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お念仏を申す生活法話

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罪の沙汰

2021-10-12
 蓮如上人のお言葉です。

 私たちは他の人が為したことは
あまり見向きもしないくせに
自分の為したことには周囲に認めてほしい
誇らずにはおれないところがあります。

 ところが自分のやったことを誇る人が
逆に罪を犯したり悪いことを行うと
阿弥陀如来の救いもこれでダメになるのではと
落ち込みます。

 阿弥陀さまのお救いに遇うことは
自分の為した善根によりお救いにあづかり
自分の為した罪悪により救いは遠のくと思うのでしょう。

 「善いことをしたら救われて
悪いことをしたら救われない」と聞いて
私たちは頷きます。

 蓮如さまは「つみの沙汰無益なり
たのむ衆生を本とたすけたまふ事なり」と
おっしゃられています。

 私たちの為した善悪によって
救う・救わないという阿弥陀如来ではないのです。
 決して悪いことをしてもいいよと
言っているのではありません。

 阿弥陀さまは縁次第で善いことをし
また悪いこともしかねない私のことをご存知で
そのまま救うと南無阿弥陀仏とおはたらきなのです。

 阿弥陀さまの大悲のお心本願のお救いを聞いて
その確かなお心ひとつを依りどころに
「弥陀をたのむ」と阿弥陀さまにまかせ安心して
お念仏申して今日一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.12)

「回向といふは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいふなり」

2021-10-11
 蓮如上人のお言葉です。
「回向」ということについてです。

 回向は仏教の大切な言葉ですが
他の宗派と浄土真宗ではその意味は全く違います。

 他の宗派では亡くなった人にお経をあげることを
回向というようです。
 お経をあげることで
お経の功徳を故人や先祖にふり向けるということです。

 私がご先祖にということで
回向ということを思われている方が
多いのではないでしょうか。

 蓮如さまは「回向といふは、弥陀如来の
衆生を御たすけをいふなり」
<回向とは阿弥陀如来が私たちを救わずにはおかない
 というおはたらきなのです>とお示しです。

 回向とは、仏さまの方が「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏の名号となって
おはたらきくださることだというのです。

 私が仏にではなく
仏が私にと方向が逆なのです。
 ここが浄土真宗と他の宗教との
大きな違いなのですが
自己中心のものの見方考え方の私たちには
どうしても理解できない納得できない
素直に受け入れられないところがあるようです。

 今日の第一首目の御和讃です。
「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
   往相回向の利益には 還相回向に回入せり」
<南無阿弥陀仏の名号を回向していただいた恩徳は
 あまりにも広大で思いはかることができない。
 その南無阿弥陀仏の回向により
 浄土に往生してさとりを開くことの利益として
 迷いの世界に還ってすべてのものを救うのである>
とありました。

 南無阿弥陀仏と私がお念仏申して
私の方から回向すると思われてるかもしれませんが
私がお念仏申すようになったのは
南無阿弥陀仏の回向おはたらきがあって
私の口からお念仏が出てくださるようになったのです。

 ご先祖の大切な方とお別れする悲しいご縁を
そのまま仏さまのご縁といただくなかに
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただき
お念仏申す身にさせていただいたのです。

 私たちのご先祖有縁の仏さま方の御恩おかげです。
ご先祖の供養のためにお経の功徳を回向してといいますが
ご先祖の仏さまがお念仏申す私にしてくださったのです。

 今日の御和讃にも御文章さまにも
他力という言葉が何度も出てまいりました。
 他力の回向といただきましょう。
他力とは阿弥陀如来の本願他力のおはたらきです。

 もっと広くいうと十方諸仏の他力です。
私が私がと何か自分一人で頑張って生きている私たちですが
私たちのこのいのちは多くの命に支えられ生かされてあり
十方世界の諸仏方がほめたたえる南無阿弥陀仏の
大きないのちにつながって
今日も一日お念仏を申す生活をさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.11)


往生のたね

2021-10-10
 今月は毎日蓮如上人のお言葉をお取り次ぎしています。
この本堂のお内陣や皆さんのお家のお仏壇の左奥に
ご安置させていただく本願寺第八代宗主の蓮如さまです。

 今日は「往生のたね」ということについてです。

 私たちは日々の生活の中で
何をしてもそこに何か得るもの結果をすぐ求めがちです。

 私たちの朝夕のおつとめやお念仏申すときにも
同じように考えることがありませんか。
 おつとめをすれば何か得があるのか
念仏すればどういうご利益があるのか
などといったことです。

 蓮如さまの時もこれに似た話があって
ある人が「朝夕の正信偈和讃のお勤めや念仏申すことは
往生のたねになるのかならないのか」と尋ねたそうです。

 それを聞いていた人たちの意見は
「往生のたねになる」という人と
「往生のたねにはならない」という人の
真反対に分かれたいいます。

 今朝は仏教壮年会の月例会のご縁で
皆さんお朝事にお参りされて正信偈和讃をお勤めし
何度もお念仏申されましたね。
 さてこれは往生のたねになるのかどうか
どのように受け止められますか。

 蓮如さまのお答えは「いづれもわろし」と
両方の意見ともよくないと言われたのです。

 その時のお言葉が
「正信偈和讃は衆生の阿弥陀如来を
 一念にたのみまいらせて
 後生たすかりもうせとの、ことはりをあそばされたり。
 よくききわけて、信をとりて、ありがたやありがたやと
 聖人の御前にてよろこぶことなり」
<正信偈和讃は「どんなことがあってもあなたを
 決して捨てない」という阿弥陀如来の確かなお心に遇って
 このいのちを力いっぱい生き抜かしていただくところに
 救いがあることを説き明かしてくださったもので
 阿弥陀如来のお心をいただき
 阿弥陀如来のお心に遇ったことをよろこぶおつとめです>
とのことでした。

