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お念仏を申す生活法話

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「正信偈をよみて、仏にも聖人にもまいらせんとおもふか、あさましや」

2021-10-06
 蓮如上人のお言葉です。
「正信偈和讃をよみて、仏にも聖人にも
まいらせんとおもふか、あさましきや」です。

 浄土真宗の朝夕のおつとめであるお正信偈和讃を
阿弥陀仏のためとか親鸞聖人のためにつとめてあげている
というような気持ちならば、それは間違っていますと。

 お朝事のご縁に正信偈和讃のお勤めをさせていただきます。
蓮如上人の頃からの浄土真宗門徒の日々のたしなみですが
このお勤めをするときの心待ちを言っているのです。

 何のためにと思いますね。
何のためにお朝事にお参りするのか
お参りして何かいいことご利益があるのかと
外の人の見方です。

 皆さんはどういう心持ちで
お朝事にお参りしてお勤めをされていますか。
 今日このお言葉をいただくということで
お勤めをしながら思ったことです。

 正信偈和讃は親鸞聖人のお言葉で
御文章は蓮如さまのお言葉です。
 そのお言葉を毎朝聞かせていただけるということです。
もっと言うと毎朝親鸞さま蓮如さまにお会いして
声をかけていただいているということです。

 この尊いご縁をお念仏の先人が
私たちに送り届けてくれたのです。
 蓮如さまから500年以上です。
500年以上もの間全国津々浦々で多くの私たちの先人が
毎朝正信偈和讃をお勤めし御文章を拝読して
お念仏申す生活を始められたのです。

 いろんなことがある日々の生活です。
人それぞれに生活ぶりは違います。
 思い通りに行くこともあれば
思い通りに行かなくて何でどうしてと思い悩むこともあれば
思いがけないことにあって涙することもあります。

 「どんなことがあっても私はあなたと一緒ですよ。
あなたを捨てることは決してありませんよ」と
阿弥陀さまのお喚び声を聞かせていただき
お念仏をよろこび申す身にお育ていただいて
どんな困難な中にあっても仏さまと共々に
お浄土への人生を生き抜かせていただけるのです。

 ご先祖の供養のためにお経をあげるといったりしますが
先に往かれた大切なお方は阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏さまとなってこの迷いの世に還って来て
今もこの私を護り救うという
南無阿弥陀仏のおはたらきをしてくださっていると
お経さまに聞かせていただきます。

 阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
お念仏申して今日一日も生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.6)


「ききわけて、之信ぜぬもののことなり」

2021-10-05
 人の話を聞くのは難しいことです。
特に親の話です。
 いつもの同じ話です。
子どもにとっては耳の痛い話です。
その繰り返しです。
 だからそういうことを言い出すと
「もういい。わかっている」「もう知っている」と
話をすぐ断ち切ろうとします。

 人の話を聞くとき
どこかで聞き分けているところがあります。
 自分の得になるためになる話は耳をそばだてて聞きますが
得にならない関心のない話は聞いても上の空で
スーッと右から左へ通り抜けます。

 本当に分かっているのか、分かっていないから
親は何度も何度も同じことを繰り返し言うんですね。
 子どもに嫌な顔をされても
親だから言うんですね。
言ってくれるのですね。

 仏さまのお話を聞くのも人から聞くわけですから
私には関係ない死んでから後の話ぐらいに思って
聞き流してしまうのではないでしょうか。

 蓮如上人は「ききわけて、之信ぜぬもののことなり」
とおっしゃっています。
 聞き分けるとは自分の思いで聞いているということです。
自分の思いで阿弥陀さまのお救いの法を聞いても
信じるということではありません。

 お経さまに「聞其名号信心歓喜」とあるように
南無阿弥陀仏のお名号のおいわれを聞かせていただく
そのままが信心いただくことだよと言うのです。
 阿弥陀さまの大悲のお心を素直に聞いて
そのまま受け入れるということですが
これができないのがこの私です。

 お経さまの文字の解釈を聞くのではありません。
お経さまに説かれる仏さまのお心を聞かせていただくのです。
 阿弥陀さまが私たちのために何で
ご本願を起こされたのかというお心です。

