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お念仏を申す生活法話

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本屋さんにて

2024-12-29
 近くの商業施設に買い物に行って
本屋さんに立ち寄りました。

 養老猛司さんの新刊書『人生の壁』が目に留まり
しばらく立ち読みしました。

 養老さんの著書といえば
ベストセラーの『バカの壁』から
「壁」シリーズがヒットを続け
今回の『人生の壁』が
最終作になるとも言われています。

 生きていくなかで壁にぶつからない人はいないが
それをどう乗り越えるかどう上手にかわすか
厄介な「人生の壁」を越える知恵を語るということで
いくつかのテーマで書かれています。

 すーっと読んだなかで
「メメント・モリ」という言葉が気になって
スマポで検索しました。

 ラテン語で「死を想え」と
「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」
という意味です。

 中世のキリスト教修道院の修道士のたちの挨拶に
一方が「メメント・モリ」と言うと
「カルペディエム」と声をかけ合うそうです。

 「カルペディエム」とは「花を摘め」と
「今日の花を摘むように今日を十分生きよ」
という意味です。
 今を生きる今を楽しむと
あなたの日常をよりあなたらしく
生きてほしいといいます。

 養老さんは「死をタブー視して覆い隠し
人工物だらけの世界を拡張させている現代社会にあって
不安と排除ではなく
同居することを覚えていくのが成熟」といっています。

 この人間界に生まれたということは
どんな人も必ず死んでいくのですが
私たちは死に背を向けいつまでも若くて健康でと
生きることのみ追い求めて
結局はすべてを手放して
この人生を虚しく終えていかねばなりません。

 仏法は生死一如と
生きることはそのまま死ぬことと教えますが
私たちは生と死とを分別しては
本当のいのちのあり方が見えないままに
生きることに固執して思いはからい苦しみ悩み
老いて病んで死んでいくのです。

 仏教は生死の迷いを超えてさとりの仏に成ると
私たちは死んだら終いのいのちを生きているのではなく
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
人の命終えてそのまま浄土に生まれ仏に成るいのちを
今こここの私が生きていると聞かせていただきます。

 仏法に遇うために人の世に生まれて
この人生を生きる意味を仏法に聞かせていただき
お念仏申す身にお育ていただくのです。

 お念仏申して阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
私たちは自他共に心豊かに
お浄土への人生を生きて往けるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(20241229)

阿弥陀さまはいつも休みなく動いている仏さまです

2024-12-28
 昨日が仕事納めで
今日から年末年始の長期休暇の人が
多いということです。

 故郷に帰省する人旅行に行く人など
お休みの過ごし方は人それぞれです。
 一方でこの年末年始に超多忙な
交通機関や宿泊商業施設などで働く人がいます。
 また自宅でゆっくり過ごす人もいたりと
多様な生活ぶりの現代社会の有り様です。

 さて阿弥陀さまに
お休みがあるかといって
いつも休みなく動いている仏さまといいます。

 お寺の本堂やお家のお仏壇の
この目で見える阿弥陀さまは
いつも立ってらっしゃるお姿ですが
動いている気配はありません。

 いつも同じ御座にいらっしゃるから
私たちはお参りして安心できるわけですから
これが動いていなくなったら
「さあ大変!」です。

 動いているとは阿弥陀さまのおはたらきです。
苦悩のなかに迷う私を見抜かれて
「必ず救うまかせよ」と座っちゃおれんで立ち上がり
南無阿弥陀仏のお名号となって
今こここの私のところに来てくださっている
阿弥陀さまのおすがたなのです。

 阿弥陀さまのおはたらきが私の心に至り届き
私の口から南無阿弥陀仏のお念仏が
出てくださるのです。

 私が働いている時も休んでいる時もいつでもです。
私の帰省先でも旅行先でも自宅でもどこでもです。
阿弥陀さまが私に付いて離れずご一緒です。

 お念仏申して阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
いつでもどこでもご一緒させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(20241228)

年の瀬もお念仏のお慈悲の中

2024-12-27
 年の瀬も迫っていつもの日常とは違う
慌ただしさの中にいて何か落ち着きません。

 それでも時間は経って行きます。
今年のうちにしなければと思うことも
頭に浮かんでは手を付けるところまでいかず
今日一日が過ぎて
「今年もあと何日」と秒読み段階に入ってきました。

 お念仏申す生活です。
お念仏申すことについて
いつもの日とか年の瀬などとか
特別な日はありません。
 いつでもどこでも誰にでもの
阿弥陀さまのお慈悲のお救いです。

 あれもこれもではなく
お念仏申して今できることを
一つ一つさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(20241227)

「たしなむ心は他力なり~お念仏を主にした生き方を送る」※転載

2024-12-26
除夜の鐘に思う

 今年も、あとわずかとなりました。
 
 元旦に発生した能登地方の大地震
そして翌日の羽田空港での事故も
被災地救援に向かうときの悲しい事故でしたし
全国各地で多くの自然の猛威に直面され
寒い越年を余儀なくされている人たちの多さに
思いを馳せると心が痛みます。
自らはいろいろあったにせよ
何とかこうして年越しを迎えようとしていることに
罪悪感さえ覚えます。

