「役に立たないと ダメですか?」(北豊・上毛組伝道ポスター) ※転載
2024-11-06
高齢になればなるほど
残念ながらできることが減ってきます。
そうなると、人や社会の役に立つことが
生きがいだった人は
大きなショックを受けるようです。
役に立てなくなった状況に直面して
自分を責める人、愚痴が増える人、イライラする人
タイプは実にさまざまです。
先日、俳優の松坂桃李さんが、ある番組の中で
女優の樹木希林さんとの思い出話を語っていました。
松坂さんにとって映画初主演作品の撮影の際
一人で気負いすぎて演技がうまくいかず
撮影で一緒だった樹木希林さんが
非常に気を遣ってくれました。
そして撮影後、樹木さんから言われた次の言葉を
松坂さんは今でも大切な教訓にしているそうです。
謙虚に人の世話になりなさい
これは人生の中で大切なことでもあり
困難なことでもあります。
プライドが邪魔してお世話を頼めなかったり
お世話されることに過度に申し訳ない気持ちになり
自己嫌悪に陥ったりします。
役に立つ・役に立たないという物差しが
心に沁みついているため
他人から一方的にお世話になる自分を
強く責めてしまうのです。
私たちの心を支配している
役に立つ・役に立たないという物差しは
あくまで煩悩にすぎず
阿弥陀さまにそのような物差しや
分け隔てはありません。
お念仏を称えることによって
自分の思い通りになることは残念ながらありませんが
思い通りにならない自分が
そのまま救われていく世界があることを知らされます。
それは自分の居場所が明確に存在することを
知らされることでもあります。
阿弥陀さまのご本願に出遇ったならば
人生を空しくする価値観(役に立つ・役に立たない)に
惑わされ続けることなく
浄土へ向かう人生を
しっかり歩ませていただけるのです。
※江田智昭氏著「ご機言!お寺の掲示板」
―『大乗』2024年11月号より ―
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.6)
仏法聴聞のすすめ
2024-11-05
蓮如上人は「ただ仏法は聴聞にきわまる」と
私たちに仏法聴聞をおすすめです。
浄土真宗の仏法は
阿弥陀仏の本願念仏のお救いの名号法です。
本願成就の南無阿弥陀仏のお名号のおいわれを
聞かせて信心いただくことことが肝要です。
聴聞の「聴」も「聞」も「きく」と読みますが
「聴」は積極的にこちらから聴くということで
「聞」は聞こえてくるということです。
仏法を重ねて聴くなかに
ご本願のお心南無阿弥陀仏のおはたらきが
聞こえてくるというのです。
「まかせよ救う」の阿弥陀仏のお心おはたらきで
ご信心をいただきお念仏申す身に
お育ていただくのです。
お念仏のおはたらきがこの身に来てくださり
「法味愛敬(ほうみあいぎょう)」の生活を
させていただきます。
仏法を味わうといいます。
阿弥陀仏の大きなお慈悲のなかに生かされて
生きる身にさせていただくのです。
私がどうこうするのではなく
もうすでに阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
あなたも私も皆共にあったと聞こえてきて
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちは御同朋御同行と手を携えお念仏申して
往生浄土の道行きをご一緒させていただくのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.5)
「安心してジタバタできる」※転載
2024-11-04
「死ぬこと以外かすり傷」
この言葉は人生における挑戦を後押しする
自己啓発の言葉として世間で流行しました。
皆さまはどう感じられますか?
