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お念仏を申す生活法話

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「向かい合うことも大切だが ともに同じ方向を向くことも大切」

2021-09-21
 今日21日の『日めぐり歎異抄』のことば
「向かい合うことも大切だが 
ともに同じ方向を向くことも大切」です。

 歎異抄第六条の
「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」
<親鸞聖人は「弟子を一人も持っていない」と言われた。
 それは、ともに仏さまの教えを仰ぐ同じ仲間
 (御同朋・御同行)であるという意識からである。
 そんな親鸞聖人だからこそ多くの人が師と仰いだ>です。

 「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」は
親鸞聖人の有名な言葉です。

 ただ親鸞さまから教えを聞かれた方々は
親鸞さまをお師匠さんと仰いでいかれて
親鸞さまの弟子と名乗られたのではないでしょうか。

 その師弟関係は南無阿弥陀仏のお念仏の
ご縁つながりだということです。

 私が言うことを信じるかといって
信じないものは私の弟子ではないとでも
いうのでしょうか。

 今日も皆さんご一緒にご本尊の阿弥陀如来さまを仰いで
お勤めができました。
 皆々等しく如来の御弟子であるというのが
親鸞さまの立ち位置なのです。
 私もあなたも共に往生浄土の道を往く御同朋御同行
お念仏の仲間というのです。

 私たちの日々の生活は人と人とが織りなす社会の営みで
人と人が向き合って生活するなかには
色んな立場の違いもあり
上下関係をいわれることもあります。
 先輩上司から教えてもらうことであり
また若い人の意見を聞くことも大切です。

 向き合う中には意見の対立もあって
時には背中合わせになったり言い合いになって
気まずい関係に陥ることもあるでしょう。

 同じ方向を向き合うということです。
等しく阿弥陀さまの御弟子という立ち位置で
お互いが敬い合い認め合って生きて往ける
往生浄土のお念仏の道を歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.21)


「大きないのちに 貫かれた 私たちのいのち」

2021-09-20
 今日20日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「大きないのちに 貫かれた 私たちのいのち」です。

 歎異抄第五条の
「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」
<「いのちあるものはすべてみな
 大きないのちの流れの中で
 父母であり兄弟姉妹であったのである」とある。
 「わたしのいのち」という小さないのちではなく
 もっと大きないのちの世界に目覚めた時
 本当のいのちのあり方が見えてくる>です。

 昨日ご法事がありました。
50回忌17回忌7回忌のお三方のご縁でした。
 施主からいうとお父さん、おばあちゃん
ひいばあちゃんの四代で
施主の子どもからは五代にわたる仏さまのご縁です。

 私のいのちの始まりは何代前からとたどっていっても
四代五代六代どころではありません。
 始まりがあってその始まりがわからない
無量のいのちのつながり流れのなかに
私のいのちが今ここにあることを
ご先祖のご法事のご縁で改めて教えていただきます。

 私のいのちといって大きないのちのつながりのなかに
生かされてあるということで
私たちは皆同じ大きないのちを生きているのです。

 その大きないのちこそ南無阿弥陀仏と
聞かせていただけるのです。
 南無阿弥陀仏の大きないのちにつながって
それはご先祖子孫という縦の関係だけでなく
この社会に共に生きる横の関係でもあるのです。

 縦にも横にも縦横無尽に網の目のように
大きく広くつながったいのちなのですが
私たちは私のいのちという小さな世界に閉じ籠って
悩み苦しんでいると
仏さまは見抜かれたのです。

 そして大きな世界に生まれて来いよと
阿弥陀さまは私たちが等しく生まれて往ける
お浄土を建立されて
「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏とおはたらきです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.20)


「亡き人のためと」いう思いは「私がいかに生きるか」という問いに転換される

2021-09-19
 今日19日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「亡き人のためという思いは
自分がいかに生きるかという問いに転換される」です。

