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お念仏を申す生活法話

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80年前の戦争が今私たちに投げかけること

2021-12-09
 昨日12月8日は日本の真珠湾攻撃で
太平洋戦争が始まった日で80年が経ちました。

 昨日は真珠湾攻撃をめぐる新聞記事を読み
同じ内容のテレビ番組を観ました。

 真珠湾攻撃というと戦闘機によるアメリカ艦船への
襲撃がすぐ目に浮かびます。
 空母など艦隊も出動しましたが
海中を進む特殊潜航艇5隻も参加したといいます。

 大きな潜水艦ではなく2人乗りの爆薬を積んだ
小さな潜水艦です。
 特別に訓練された兵士が乗り込み
敵の艦船を攻撃するのです。

 戦死した乗組員は「九軍神」とたたえられ
戦争遂行の神としてまつられます。
 英霊です。
戦死を遂げた人はすぐれた霊としてまつられるのです。

 兵士は2×5で10人ですが
九軍神に1人いません。
 残る一人は生き残って米軍の捕虜になったのです。
「日本人の捕虜第1号」とアメリカで紹介されましたが
日本では当時10人が写った写真が一人だけ塗りつぶされて
その人のことはずっと伏せられたといいます。

 捕虜になるのは日本軍人の恥だと叩きこまれた彼は
収容所で「死にたい殺してくれ」と
何度も懇願したそうです。

 テレビでは収容所で浄土宗の僧侶に出会って
死を思い止まるようになったといいます。
 日露戦争で捕虜になった同じ境遇の方で
元捕虜に対する差別を受けるなかで
日本からハワイに渡り仏道に帰したといわれます。

 またアメリカの文化思想にも触れるなかで
「生きたい」と変わっていったといいます。

 4年後終戦になり翌年日本に帰って来ますが
みんなから歓迎されることもなく
アメリカで身につけた英語を使う職業に就き
家族と共に生きたといいます。

 戦争について家族に話すことはなかったといい
息子は「お前のオヤジ、捕虜1号だろ」と言われて
戦争のことは聞いてはいけないと思ったといいます。

 手記を残しています。
去年初めて父の手記を読み通したといいます。
「死んだら神に、生き残ったら存在を消し去る戦争は
やっぱりおかしい」と
父の思いをこれから伝えていきたいと
今朝の新聞で読みました。

 戦争は80年前の出来事ではありません。
80年の時間を経てこれからもずっと
私たちに大きな問いを投げかけています。

 私も皆さんも戦争体験者ではありませんが
戦争の真っただ中に父母や祖父母は生きてきました。
 戦地に赴いた方もいます。
空爆に遭ったとかひもじい思いをしたとか
幾多の悲惨な体験をして生きてきたのです。

 戦時中の生活を想います。
お寺の生活です。
 戦争下にあってお寺は住職は
どんな役割を担ってきたのでしょうか。

 ご門徒を戦地に送り
遺骨もなく戦死したご門徒のお葬式を執り行っています。

 戦死された方は英霊です。
捕虜になって異国の地で収容生活を送られた方も
いらっしゃいます。

 戦争でその人人の人生が大きく変わり
私たちのいのちにつながっているのです。

 80年経って真珠湾を体験した人が
アメリカでそして日本でもう100歳を超えています。

 遠い昔の出来事ではありません。
今も戦争体験の証言が語られています。
 忘れたいと思っていたことが
鮮明な記憶となって語られています。

 私の知らないことが
まだまだたくさんあります。

 12月8日はお釈迦さまの成道の日
菩提樹の下で仏教のおさとりを開かれたのです。

 真実まことの仏さまのみ教えに
虚仮不実のわが身を聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.9)


先人のご苦労があって

2021-12-08
 門徒報恩講で昨日一昨日と4区遠見地区の
お参りをさせていただきました。

 寒くなるこの時期2軒のお家で
海苔の製造で忙しかったことのお話を聞きました。
 昭和20年30年代の頃です。
冷たい海に入って海藻類をつんで
板状の海苔を製造します。

 三佐の沖の海苔は特別美味しいという評判で
ご門徒から海苔をもらって火鉢であぶって
いただいた焼きのりを思い出します。

 この時期に寒ければ寒いほど
海苔の出来は良いといわれ
男衆は海に漁に出て主に女衆の仕事で
大変な重労働だったといいます。

 私のちょっと上の世代の当時の娘さんのお話です。
この寒い時期に海苔の製造を手伝わされるのが苦痛で
今から思い出しても嫌だったということです。
 今は養殖技術や機械化が進んで結構な収入源ですが
当時は手作業が主で効率も生産性も悪く
何でこんなしんどいことをしてという
思いで見ていたのでしょう。

 沖の海苔製造も昭和30年代半ばからの
大分市新産業都市計画の工場誘致で
遠浅の海岸が埋め立てられ
出来なくなりました。

 昨日御仏前でそんな話ができることを
有難く思いました。
 そうした先人の大変なご苦労があって
今の私たちの生活があることを思ったからです。

 御仏前に共々に座ってご一緒にお勤めができ
この口からお念仏が出てくださることの有難さです。
 ご先祖有縁の先人もまた
ご本尊の阿弥陀さまにお礼をして
日々の生活に勤しまれていたことを思い起こします。

 先人のご苦労が私たちのいのちとなり
お念仏の声を届けてくださって
子や孫の次の世代にお念仏の声が伝えられていく
南無阿弥陀仏のおはたらきの尊さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.8)