 今日の御和讃の六首目に
「超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり」
<阿弥陀仏は、あらゆる仏がたに超えすぐれた
 この上ない誓いを五劫もの長い間思惟して
 選び取られたのであり
 それは光明無量の願と寿命無量の願を
 大いなる慈悲の根本とされたのである>
とありました。

 光明無量寿命無量の願を本とする
阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心おはたらきです。
 無量の光明を放ってどこまでも照らし尽くし
無量の寿命でいつの世にあっても摂め取って捨てない
ご本願のお心おはたらきです。

 大悲の心大きな悲しみのお心です。
そこに救われ難いわが子がいたのです。
わが子を思う親の深い悲しみです。

 南無阿弥陀仏を聞かせていただくなかに
阿弥陀さまのお心が聞こえてくるといいます。
 お聴聞です。
お念仏申しそのまま聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.5)


「聖教はよみやぶれ」

2021-10-04
 蓮如上人のお言葉
「聖教はよみやぶれ」です。

 お聖教といい聖典のことです。
お釈迦さまが説かれたお経さまであり
お経さまのお心を伝えてくださる
親鸞聖人蓮如上人のお言葉です。

 毎朝お朝事のお勤めで
お正信偈御和讃と親鸞さまのお言葉
蓮如さまのお手紙の御文章を拝読させていただきます。
 お聖教に遇わせていただく有難いご縁です。

 お聖教を大切な証文といいます。
大切なものだから大切にしましょうということです。
 皆さんもそれぞれ大切なものがあって
大切にされていると思いますが
大切なものだから仕舞い込んでしまっているという
話を聞くことがあります。
 私にも思い当たることがあります。

 蓮如さまは「聖教は読み破れ」とおっしゃっています。
お聖教を大切にするというのは仕舞い込むのはなく
常に日々の生活のなかで拝読させていただくことが
大切であるというお示しです。

 皆さんの聖典です。
毎日ずっと長く触れていると手垢がついて
汚れてきます。
 毎日何度も御文章を拝読してボロボロになったという
お念仏の先人の話を伝え聞きます。

 「聖教はよみやぶれ」と
読み破れるぐらいにお聖教を読み聞くことが大切なんだと
聞かせていただきます。

 聖典の汚れは立派な勲章です。
勲章といって人に誇るようなことではありません。
 この私に毎朝届けてくださる親鸞さま蓮如さまのお手紙です。
お聖教のお心南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただいて
また今日一日をお念仏申して始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.4)


「おもいうちにあれば、いろほかにあらはるる」

2021-10-03
 今日からしばらく<蓮如上人のお言葉>を
お取り次ぎさせていただきます。

 お寺のお内陣やお家のお仏壇の向かって左奥に
ご安置させていただいていますお坊さまです。
 親鸞聖人のお流れをくむ本願寺第八代宗主で
本願寺中興の祖とかご再興の上人と尊崇され
広く親しまれています。
 お念仏のみ教えを全国津々浦々に伝道教化されて
今日の本願寺教団の基盤をつくられたご功績です。

 浄土真宗門徒の日常勤行として
親鸞さまが著述された『正信念仏偈』を制定され
蓮如さまのお手紙『御文章』を届けて
浄土真宗のみ教えの肝要を分かりやすく
お説きくださいました。

 蓮如さまが日々おっしゃられたお言葉を
『蓮如上人御一代記聞書』にまとめて
私たちに伝えてくださっています。
その中の言葉です。

 浄土真宗のキーワードは念仏です。
念仏なしに浄土真宗を語ることはできません。

 念仏はそのままいいますと
仏を念じる心に憶うということです。

 7世紀に中国に出られた善導大師の頃までの念仏は
阿弥陀仏のお徳おはたらきを心に憶うことでした。

 ただ私の心はいつも平静ではありません。
それこそ自己中心に欲の心怒りの心愚痴の心が
暇なくわきでて縁に触れて心が乱れます。
 常に心乱されるものにとって
念仏することは大変難しいことでした。