 歎異抄第五条の
「親鸞は父母の孝養のためとて
一返にても念仏申したること、いまだ候はず」
<親鸞聖人は、亡き父母のためと思って称える
 追善供養の念仏を否定された。
 それは、念仏は、私が作った善ではなく
 仏さまからのよび声だからである。
 私がそのよび声に導かれながら生きることこそ
 実は亡き父母のためでもあるのである>です。

 「人の死後、死者に縁のある生存者がその死者のために
後から追って善事を行う」追善供養についてです。

 親鸞さまがいただかれたお念仏のみ教えは
阿弥陀如来がこの私を必ず救うと仕上げてくださった
南無阿弥陀仏のお救いの法を私が聞かせていただき
お念仏申す身にさせてもらってお浄土への人生を歩み
命終のとき浄土に生まれて仏に成る教えです。

 お念仏は阿弥陀さまのおはたらきそのもので
私がつくる善ではありません。
 私が亡き人のためにお念仏を称えることで
善根功徳を回向するのではなく
阿弥陀さまがこの私のためにお念仏を回向して
「必ず救うまかせよ」とおはたらきなのです。

 「親鸞は父母の孝養のために一返も念仏申したことがない」
と聞いて
親鸞さまは父母やご先祖を大切にしない
冷たい方だと思われるかもしれません。

 親鸞さまは幼い頃に母と死別し父とも生別して
ずっと叔父さんの家で暮らしていたといいます。
 父母に早く別れたことで
父母を慕う気持ちは人一倍強かったのではないでしょうか。
 聖徳太子さまを讃える御和讃には
仏さまを父母のように慕う思いが多く見受けられます。

 それでは何故父母への思いを篤く抱く親鸞さまが
追善供養の念仏を否定されたのでしょうか。

 私たちはご先祖の年回法要をお勤めしますが
どんな思いでご法事をお勤めしているでしょうか。

 この世に遺った遺族親族がご法事をお勤めすることで
そのままご先祖を供養するというのが
一般的な理解でしょうが
ご法事は先にお浄土に往かれたご先祖の仏さまが
私たちのために開いてくださった仏さまのご縁なのです。

 先に往かれた方は冥界を迷っている亡霊ではありません。
迷っているのはこの迷いの世界に生きている私たちです。
 迷う私にどうか仏法を聞いて阿弥陀仏の本願力を信じ
お念仏を申す身になってくれよと願われているのです。

 そもそもお念仏は私がつくった善ではなく
仏さまが私のためにつくってくださった救いの手立てです。
 阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって
私のところに来てくださってこの私をそのまま救うと
おはたらきくださっているという教えが
南無阿弥陀仏一つで救われるお念仏の救いの法です。

 ご法事のご縁に阿弥陀さまの御尊前に座らせていただき
ご先祖を仏さまと仰いでお念仏申しお礼をさせていただきます。
 ご先祖有縁の仏さまが南無阿弥陀仏となって私たちに
阿弥陀さまのお念仏の救いの法を届けてくださったと
見事に先に往かれたご先祖と私たちがお念仏につながるのです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
お父さんお母さんは仏さまとなって
私のところに還って来てくださって
今こここの私を護り救うとおはたらきくださっているのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.19)


「できるだけのことを させていただこう」

2021-09-18
 今日18日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「できるだけのことを させていただこう」です。

 本文は歎異抄第四条の
「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」
<自分の損得を考えず、本当にすべての人を慈しむという
 聖道門(自分の力自力をたよりに修行して
 この世でさとりを獲ようとする教え)の慈悲を
 実践することは難しい。
 「この世では不完全な慈悲しか持てないからこそ
 できるだけのことをさせていただく」という
 気持ちを忘れないようにしよう。
 それが浄土門(仏の力他力によって浄土に生まれ
 さとりを得ようとする教え)の慈悲である>です。

