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お念仏を申す生活法話

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「釈迦弥陀は慈悲の父母」

2021-11-18
 『高僧和讃』の善導讃です。
今日の一首は
「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
   われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」
<釈尊と阿弥陀仏は慈悲深い父母である。
 巧みな手立てをさまざまに施し
 わたしたちにこの上ない真実の信心を
 おこさせてくださった>です。

 お釈迦さまと阿弥陀さまです。
私たちの救いの親さまは阿弥陀如来さまですと
お経さまに教えていただいたのがお釈迦さまです。

 教主世尊とお釈迦さまをお敬いし
救主阿弥陀如来に帰命するのが
浄土真宗の信心です。

 お釈迦さまがこの世にお出ましにならなかったら
私たちは阿弥陀さまのお救いの法に
遇うことができなかったのです。

 仏教にはいろんな宗派があります。
宗派ごとに違いがあって
一般的にわかりにくいところだと思います。

 その違いの最たるものがご本尊の仏さまです。
お寺の本堂や皆さんのお家のお仏壇の
真ん中にご安置の仏さまです。
 浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来さまですが
宗派宗派でご本尊が異なります。

 こんなことをいうと
どの仏さまが一番いいのかという話になって
うちの宗派の仏さまが一番で
他の宗派の仏さまは云々というような
分かりやすい言い方をする人が出てきそうです。

 仏教は迷いの私がさとりの仏に成る教えで
成仏という目的は同じでも
成仏道がそれぞれの宗派で違うのです。

 成仏といって死んだ人のことではありません。
真実に目覚めてさとりを開かれたお方を仏といいます。
 逆に仏ではない私は真実に目覚めることなく
迷いの世界にあって苦しみ悩んでいると
仏さまは教えてくださるのです。

 どこまでも自己中心に生きている私たちお互いです。
真実にくらく本当のことをありのままに見ることができず
その時どきの自分の思いや都合でものごとを見ては
迷っているこの私のことです。

 ここに4人いたら同じものを見ても
みんなものの見方考え方が違うのです。
 そして見方の違いをそれぞれ主張しては
私の見方が正しいと言うのが私なのです。

 それを言い出したら最後は
取っ組み合いのけんかになるか
お互い無視して背中合わせの生活になってしまいます。
 何ともやりきれないですね。
悲しくて苦しくて不安ですね。

 阿弥陀さまはそんな私たちを見て取って
それぞれの違いを超えて真実一つに生きようと
南無阿弥陀仏のお念仏となって
私たちに喚びかけてくださっているのです。

 お互いにそれぞれものの見方生活ぶりは違うけれども
阿弥陀さまの本願を信じお念仏申す身にさせていただき
阿弥陀さまの大悲の中に共に生かされて
同じ阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただけると
聞かせていただきます。

 私一人ではなく隣の人も隣の人も
まだ会ったことがない人もみんな
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちは共に往生浄土の道を生きて往けるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.18)


大掃除の有難いお念仏のご縁です

2021-11-17
 昨日は御正忌前の大掃除を行い
たくさんのご門徒衆にご加勢いただいて
本堂庫裡境内がすっかりきれいになりました。

 いつも目にする本堂の黒板です。
毎日<今日拝読のご和讃>をチョークで書いては消し
書いては消しでそのまんまだったのが
見違えるようにきれいになって
本当に気持ちがいいですね。

 婦人会が主体の活動で
各地区の理事さんが会員さんによく声をかけてくださって
たくさんの方が集まってくれました。

 20数年前に私が住職継職した時とは
大分顔ぶれが変わりましたが
その時のメンバーも今もご健在でいらっしゃいます。

 コロナ下でこれまでずっと外出を自粛してきて
久しぶりに再会したお友だちもいたのでしょう
マスク越しですが
「久しぶり!」「元気やった!」と
あちこちで会話が聞こえました。
 これもお寺のご縁です。

 男性の方も何人かいつもの方がお手伝いくださいました。
自分の役割をちゃんと決めていて
「これは私の務めです」と言わんばかりに
中々普段は掃除しない高い所も
率先して張り切ってしてくださいます。

 皆さんのはつらつとした姿を見ていると
「円光寺は生きとるぞ!」と大変心強く思います。
本当に有り難いことです。

 おかげで掃除も早めに済んで
皆さん本堂に集合していただきました。
 御仏前に座ります。
皆さんに御正忌のご案内とお掃除のお礼を言って
最後に「仏さまに御礼しましょう」と言うと
阿弥陀さまの方を皆さん向いて
手が合わさってナマンダブナマンダブと
お念仏が出てくださって
お念仏の声が本堂中に聞こえてきます。