 正信偈和讃は親鸞聖人のお言葉です。
毎朝お朝事で皆さんのお家のご法事や月参りのご縁でも
ご門徒有縁の皆さんご一緒にお正信偈のお勤めをします。

 私たちのご本尊の阿弥陀さまのご本願のお救いのお心
南無阿弥陀仏のおはたらきを
讃嘆させていただくお勤めです。
 「どんなことがあってもあなたを決して捨てない」と
阿弥陀さまは摂取不捨のおはたらきをされ続け
私たちは阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
生かされて生きているというみ教えを
聞いてくれよと親鸞さま蓮如さまのお勧めです。

 阿弥陀さまのお心を聞かせて信心いただき
お念仏を申す身にさせていただいて
このいのち精いっぱい生かさせていただくところに
私たちの救いがあるのです。

 往生のたねは私の側にあるのではなく
信心正因といって
阿弥陀さまのお心を聞かせていただくことに
依るのです。

 今日もこうして皆さんと正信偈和讃のお勤めができ
お念仏申して阿弥陀さまのお徳に
お礼をさせていただけたことを
本当に有難く尊く嬉しく思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.10)


「いづれも、仏になることをよろこぶこころよし」

2021-10-09
 蓮如上人に「今救われていることのよろこびの上から
念仏申すのが本当でしょうか
将来必ず救われることをよろこんで
念仏するのが本当でしょうか」とお尋ねした時に
蓮如さまは「いづれもよし(中略)いづれも仏になることを
よろこぶこころよし」とこたえられたといいます。

 阿弥陀さまのお救いは現当二益といって
現在今の救いと当来に浄土に往生し仏に成る救いです。
どちらも阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきです。

 よく「私はあの宗教で救われた」とか
「あの神さま仏さまに救われた」とか聞きます。
 病気が治ったとか受験合格したという
現世のご利益救いです。

 私たちの阿弥陀さまの救いはというと
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされてあるという救いです。

 阿弥陀さまは十劫という遥か昔に阿弥陀仏に成られて
十方衆生を必ず救うという南無阿弥陀仏のおはたらきを
ずっとしてくださっています。
 阿弥陀さまが先手の南無阿弥陀仏のお慈悲の救いの中に
私たちはこれまでも共に生かされてきたし
これからも共に生かされていくと聞かせていただきます。

 阿弥陀さまのお救いのみ教えに遇って
私たちはみんな共に南無阿弥陀仏の大きないのちの
つながりのなかに生かされてあるという
本当のいのちのあり方に目覚めさせていただくのです。

 「仏に成る」よろこびは
自らに固執するあり方を超えて
自分と他のいのちを分け隔てせず同じように大切にして
自他共に心豊かに生きるということです。

 みんなが共に生きる真実のいのちの世界である
阿弥陀さまのお浄土に生まれると今聞かせていただき
この命終わって阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏にさせていただくのです。

 中川静村さんのお念仏の詩です。
『生きる』
「生かされて 生きてきた
   生かされて 生きている
   生かされて 生きていこうと
 手をあわす 南無阿弥陀仏」

 お念仏申して今日も一日
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.9)


「ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかとうたがいをなげくものあるべし」

2021-10-08
 蓮如上人のお言葉
「ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかと
うたがいなげくものあるべし」です。

 「どうでもいいようなことには熱中できても
本当にしなければならないことには中々気がすすまなくて
横着な日暮らしをしているが
こんなことではすくわれないのではないか」と
思う人がいるといわれるのです。

 懈怠(けたい)です。
するべきことを怠けるおこたるという意味です。
 日々の生活の中で「今日一日何をしてたのか」と
思うことってありませんか。
 「もう10月、もう一年終わるのか。
この一年、一体何をしてきたのかな」と振り返ります。

 久しぶりにお会いしたご門徒さんが
「ご院家さん、最近お寺にご無沙汰でお参りできなくて
すみません」と申し訳なさそうに言われます。
「こんなことで大丈夫でしょうか」とか
「こんなことで救われますかね」と思われてるのでしょうか。

 自分の趣味や好きな事にはすっと体が動くけれども
お寺参りに誘われてもまだまだ先のことと思って
「忙しいから」「まだ若いから」とか言って断ります。

 本当に今するべきことをどこかに置いて
いつでもできるどうでもいいことをしている私です。
「こんなことで大丈夫でしょうか」と
蓮如さまに尋ねたのでしょうね。

 「こんなことで本当にいいのでしょうか」と尋ねられて
「それでいいのですよ」と答えれば
「これでよかったんですね」とそこに胡坐をかかれるし
「それではいけませんよ」といえば
どうにかならないと救われないように思って
「やっぱりああならなければいけないのですね」と
一人決めされます。

 ですから「こんなことでいいのか」というお尋ねには
「いい」と答えても「わるい」と答えても
違った方向に行ってしまいます。

 ではどう受け止めたらいいのでしょうか。
ついつい怠け心が起こる横着な私を阿弥陀さまはご存知で
放っておけないと阿弥陀さまの方から
手を差しのべてくださっているのです。

 「どんなことがあっても決して捨てることはない。
まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきにおまかせして
その上はどのようなことがあっても
阿弥陀さまのお救いに間違いはありません。

 「これこれこういうことをしなさい
こうすれば救われますよ」と言われた方が
分かりやすいようですが
人人それぞれに生活ぶりが違います。
 私にできることもあれば
できないこともあります。

 阿弥陀さまのご本願のお心をお聞かせいただき
私にできる仏恩報謝のおつとめを
精いっぱいさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.8)


円光寺
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