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お念仏を申す生活法話

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「仏法は聴聞に極まる」

2021-10-01
 10月になりました。
この時期はテレビ番組の再編成期にあたり
朝の番組の顔が一部変わって新たなスタートの装いです。

 自民党の新総裁に岸田さんがなって
4日の臨時国会で首相に就任するはこびです。
 総裁選挙の中で岸田さんは何度も
「私の長所は<聞く力>人の話をよく聞くことです」
とおっしゃっていました。
 国民の声をよく聞くと言うことなのでしょう。

 この聞くということについて
蓮如上人は「浄土真宗の仏法は聴聞に極まる」とお示しです。
 聴聞です。

 岸田新総裁誕生を受けてテレビのコメンテーターが
「人の話を聞くといって門構えの聞くではなく
耳辺の聴くで聴いてほしい」と言っていました。

 傾聴です。
耳を傾けて聞くということで
相手の話を相手の立場に立って共感しながら理解しようと
小さな声に耳を傾けるということです。

 相手の言うことを否定せず聴くということですが
できそうで中々難しいことです。
 相手の思いを聴くなかで
自分の思いをつい言ってしまうことがあります。

 「仏法は聴聞に極まる」の聴はひたすら仏法を聴くのです。
人を通じて仏法を聴くということです。
仏さまのお話ですが人がお話することです。

 ところが聴聞の門構えの聞は仏さまのお話を聞くのです。
同じ仏法仏さまのお話ですが
聴くと聞くの違いです。

 門構えの聞は門の中に耳が入っています。
仏門の門です。
 私たちの仏門は浄土真宗です。
浄土の門に入って仏さまのお心が聞こえてくるのです。

 ひたすら仏さまのお話を聴くなかに
仏さまのお心が聞こえてくるというのです。
 仏さまのお慈悲のお心です。
阿弥陀さまの本願念仏のお心
南無阿弥陀仏のお救いのおはたらきのお慈悲の心が
聞こえてくるのです。

 仏法聴聞とは仏さまのお心が聞こえてくるまで
ひたすら聴かせていただくということでしょう。
 生涯聴聞です。
聴いて仏さまのお心が分かったと思うところに
落とし穴があるようです。
 だからこそ仏法はひたすら聞かせていただくと
「仏法は聴聞に極まる」は大切にしたい言葉の一つです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.1)


「怒られたことより 悲しませたことが 心に残る」「人生をかけて 読む本に 出遇えた よろこび」

2021-09-30
 今日30日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「怒られたことより 悲しませたことが 心に残る」です。

 歎異抄後序の
「一室の行者のなかに、信心異なることなからんために
なくなく筆を染めてこれをしるす。
なづけて『歎異抄』といふべし」
<『歎異抄』は、親鸞聖人が伝えてくださった
 念仏の教えの受け取りが
 異なっていくのを嘆いて書かれたもので
 著者(弟子の唯円だと言われている)は
 「なくなく筆を染めてこれをしるす」と述べている。
 他を批判し糾弾する態度(怒り)ではなく
 異なることを嘆き、涙を流しながら(悲しみ)
 書いてくださったのである>です。

『歎異抄』を書かれた唯円さんの心持ちです。
怒るというよりも悲しむといいます。
 何が悲しいかといって
親鸞聖人から伝え聞いた阿弥陀さまのご本願のお心が
間違って受け取られている
これほど悲しいことはないと
泣く泣く筆を執って書かれたというのです。

 「それは間違いだ」と大上段に説き伏せるというのでは
人は素直に聞いてくれません。
かえって反発反論します。

 この泣く泣く書かれたというお心こそ
阿弥陀さまのお心といただきます。
 大悲のお心です。
阿弥陀さまの大きな悲しみお慈悲のお心です。

 それこそ救われようのない私がいたのです。
仏さまに背を向けて罪業を重ねる煩悩具足の凡夫の私です。
 その私に「そんなあなたじゃもう知りませんよ」
「これこれこうしなさい」と注文一つ言わないで
そのまま私に寄り添い抱き取って救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏のお救いのお心おはたらきを
ずっとお聞かせいただきます。

 9月は30日までですので
最後に31日のことばです。
「人生をかけて 読む本に 出遇えた よろこび」です。

「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。
無宿善の機においては
左右なく、これをゆるすべからざるものなり」
<第八代宗主蓮如上人は、『歎異抄』を
 当流(浄土真宗)の大慈の聖教と位置づけてくださった。
 聖教とは、単なる書物ではなく
 自分の人生を預けるに値するような書物のことである。
 人生をかけて読ませていただこう>です。

 これは蓮如上人が『歎異抄』を自ら書き写された最後に
「歎異抄は大切なお聖教で無宿善の人には
読ませてはいけない」と書き添えられたものです。

 それほど聖教は大事なお書物であるというのです。
自らの生死の帰依処
生きる依りどころ死して帰する処にまでなるものです。

 お聖教に親鸞聖人が唯円坊の筆を通じて
私たちに伝え届けられたのは
「念仏一つでどんな人も等しく救われる教え」
そのこと一つだったのです。

 どうぞ何度も何度もできたら声に出して
『歎異抄』を読まれて
人生の道しるべにしていただきたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.30)


「この一言に 出遇えて 本当によかった」

2021-09-29
 今日29日の『日がわり歎異抄』のことばは
「この一言に 出遇えて 本当によかった」です。

 歎異抄後序の
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと
みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておはします」
<「私は、煩悩だらけの愚かな人間であり、この世は無常で
 すべてのことは、そらごと、たわごとで
 何一つとして永遠に変わらないまことはない。
 ただ、念仏のみ永遠に変わらないまことである」とある。
 南無阿弥陀仏のみ教えに出遇った時
 そんな世界が開けてくる>です。