 今日は皆さん聖典も式章も持っていませんし
お念珠を持っている人も殆どいなかったと思いますが
でもいいですね
聖典も式章もお念珠も無くても
お念仏は出てくださるのです。

 お念仏が身についている頼もしさ有難さです。
お念仏がこの身について手が合わさって
南無阿弥陀仏とお念仏申させていただけるのです。
 それも私一人だけではなくて
隣の人も隣の人も皆さん一堂に同じ方向を向いて
お念仏申せる仏さまのご縁です。

 浄土真宗はお聴聞が大事だといいますが
教えを聞いて覚えることではありません。
 お念仏のみ教えを聞いて
お念仏が身につく
お念仏を申す身にお育てをいただくのです。

 きれいにお掃除しても時間が経つと埃がたまりますが
埃がたまったらまた掃除をすればいいことです。
 大掃除の仏さまのご縁です。
お念仏申させていただくご縁です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.17)


末法濁世の凡夫の仏道

2021-11-16
 今日から『高僧和讃』の第5祖
中国に出られた善導大師のところに入ります。

 最初の第一句です。
「大心海より化してこそ 善導和尚とおはしけれ
末代濁世のためにとて 十方諸仏に証をこふ」
<海のように大いなる阿弥陀仏の慈悲の心によって
 善導大師はこの世にお出ましになった。
 さまざまな濁りに満ちた
 末法の世のもののために『観経疏』を著し
 その内容が仏のお心にかなっていることの証明を
 すべての世界の仏がたに請われた>とあります。

 大心海とは阿弥陀さまの別名で
親鸞聖人は七高僧さますべてにいわれることですが
善導大師を阿弥陀仏の化身とみられたのです。

 善導大師が生まれた時代は末法の世で
玄中寺に道綽禅師をたずねて
曇鸞大師の他力浄土門のお念仏の教えを伝え聞き
末法に生きるものが等しく救われる道を
明らかにしてくださったのです。

 道綽禅師善導大師が生きた時代も末法濁世でしたが
法然聖人親鸞聖人の時代も蓮如上人の時代も
そして私たちが生きている現代もまた末法濁世なのです。

 末法濁世にあって「ただ念仏のみぞまこと」と
親鸞さまが法然さまから聞かれた教えは
お釈迦さまから七高僧さまを通じて伝え届けられた
浄土真宗だったのです。

 法然さまは善導大師が『観無量寿経』を註釈された
『観経疏』に出遇って選択本願念仏のみ教えを開かれました。
 阿弥陀仏の本願による念仏一つで
どんな人も等しく救われる
末法濁世に生きる凡夫のための仏道でした。

 これから善導大師の御和讃26首をたずねてまいります。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.16)


阿弥陀さまがお浄土から私たちに開いてくださった広くて大きなお念仏の道です

2021-11-15
 今日のご和讃の一首をいただきます。
昨日から第4祖の中国の道綽禅師のところに入っています。

 「末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも
ひとりの証をえじとこそ 教主世尊はときたまへ」
<末法というさまざまな濁りに満ちた世に生きるものは
 聖道門の行を修めても一人として
 さとりを得ることはないと釈尊は説き示された>です。

 昨日拝読した道綽禅師の最初のご和讃
「本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて
   唯有浄土一門を 通入すべきみちととく」
<道綽禅師は、さまざまな行を説く聖道門ではなく
 ただ浄土門だけがさとりに至ることができる道であると
 説かれている>と重ねて味わわせていただきます。

 道綽禅師のご功績は
仏教を聖道門と浄土門に分けられたことです。
 第1祖の龍樹菩薩が仏教を難行道と易行道に分けました。
第3祖の曇鸞大師は自力と他力に分けられました。

 自力聖道門の難行の教えと
他力浄土門の易行の教えといいます。

 阿弥陀仏の本願念仏のお救いの法は
お浄土から阿弥陀さまが南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
十方衆生を分け隔てなく救うという
他力浄土門の易行の教えです。

