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お念仏を申す生活法話

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「何をしでかすか わからない そんな私」

2021-09-26
 今日26日の『日めぐり歎異抄』ことばは
「何をしでかすか わからない そんな私」です。

 歎異抄第13条の
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」
<「しかるべき縁があれば
 どのような行いもするものである」とある。
 「いいことをしようと思ったら出来る。
 悪いことを止めようと思ったら止められる」と思ったら
 大間違いである。
 縁にあえば(条件がそろえば)
 どんな恐ろしいこともしでかすか
 わからないのが私なのである。
 そんな私という存在の危うさを忘れないでいたい>です。

 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」
のお言葉は歎異抄の代表的な言葉の一つで
よくご法話等々で聞かせていただきます。

 最近は耳を疑うような信じられない
凶悪事件の報道にあいます。
 そんな時に「私はとてもあんなことはできない」と
思うのが私たちではないでしょうか。

 第13条は親鸞さまと唯円坊との会話で
人を千人殺せと言われて殺せないのが私たちだが
縁があって条件が整えば人を殺すことも
どんなことでもしかねない私だと
親鸞さまがおっしゃるのです。

 事件までにはなりませんが
人と人との関係で
何であんなことを言ったのか何でこんなことをしたのか
何でどうしてと今も思い起こすことってありませんか。

 言葉や行いに出さないまでも
「あいつさえいなければ」と心の中で
何人も人を殺してこなかったでしょうか。
 偶々条件がそろわなかっただけで
何をしでかすかわからないこの私を
見抜かれた上で必ず救うとおはたらきの
阿弥陀さまなのです。

 悪いことをしてもいいよ
どんなことをしても救うからいいよと
いっているのではありません。
 何をしでかすかわからない私が
心配で心配でならなくて大悲の中から
南無阿弥陀仏とお念仏を申してくれよと
喚んでくださっているのです。

 阿弥陀さまのお心とは裏腹の私たちの有り様です。
自分の思い通りにならないことがって腹を立てます
怒りの心が口に出ます。
 その口からお念仏が出てくださるのです。
「どんなことがあってもあなたを見捨てないからね」と
大悲のお心でいつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒です。

 お念仏申すとき安心できます。
阿弥陀さまのお喚び声が聞こえてほっとします。
 いつも私のことを思ってくださり心配して
ご一緒くださる阿弥陀さまのことを思って
お念仏申させていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.26)


「私のはからいが 邪魔になることもある」

2021-09-25
 今日25日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私のはからいが 邪魔になることもある」です。

 歎異抄第10条の
「念仏には無義をもって義とす。
不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」
<「他力の念仏は、自力のはからいがないことを
 本義(根本的な意義)とする」とある。
 「念仏をたくさん称えれば安心し
 少ししか称えなければ不安になる」
 それが自力のはからいである。
 他力の念仏は、私が称えているままが
 阿弥陀さまがはたらいてくださっている
 (真実へと導いてくださっている)姿なのである>です。

 私たちははからいをもって生きています。
私のはからい思いです。
 それはどこまでも自分中心の思いであって
欲の心怒りの心愚かな心の煩悩に通じます。

 仏さまはかねてよりこの私を
煩悩具足の凡夫と見られたのです。
 私たちは命終わるときまで
煩悩具足の凡夫の身を生きていくというのです。

 念仏申すことにも私のはからいが入ると
阿弥陀さまのお心とは遠い念仏になるというのです。
 私が称える念仏ということに力が入ると
念仏をたくさん称えたほうがいいとかいう見方になって
他の人が称える念仏にも善い悪いと見方を付けます。

 他力の念仏といいます。
他力とは阿弥陀さまの力おはたらきですから
阿弥陀さまからいただいたお念仏というのです。
 私がこの口で称える私の声になったお念仏ですが
称えるままが阿弥陀さまがおはたらきくださっている
お念仏と聞かせていただくのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申すそのままが聞こえてきます。
「われにまかせよ必ず救う」の阿弥陀さまのお喚び声です。
 阿弥陀さまの他力のおはたらきのお念仏が
私に至り届いたときに「はい」と
お念仏申させていただきます。
 阿弥陀さまのお救いの御恩に報謝する
お礼の念仏です。

 南無阿弥陀仏と声に出して
お念仏を申させていただきましょう。
 私の耳に届いてきます。
隣の人にも届きます。
 阿弥陀さまのお救いのおはたらきが
十方衆生に行き渡ってくださっている尊いご縁です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.25)

「よろこぶべきことが よろこべない」

2021-09-24
 今日24日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「よろこぶべきことが よろこべない」です。

 歎異抄第九条の
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふ」
<親鸞聖人は「喜ぶべきことを喜べないのは煩悩の仕業。
 阿弥陀さまは、そういう私たちであることを
 はじめから知っておられて
 必ず救うと言ってくださるのだから
 ますますたのもしく思える」と言われている。
 喜べない私を悲しむのではなく
 そんな私を包み込んでくださる
 大きな心を聞かせていただこう>です。

 歎異抄第九条は親鸞さまと唯円坊が対面して
二人だけで会話する場面です。

 唯円坊が「お念仏を申しても躍り上がるような喜びが
湧いてこないし、早くお浄土に往生したいと思う心が
おこってこないのはどのように考えたらいいのか」と
お尋ねしたのです。

 前々からの疑問だったのではないかと思います。
こんなことを聞いたら親鸞さまから
「そんなことじゃ駄目だよ。
お聴聞が足りません、もっとお念仏申しなさい」と
言われるとでも思ったのでしょうか
やっとの思いでお尋ねしたら親鸞さまから
「唯円坊あなたも同じ心持ちだったのですね」と
意外な言葉が返ってきたのです。

