私のはからいが一つも入らない仏さまのお言葉です。

 親鸞さまは門弟たちの問いに
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと
よきひとの仰せをかぶりて
信ずるほかに別の子細なきなり」とだけ答えました。

 遠路はるばる命がけで旅して来た門弟たちは
親鸞さまから「こうだよこうだよこうだからこうだよ」と
聞いて往生極楽の確証を得たいのです。

 親鸞さまが言われた言葉が肝要なのです。
親鸞さまが言うことは間違いない
他の人たちも疑う余地はないということです。

 間違いないのは阿弥陀さまの本願念仏のみ教え
南無阿弥陀仏のお救いの法です。
 そのことを善知識に遇って聞信し
お念仏申す身にさせていただくのです。

 人間の言葉というのは
自分の都合でものを言っていることが多く
仏さまからいうと虚仮不実というのです。

 阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の言葉になった仏さま
と聞かせていただきます。
 称えやすく保ちやすく
私の口から出てくださる南無阿弥陀仏のお念仏です。

 阿弥陀さまは「わが名を称えてくれよ聞いてくれよ」と
いつでもどこでも誰にでもおはたらきです。
 南無阿弥陀仏とお念仏を申すところ
「私がいるよ大丈夫だよ安心しなさい。
どんなことがあってもあなたを見捨てることはないからね。
我にまかせよ必ず救う」と
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
私たちは生かされて生きているのです。

 仏さまから見ると
自分のことで生きることで精いっぱいで
右往左往ウロウロ迷っている私を
無礙の光明と名号でそのまま抱き取り
お念仏申す身にさせて必ずわがさとりの浄土に生れさせると
おはたらきくださる南無阿弥陀仏の言葉になった
阿弥陀さまが今こここの私とご一緒くださる有難さ尊さです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.12)


円光寺
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