 末法濁世に生きる煩悩具足の凡夫を
南無阿弥陀仏の他力のおはたらきで
そのままお念仏申す身にさせて
浄土に往生させさとりの仏にしてくださるのです。

 仏のさとりを目ざして
自ら厳しい仏道修行に励まれている修行僧がいます。
 大変尊いことで
本当に有り難いことです。

 ただこの私が行ずる仏道はといったら
自力聖道の道でしょうか
他力浄土の道でしょうか。

 親鸞さまは比叡山で20年間
自力聖道門の仏道修行を積まれましたが
煩悩を断ち切ることができず深く悩まれて
比叡山を下りて法然聖人の門下に入られます。

 法然さまの教えは
どんな人も念仏一つで救われるという
阿弥陀さまが開いてくださった
他力浄土門の仏道でした。

 親鸞さまは「雑行を棄てて本願に帰す」と
お念仏の道に帰入されたのです。

 阿弥陀さまがお浄土から私たちに開いてくださった
広くて大きなお念仏の道です。

 「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と
親鸞さまのお言葉をいただいて
今日一日もお念仏を申して日暮らしさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.15)


「浄土にうまるる 因も果も 往くも還るも 他力ぞと ただ信心を すすめけり」

2021-11-14
 毎日お朝事には『正信偈和讃』のお勤めをしています。
お正信偈御和讃とも親鸞聖人が著述されたものです。

 御和讃は毎日繰り読みといって
『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の順番に
53日間で一通り繰って読んでいきます。

 今日拝読の御和讃は
インド中国日本に出られた七人の高僧方を讃嘆する
『高僧和讃』の中で第三祖の中国の曇鸞大師の和讃四首と
道綽禅師の和讃二首をいただきました。

 この『高僧和讃』は全部で119首ありますが
そのうち曇鸞大師の和讃が34首あり最も多いのです。
次に多いのは善導大師の26首で源空聖人は20首です。

 数だけでいうわけではありませんが
親鸞さまがいかに曇鸞大師に
思いを寄せていたかと思います。

 「親鸞」の名前の由来です。
「親」の字は天親菩薩から
「鸞」の字は曇鸞大師から頂いたものです。

 天親菩薩が書かれた『浄土論』を註釈されたのが
曇鸞大師が書かれた『往生論註』です。
 お師匠さんの源空(法然)聖人からのご教授ですが
『浄土論』『往生論註』が親鸞さまの思想信仰の
大きな基盤になっているということが伺えます。

 お正信偈の中にも七高僧のご功績が書かれています。
七人の高僧方の名前が出てきますから
注意して読んでください。

 その中の曇鸞大師について書かれた
「本師曇鸞梁天子」から
「諸有衆生皆普化」までの12句の中に
「天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
   往還回向由他力 正定之因唯信心」
<天親菩薩の『論』を註解して
 報土の因果誓願に顕す
 往還の回向は他力による
 正定の因は、ただ信心一つである>とあります。

 現代語訳は
「曇鸞大師は天親菩薩の『浄土論』を註釈して
浄土に往生する因も果も
阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし
往相も還相も他力の回向であると示された。
浄土へ往生するための因は、ただ信心一つである」です。

 浄土真宗の教えの根幹が端的に示された御文で
他力ということです。
 他力とは阿弥陀さまの本願力といって
阿弥陀さまがこの私を必ず救うと成就された
ご本願の力はたらきです。

 本願成就の南無阿弥陀仏となって
私のところに来てくださって
この私の口から南無阿弥陀仏と
お念仏が出てくださるといただきます。

 南無阿弥陀仏の他力のおはたらき一つで
阿弥陀さまが建立された阿弥陀さまのお浄土に
往生させていただくことを往相といいます。

 往くといって今ここはお浄土ではありません。
この命終えてそのままお浄土に生まれることを
阿弥陀さまの方でもうすでに決めてくださったのです。

 お浄土に生まれてさとりの仏さまに成らせていただくと
すぐこの世に還って来るといいます。
還相といいます。
 迷いの世界に還って迷う人々を救うというのです。
これも南無阿弥陀仏の他力のおはたらきです。

 この後『浄土真宗の教章』を皆さんで唱和しますが
「教義」の項目に端的に記されています。

 お正信偈の意訳勤行に『しんじんのうた』があります。
先に述べたところに
「天親の論 釈しては 浄土に生まるる 因も果も
往くも還るも 他力ぞと ただ信心を すすめけり」
とあります。

 私の父昭然前住職の往生のご縁で
中陰の四十九日間の期間中山門掲示板に
この意訳のことばを書かせていただきました。

 人の命終えてもこれからもずっと
私たちは南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きることができる
お念仏のお救いに遇わせていただきます。

 お念仏が私のところに届けられて
今日は仏教壮年会の例会で皆さんとご一緒にお念仏申して
南無阿弥陀仏の御声がたくさん大きく
「浄土にうまるる 因も果も 往くも還るも 他力ぞと」
頼もしく有難く聞こえてきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.14)


円光寺
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