社会の荒波の中で、失敗を恐れるあまり
新たな挑戦をためらっている人にとって
この言葉は大きな活力となったかもしれません。
しかし、この言葉の裏を返せば
「人生で唯一の問題は〈死〉である」
ともいえるでしょう。
お釈迦さまは
かつてインドのシャカ族の王子としてお生まれになり
29歳の時に地位や財産を捨てて出家されました。
それは誰も逃れられない〈死〉の苦しみの
解決のためです。
そしてその答えとは
欲望を捨て去る(さとりを開き、仏となる)
ということでした。
しかし、欲望が絶えない私は
この苦しみから逃れることができません。
親鸞聖人はこのような私のために
お釈迦さまや浄土を願われた高僧方の導きを通して
阿弥陀さまのはたらきによってさとりの世界に生まれ
〈死〉の苦しみを超えていく道を
示してくださいました。
私は、この〈死〉の苦しみを超える道に
出遇えたからこそ
日々の暮らしの中で
「安心してジタバタできる」のです。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(本願寺派総合研究所 林龍樹研究員)より転載
ー本願寺新報2024年11月1日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.4)
心田を耕す
2024-11-03
今日は文化の日の祝日です。
文化は英語でカルチャー
耕すという意味です。
私たちの生活の基本は
田畑を耕すことから始まります。
お米や野菜の種をまき収穫して
食することで私たちは生きています。
まさに大自然の恵みをいただいて
生かされて生きている
私たちの生活そのものが文化です。
この大自然はある時
私たちの生活に脅威災害をもたらします。
私たち人間の歴史は
大自然の営みと共生するなかで
科学技術が進歩し
私たちの生活は便利で豊かになりました。
ただより便利で豊かな物質主義を追い求める社会は
こころの荒廃を生み出しました。
「物で栄えて心で滅ぶ」といわれることです。
お釈迦さまは
「こころの田を耕しなさい」と示されます。
こころの田を耕すことで
心豊かに生きていきましょうと
仏法を説いてくださったのです。
こころは耕さずに放っておくと荒れて
頑なな心にとらわれるようになります。
仏法を聞いて心を耕し
柔軟な心で社会生活をおくりたいものです。
仏教文化生活です。
仏教文化がもたらす心豊かな生活実践です。
お念仏申す生活は
「すべてのものを分け隔てなくそのまま救う」
南無阿弥陀仏のお心おはたらきのなかに
あなたも私も皆共につながって
自他共に心豊かに生きることのできる
社会をめざします。
お念仏にすべてをゆだねまかせて
お念仏申されるように生きる文化生活です。
お念仏の仏教文化花咲く社会の実現のために
お念仏申して私にできるお手伝いを
させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.3)
「月参りの値打ち」※転載
2024-11-02
この夏から秋にかけて
何度も突然のゲリラ豪雨に見舞われ難儀しました。
大雨の中、月参りに出かけると
一軒のお宅で、こんなことを言われました。
「こんなによく降るときは、遠慮なくお休みください。
うちのお父ちゃんは、もうとっくに
ええとこにいってますから」
この言葉の前半は、言うまでもなく
雨のときに来てもらうのは申し訳ないということですが
面白いのは後半です。
お父ちゃんというのはご主人のことですが
亡くなられたのはもう二十年も前で
それ以来毎月のご命日に、お参りに来ているのです。
そんなに長い間、毎月お勤めをしているのだから
お父ちゃんは「ええとこ」にいっているだろうから
無理をしてまでお参りしてもらわなくてもいいですよと
きっとそんな意味だろうなと思います。
「ええとこ」というのは
阿弥陀さまの世界、極楽浄土のことでしょう。
でも、言うまでもなく
月参りは、亡き人を、「ええとこ」に導くために
しているのではありません。
お仏壇に、お仏飯やお花を供え
きちんと手を合わせ、お念仏を称えることは
毎日欠かしてはいけないことです。
でも、日常の中で
それがつい疎かになってしまうので
せめて月に一度、大切な人のご命日に
仏さまと向き合おうとするのが
月命日であり、月参りです。
月参りの本当の値打ちは
住職とご門徒が
そんなことをざっくばらんに語り合える
その距離の近さだと思います。
※菅純和氏著「仏事の小箱」
ー『御堂さん』2024年11月号より ―
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.11.2)