 そこで善導さまは「常に心乱れるものでも
南無阿弥陀仏と称えることはできるでしょう」と
「念ずることは称えることだ」と
称名念仏をすすめてくださったのです。

 お念仏は仏さまの名号南無阿弥陀仏を称えることで
いつでもどこでも誰でもみんなできることだと
念仏といえば南無阿弥陀仏と称える
称名念仏が一般的になったのです。

 蓮如さまは
「おもいうちにあれば、いろほかにあらはるる」と申され
心は乱れていても南無阿弥陀仏とお念仏が口から出るのは
阿弥陀仏を憶う心が内にあるからですよと
教えてくださったのです。
 阿弥陀さまのお心がもうすでに届けられているから
南無阿弥陀仏が口から出てくださるのです。

 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお徳おはたらきが
この凡夫の身に届いてこの凡夫の卑しい口から
南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださると
先人はお念仏申して阿弥陀さまのお慈悲のお心を
有難くいただいて私たちに伝えてくださったのです。

 お寺の本堂やお家のお仏壇お墓の前で
お念仏は称えやすいですね。
 どうぞ声に出してお念仏を申しましょう。
ただ私たちの日々の生活の中でもお念仏は申せます。
 忙しく仕事をしている間も遊びに行ってる時も
食事をしている時も風呂に入っている時も
南無阿弥陀仏と阿弥陀さまが「必ず救うまかせよ」と
喚び通しに喚んでおはたらきくださっているのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.3)


「仏法聴聞はかどを聞け」

2021-10-02
 今朝6時に花火が上がって
今日は小学校の運動会です。

 昨日に続いて仏法聴聞のお話です。

 親鸞聖人は聴は<ユルサレテキク>
聞は<シンジテキク>とお示しです。

 聴はこちらの方から聴いていくといいます。
お医者さんの聴診器の聴で
患者さんに不具合がないか具に漏らさず聴きます。
 耳が横に付いています。
耳をそばだててひたすら聴くのです。

 聞は<シンジテキク>といいます。
聞は門構えの中に耳と書きます。
 「聴聞はかどを聞け」と言われます。
仏さまのお話の要点を聞くということで
仏さまの教えを信じて聞くというのです。

 信じて聞くというと私が信じるか信じないかと
私がと力が入りますが
南無阿弥陀仏のご法義は
阿弥陀さまがこの私を条件なしに必ず救うという
本願力回向(他力)のお救いの法ですから
私が信じるか疑うかの前に
先手ですでに成就されおはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
そのまま信心いただく他力のおはたらきです。

 親鸞聖人が「聞とは仏願の生起本末を聞いて
疑心あることなし」とお示しのように
阿弥陀さまが本願を建てられた理由(わけ)と
その結末を聞かせていただきます。

 この私がいたということです。
迷い続ける救われ難い私がいたからこそ
阿弥陀さまがこの私をこそ必ず救うと本願を起こし
成就されたお姿がこのお立ち姿の阿弥陀さまであり
南無阿弥陀仏のお名号となって
「われにまかせよ必ず救う」と
今ここ、この私におはたらきなのです。

 阿弥陀さまのご本願のお心を私が聞いた信じたから
救われるのではありません。
 阿弥陀さまのお心を聞かせて信心いただいき
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされていることを
知らされて安心できるのです。

 信心いただきお念仏を申す身にさせていただかなければ
私たちはこのままずっと迷いの境涯をこれからも
経巡って行かねばなりません。

 大学受験の合格発表を自分で見に行けずに
友人に合格の可否を知らせてほしいと頼んで
合格発表の時間が過ぎても中々連絡がこなくて不安な中に
やっと合格したと連絡が入って安心するという譬え話です。

 連絡があって合格したのではなくて
もうすでに合格していたのです。
 合格通知がないまでは不安でいっぱいで
合格通知があって安心するのです。

 阿弥陀さまのご本願は今から十劫の遥か昔に
成就されているのですが
「聞其名号信心歓喜」とお経さまにあるように
本願成就の南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただく
そのままに信心いただくことが肝要なのです。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきの中にありながら
そのお心を聞くことなくこの人生を空しく過ごしては
また迷いの境涯を繰り返すだけです。

 阿弥陀さまが先手の南無阿弥陀仏のお救いです。
この私のこととしてお聴聞させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.2)


円光寺
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