 またウクライナやガザのニュースを見聞きするにつけ
自らの想像力の乏しさに絶望します。
 社会の様相にもっともっと眼を向けねばと
自戒しつつ越年を迎え
複雑な思いの中にもお慈悲はあると感じています。

 私も、そして、お寺に除夜の鐘をつきに来てくれる
参拝者の人たちも
どのような思いで鐘をついてくれるのだろうかと
自問しています。

 除夜の鐘は、百八つつくことが多いでしょう。
人間の煩悩は百八つあるという
通説から来ているようです。
 私自身の実感からは
百八つくらいでは済まないような気がしますが
そんなことを言っていたら、永久に止められません。
 百八という数字は
六大煩悩を基本にして細分化したものでしょうから
厳密に言うと「数」ではなく
「分類」に当たるように思います。

 そもそも「鐘をつきながら
一つずつ煩悩を消していく」なんてことが
可能でしょうか。
 毎年、一つずつ消していけば
二十年後には八十八に減っている。
 おそらく、そうはいかないでしょう。
鐘をつくという行為そのものに
そんな力があるとは思えません。

煩悩成就のありさま

 親鸞聖人は、私たちの煩悩的なありようを
「煩悩成就」という表現を
用いておられることがあります。
 「煩悩成就」は、元々は、曇鸞大師の書かれた
『往生論註』にある言葉ですが
『往生論註』自体に、この言葉の説明はありません。
 ただ「願力成就」については
「願によって力が生じ
力は願にかなっている」と説かれ
相互に関係しあいながら
形づくっている状態を言うようです。

 この観点で「煩悩成就」を見ると
「煩」は身を煩わせ
「悩」は心を煩わせることと考えれば
「身と心が互いに影響しあいながら
負のスパイラルを形成している状態」と
考えられるかと思います。

 また「功徳成就」という言葉もあります。
「功徳成就」には「功徳が仕上がっている」という
意味のようでもありますが
私たち衆生の側に「仕上がる」という状態は
考えにくいと思います。

 おそらくそのため、江戸期の学僧・道隠和上は
煩悩成就のことを「川の水を刀で切るようなものだ」と
おっしゃっていたと記憶します。
 川の水を刀で切れば
一瞬は切れたようでも
すぐに川の流れは繋がっていきます。
 このありように例えることで
煩悩が次から次へと湧き上がってくる
動的な状態を表現しているように思います。

「不断煩悩得涅槃」

 このような煩悩的存在であることに気づくことで
煩悩のたれ流しを少しでも改めたい思いが
芽生えることは
大切な意識転換と言えるでしょう。
 これまで阿弥陀さまを泣かせ続けてきたことに
気づいた上には
「もっと泣かせよう」と思うはずはありません。
「これ以上、泣かせることはすまい」と
方向性が変わるものです。
 「煩悩具足」や「煩悩成就」の身であることは
生涯変わることはありませんが
このような「内発的な変革」のことを
昔から「つつしみ」や「たしなみ」と言ってきました。

 蓮如上人のお言葉には
「こころにまかせず、たしなむ心は他力なり」とあり
煩悩が支配するわが心にまかせず
「たしなむ」身となるのは
他力のもよおしであると示されています。

 また「弥陀をたのめば
南無阿弥陀仏の主に成るなり」
とも上人はおっしゃっています。

 このお言葉のように
迷い心である煩悩をわが主とするのではなく
南無阿弥陀仏のお念仏を主にした生き方を
送りたいものです。

 「不断煩悩得涅槃」(私が煩悩を断つのではなく
仏力・他力が絶ってくださる)のお言葉を心に刻みながら
今年も除夜会に臨みたいと思っています。

 ※『みんなの法話』
    (本願寺派勧学 満井秀城和上)より転載
      ー本願寺新報2024年12月20日号ー

ご一緒に、お念仏申しましょう。(20241226)

お念仏のご縁です

2024-12-25
 月に一度のお念仏のご縁です。
いつもの場所でいつものメンバーとお会いします。

 毎回ほぼ全員が出席です。
皆さんの顔を見てほっとします。

 阿弥陀さまの御仏前です。
お念仏申して会の始まりです。
 日常いつも会っているわけではありませんが
ずっといつも会っているような感じで
何か安心します。

 仏さまのお話を聞いて
皆さんそれぞれに思いを話されます。
 日々の生活の中で
お念仏をどう味わわれているのか
自分の思いに重なることもあってうなずくことも
こんな受けとめ方もあるんだなと
新しい発見もあったりして
楽しみです。

 お念仏のご縁つながりです。
人皆それぞれに生活ぶりは違いますが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
同じ往生浄土のお念仏の道を
共に歩ませていただくお同行です。

 会の終わりに次回のご縁を確認して
お念仏申し阿弥陀さまにお礼をして別れます。

 1カ月後の再会ですが
明日のことのように思えて楽しみです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
あなたも私も皆共に生かされて生きていることを
有難く尊く味わわせていただく
お念仏のご縁です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(20241225)

円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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