 親鸞さま自身も同じように思っていたと
言われたのです。

 お念仏一つで救われると聞いて喜ぶべきことが
喜べない私たちであることを
阿弥陀さまはすでにご存知で
そういう私だからこそ必ず救うと
ご本願をたてられ成就して
お立ち姿の南無阿弥陀仏となって
私のところに来てくださりそのまま救うと
おはたらきなのです。

 私にこうしなさいおこうしないといけませんと
救いの条件を付ける阿弥陀さまではありません。
 私のすべてを見通され折り込み済みで
そのまま救うとおはたらきです。

 どこまでも自分を中心に
煩悩具足の凡夫の身を生きる私を
南無阿弥陀仏のおはたらきで
お念仏申す身にしてくださって
共々にお浄土への道を歩んでくださる阿弥陀さまです。

 この口から南無阿弥陀仏と
お念仏申させていただくところ
もうすでにこの私をそのままお慈悲の中に包み込んで
阿弥陀さまがいつでもどこでもご一緒です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.24)


「真実からの よびかけに 応えながら この人生を生きる」

2021-09-23
 お彼岸のお中日です。
ようこそのお参りです。

 今日23日の『日がわり歎異抄』のことばは
「真実からの よびかけに 応えながら この人生を生きる」

 歎異抄第八条「念仏は行者のために、非行・非善なり」
<念仏は、それを称えるものにとって
 行でも善でもない>とある。
 念仏は阿弥陀さまのよび声である。
 私が南無阿弥陀仏と称えているけれど
 それは南無阿弥陀仏と聞くということなのである。
 私を真実に導いてくださる
 真実からのよび声、それが念仏である>です。

 今日も皆さん何度も何度もこの口から
南無阿弥陀仏とお念仏を申せましたね。
 私が称える私のお念仏の声ですが
そっくりそのまま阿弥陀如来さまのおよび声と
聞かせていただきます。

 南無阿弥陀仏とお念仏申すと
そのまま南無阿弥陀仏と聞こえてきます。
 阿弥陀さまのおよび声です。
そしてこの後納骨堂にお参りしますが
ご先祖有縁の仏さまの声なのです。

 死んだら終いのいのちではなく
南無阿弥陀仏のお念仏の声の仏さまとなって
いつでもどこでも私のところに還ってみえてる
お念仏の声になった仏さまです。

 「いつも私が一緒だよ。
どんなことがあってもあなたを見捨てることがないから
大丈夫だから安心して
あなたはあなたのいのちを精いっぱい輝かせて
一緒に生きて往こう」という
力強いお念仏のおよび声の仏さまとなって
今日もご一緒してくださるのです。

 先に往かれた方のことを思うときは
この耳に聞こえるぐらいで結構です
南無阿弥陀仏と声に出してお念仏を申しましょう。

 お寺の本堂お家のお仏壇の御仏前
そして納骨堂お墓の前が
一番お念仏申し易いところですが
いつでもどこでもご一緒くださる仏さまですから
日々の生活の中で仕事をしている時遊んでいる時も
ご縁ご縁にお念仏申させていただきましょう。

 お天気が続いて中秋の名月のお月さんもよかったですが
清々しい秋晴れの朝になりました。
 今日も一日阿弥陀さまのお慈悲に抱かれて
ご先祖有縁の方を思いつつお念仏申して
ゆっくりゆったり
過ごさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.23)


「さまたげが さまたげでなくなる 人生」

2021-09-22
 今日22日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「さまたげが さまたげでなくなる 人生」です。

 歎異抄第七条の「念仏者は無礙の一道なり」
<「念仏に生きる者(念仏を称え
 仏のみ教えに導かれながら生きる者)は
 何ものにもさまたげられることのない
 一筋の道を歩む者である」とある。
 念仏しても、人生におけるさまたげの
 事実が無くなるわけではないが
 今までさまたげだと思っていたことが
 さまたげではなくなる(大切な意味を見出す
 ことができる)人生が恵まれるのである>です。

 念仏の視座といいます。
お念仏のみ教えを聞かせていただいたものの見方です。

 私たちはどこまでも自分を中心とした見方で
生きていますからもうさまたげばかりです。
 自分の思い通りにならないことばかりと
言っていいかもしれません。

 お念仏申して生きる私たちは
お念仏の視座ものの見方をいただくのです。
 仏さまから見ると
私がさまたげと思っていることもすべて
私を仏法に導くご縁仏さまのおはたらきなんだよと
教えてくださるのです。

 中々そういう心境になりません。
目の前のことに執着して自分中心に思って考えて
行動している私たちですからね。
 今さえよければ自分さえよければという
自分中心の生き方です。

 そういう私めがけてお念仏の声が届きます。
お念仏のおはたらきにさまたげはありません。

 今私はマスクをしてお話しています。
お念仏もマスク越しのお念仏です。
 マスクがさまたげになっているのですが
マスク越しにお念仏の声が出てくださり聞こえてきます。

 お念仏の声は何ものにも
さまたげられることはないのです。
仏さまのおはたらきです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきです。
「われにまかせよ必ず救う」と
私のことをいつも思ってくださり
「どんなことがあっても決してあなたを見捨てない
いつも私が一緒だから大丈夫安心しなさい」
喚んでくださるおはたらきのなかに
私たちは生かされて生きているのです。

 声に出してお念仏を申させていただきましょう。
お念仏の声が聞こえてきます。
 阿弥陀さまの大きなお慈悲の心おはたらきを
今日もいっぱいいただいて
日暮らしさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.22)


円光寺
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