 私たちは今コロナ時代を生きてます。
コロナ感染対策のためにステイホームの外出自粛が続き
学校も職場も休みになったりリモート対応だったりと
私たちの生活がすっかり変わりました。

 コロナ下で殊更今日の御文を思い起こします。
この世のことは燃えさかる家のように
瞬く間に移り変わるというのです。

 日々変わり行く大きな不安の中に
南無阿弥陀仏の救いの法を聞かせていただきます。
 「ただ念仏のみぞまこと」と私たちは真実まことの
生きる依りどころをいただいているのです。

 阿弥陀さまは「どんなことがあっても
あなたを見捨てることはないから
よりかかれよりたのめ、わが名を称えてこの道を往こう」と
いつでもどこでもご一緒してくださる
仏さまになってくださいました。

 コロナ下の中だけでなく
私たちは日々無常の中を生きているのです。
 変わって行きます。
世の中のこともわが身のこともです。
いつまでも若くて健康でというわけにはいきません。

 阿弥陀さまは南無阿弥陀仏となって
老いるなかに病むなかに私のところに来てくださり
この命終わるときそのまま
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただいて
さとりの仏さまに成らせていただける
「ただ念仏のみぞまこと」のみ教えに
聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.29)


「私の都合で「いい」「悪い」」

2021-09-28
 今日28日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私の都合で「いい」「悪い」」です。

 歎異抄後序の
「聖人の仰せには「善悪のふたつ
総じてもつて存知せざるなり」」
<親鸞聖人は「何が善で何が悪なのか
 そのどちらも私はまったく知らない」と言われている。
 私たちの善悪の判断は、自己中心的である。
 私にとって都合のいいものを「善」といい
 私にとって都合の悪いものを「悪」という。
 仏の教えに出遇った時
 そんな自らの姿が明らかになる>です。

 私たちのものの見方は
「いい」とか「悪い」とかに終始しています。
 今日はいい日だった悪い日だったと言い
あの人いい人悪い人と
全てと言っていいほど「いい」「悪い」というところの
判断です。

 そういう私のものの見方を仏さまは
自分の都合で「いい」と言ったり
「悪い」言ったりしていませんかというのです。

 昨日まで「これほどいい人はいない」と言っていた人が
今日には見事に悪い人にひっくり返るのが
自分の都合に合わせた私たちの善悪の判断です。

 自分のことはどこかに置いていてということですが
私もそういう見方で見られているということです。
 お互いに自己中心的なものの見方のなかで
自ら苦しみ悩んでいるこの私の姿を見た阿弥陀さまは
すっとお立ちになってこの私をそのまま救うと
南無阿弥陀仏とおはたらきだというのです。

 昨日は秋篠宮家の眞子さまと結婚の調整が進む
小室圭さんがアメリカから帰国し
そして大相撲の横綱白鵬の引退もあって
ワイドショーだけでなくテレビ報道が賑やかでした。

 話題のことだけにここも「いい」「悪い」が
ついてまわります。
 その人人のことで私には直接関係ないことなのですが
面白おかしく報道されていつか忘れ去られることの
繰り返しです。

 人人それぞれにいろんな見方があってもいいわけですが
この私のことで「いい」「悪い」と言われたくないし
そっと見守ってほしいですね。

 わが身のことでいったら
この人生、いいことも悪いこともあった人生です。
いい悪いをひっくるめてこれまで生きてきて
今のこの私なのです。

 善悪の判断を超えてこの私をそのまま救うと
いつも阿弥陀さまがご一緒してくださることを
南無阿弥陀仏とお念仏を申し聞かせていただいて
今日もこの命輝かせて生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.28)


「私一人のための ご苦労でありました」

2021-09-27
 今日27日の『日めぐり歎異抄』のことばは
「私一人のための ご苦労でありました」です。

 歎異抄後序の
「聖人のつねの仰せには
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとへに親鸞一人がためなりけり。
さればそれほどの業をもちける身にてありけるを
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
<「すべての人を必ず救うという阿弥陀さまのご本願は
 よくよく考えてみれば、この私のためだった」
 このように受け取れたとき
 はじめて本願の真意が心に響いてくる>です。

 この言葉もよく聞かれる有名な言葉です。
般若経というお経さまに
「如来、ひとり我がために法を説けり」とあります。
 如来仏さまは私一人のために仏法を説いてくださったと
今日の親鸞さまのお言葉に通じます。

 「親鸞一人がため」のお心を
私たち一人一人にあてはめていただくと有難いですね。
 この私一人のために阿弥陀さまはお立ち姿になって
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」と
おはたらきくださっているというのです。

 阿弥陀さまは十劫の昔に仏さまに成られたといわれます。
十劫という遥か昔にこの私一人のためにというのです。
 と言われても私たちはこの世に生まれて生きている間の
ことぐらいにしか思っていませんが
この人間に生まれる前があった
その前もあったその前も前もと
遠い遠い遥か昔から私たちは迷いの世界を流転して来て
このたび人間に生まれて今生きているというのです。

 この私を必ず救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏のお心が今ここに届けられて
遥か昔からこの私一人のために
ご苦労いただいたと聞かせていただくときに
何ともったいない何と有難いと
お礼のお念仏を申す生活をさせていただけるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.27)


円光寺
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