 慈悲は智慧と共に仏さまのお徳おはたらきです。
この慈悲に聖道門と浄土門とでは
大きな違いがあるというのです。

 聖道門はこの世で修行を積んで
さとりを開き仏に成る仏道ですから
完璧な仏さまの慈悲を実践できます。

 一方私たちの浄土門の仏道は
浄土に生まれて仏に成るということで
この命終わってからのことになり
この世で仏さまとして完璧な慈悲の実践はできません。
 浄土からこの迷いの世に還って来て
はじめて完璧な仏さまの慈悲が実践できるのです。

 このことを聞いて浄土門の仏道を歩む
お念仏を申す私たちが行うことは
到底不完全なものでしかないのなら
最初から何もしなくていいというのではありません。

 仏さまのお慈悲の心を聞けば聞くほど
私にできることをさせていただこうと思います。
 私がしたということではありません。
仏さまのお手伝いをさせていただくということです。

 私が行うことは諸善も雑毒といわれるように
私がしてあげたという慢の心が見え隠れし
してあげたのにお礼の一言がないなどと
返って人間関係がぎくしゃくすることにもなります。

 これも私のありのままの姿と振り返させていただけるのも
お念仏のおはたらきと聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.18)


「悪人こそ救いのめあて 私こそ救いのめあて」

2021-09-17
 今日17日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「悪人こそ救いのめあて 私こそ救いのめあて」です。

 本文は歎異抄第三条の
「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」
<「善人でさえ浄土に往生することができる。
 まして悪人は言うまでもない」とある。
 この言葉は、常識的に考えれば、理解不可能である。
 ここでいう悪人とは、煩悩だらけの人間のことである。
 具体的には、私のことである。
 この私こそ阿弥陀さまの救いのめあてなのである>

 「悪人こそ救いのめあてである」という悪人正機の教えは
親鸞聖人の教えの代名詞のようになっていて
私が高校生の時に習った記憶がありますが
鎌倉時代に親鸞というお坊さんが浄土真宗を開いて
悪人正機という教えを説いたというぐらいのことです。

 善いことをすれば救われて
悪いことをすれば救われないと聞くと
うんと頷ける私たちですが
悪人こそが救いのめあてであるというと
えっと思うのではないでしょうか。

 親鸞聖人ご在世の頃
悪人正機の教えを聞いて悪人が救いのめあてだったら
進んで悪いことをしようと聞いた人がいました。

 造悪無礙(ぞうあくむげ)という
悪事を犯しても浄土往生の救いのさまたげにならないという
異義といわれる正統な教義とは異なる教説です。

 悪人こそ阿弥陀さまの救いのめあてという悪人は
法律上道徳的に悪いことをした悪人ではなく
阿弥陀さまの智慧の光明に照らし出された悪人で
煩悩具足の凡夫の私こそが悪人だと親鸞さまは
法然聖人の教えを聞かれたのです。

 人人を見てあの人は悪人でこの人は善人という
私たちのものの見方ではありません。
 阿弥陀さまが私に真正面から向き合うなかで
智慧の光明でこの私を悪人と知らせて
大悲のお心おはたらきでそのまま光明の中に
救うてくださるのです。

 この私をこそ摂め取って捨てないお姿が
お立ち姿の阿弥陀さまです。
 すっとお立ちになって向こうから
私を眺めているのではありません。
 南無阿弥陀仏のお名号となって
私のところに来てくださって「まかせよ救う」と
喚んでくださっているのです。

 悪人とはどういう人なのでしょうか
悪人とは誰のことなのでしょうか。

 欲の心怒りの心愚かな心を暇なく起こし続けて
日夜生きている私のことだったと
お念仏の法に聞かせていただくときに
「わが名を称えて我をたのめ必ず救う」と
阿弥陀さまのお喚び声が聞こえてきます。

 「他力をたのみたてまつる悪人
もっとも往生の正因なり」のお言葉を力強く承ります。
 阿弥陀さまの仰せに「はい」っと信順して
今日一日も往生浄土のお念仏の道を歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.17)


円光寺
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