「さあ帰るぞ」

2021-12-07
 昨日お葬儀がありまして
お葬式の後に火葬に行かれますが
火葬の後直接お寺にお遺骨を持たれお参りされて
還骨のお勤めをいたします。

 昨日のご縁のお方は12月3日にご往生されて
昨日のお葬式が4日目になります。
 お遺族の方はお疲れがでてきます。
お通夜お葬式と弔問の方の接待もあり
しっかりしないとと気が張っているというものの
火葬が済み還骨のおつとめに来られる頃が
お疲れのピークではないかと思います。

 それでなるべく早め早めにと配慮しますが
昨日は6時前から少し長めのお勤めになりました。
 皆さん初めてお寺の本堂にお参りされる方ばかりで
それぞれにしばらく本堂の中を珍しそうに見ていましたが
「さあ帰るぞ」と喪主の方が皆さんに声をかけました。

「さあ帰るぞ」とお家に帰るのです。
そこにいた方に「さあ帰るぞ」と言ったそのまんまが
しっかり胸に抱いた奥さんのお遺骨です。

「さあ帰るぞ」と懐かしいお家に
お遺骨となって皆さん一緒に帰るのです。
 帰る家があるということです。
帰る家がある安心です。

 大切なお方とお別れする悲しいご縁です。
大切な方がいなくなるこれからの生活です。
 つらいですね。
寂しいですね。

 悲しいご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただきます。
 先に往かれた仏さまとご一緒にお念仏の世界を
これからも共に生かされて生きて往けると
南無阿弥陀仏のおはたらきに聞かせていただきます。

 懐かしいお姿に会うことはかないません。
懐かしい声を聞くことはできません。
 この目に見えるお姿はお遺骨ですが
南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
確かに確かに私のところに還ってみえて
私を護り救うおはたらきをしてくださるのです。

 南無阿弥陀仏の阿弥陀さまのお救いです。
南無阿弥陀仏とお念仏申す中に
「必ず救うまかせよ」のおはたらきを
聞かせていただきましょう。

 先に往かれた方もお浄土ならば
後に遺った私たちも同じ
お浄土に生まれさせていただいて
再び会うことができるとお経さまにあります。

 人生の旅を終えて「さあ帰るぞ」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで懐かしい方々が待つ
お浄土に帰らせていただきます。

 今日一日もお念仏申して
お浄土への人生を共々にさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.7)


「人間は生きたように死んでいく」

2021-12-06
 昨日今日とお葬式が続きます。
二件とも初めてのご縁のお家です。

 お通夜お葬式のあり方が
コロナで変わってきたというお話です。
 コロナでというより
もう少し前から実は変わっています。

 今は家族葬でといわれるところが多くなりました。
ただ家族葬といってもその定義はそれぞれ違って
一般の方もお参りされている家族葬もあります。

 コロナ下では一般の方はお焼香を済ませて帰られる
新しい葬儀のあり方がお目見えして
私たち僧侶がお勤めする時には
本当に家族だけの葬儀が多くなりました。

 昨日のお通夜はたくさんの方がお参りでした。
お亡くなりになられた方が70代前半の方で
交友関係も現役でつながりが広く
別れを惜しむ方がたくさんいらっしゃるということです。

 「人間は生きたように死んでいく」といわれます。

 私たちは死んだらお終いの
むなしいいのちを生きているのではありません。
 人と人との別れはあります。
愛するものと別離するという
愛別離苦の思い通りにならない悲しいご縁ですが
仏さまのみ教えを聞かせていただくと
南無阿弥陀仏のお念仏のおはたらきで
どんな人も阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏と成り
私たちの迷いのこの世に
南無阿弥陀仏のお念仏の声の仏さまとなって
還って来るといいます。

 お通夜でご法話をさせていただきます。
初めて仏さまのお話を聞く方が殆どだと思います。
 まさに命がけで仏さまのご縁に遇ってくれよと
先に往かれた仏さまのおはたらきといただきます。

 悲しいご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただける有難さです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.6)

「がんばりながら、がんばらない」

2021-12-05
 今日は『御堂さん』今月12月号から
お話を紹介します。

 長野県諏訪中央病院の鎌田実先生の文章です。
たくさん本も書かれて読まれた方も多い有名な先生です。
 そのまま読みます。

 貧しい中で育ったため、生きていくには
がんばらなければならないと思ってきました。

 医師になってからも、よく患者さんに
「がんばりましょう」と声をかけました。
 いつしか、口癖のようになっていました。

 いつものように
40代の末期がんの患者さんに声をかけて
病室を出ようとした時のことです。
 患者さんが突然、涙を浮かべました。
「先生、もうこれ以上がんばれません」
ぼくはハッと気が付きました。

 どんな人でも、がんばれなくなるときがあります。
がんばりたいのに、がんばれないと感じた時
絶望を感じるのです。
 それ以来、ぼくは、患者さんや被災者など
困難に立ち向かっている人に
「がんばれ」という言葉は使わないようになりました。

 諏訪中央病院のロビーには
「がんばらない」という書が掛けられています。
 障がいを乗り越えて生き抜くために
だれよりもがんばってきた女性が書いたものです。
 彼女は、がんばるだけでは長続きしないことを
よく知っていたのでしょう。
 時どきがんばらない自分を認めてあげるからこそ
また次にがんばることができるのです。
(中略)
 うまく力を抜き、心を整えることが大事です。
「がんばらない時間」と「がんばる時間」を
行ったり来たりしながら
ちょうどいい塩梅を探っています。

 この文章のテーマは
「がんばりながら、がんばらない」です。

 私たちの阿弥陀さまのお救いです。
阿弥陀さまは「われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏とおはたらきです。

 「われ阿弥陀にまかせよ」と聞いて
そのお心をどう受けとめられますか。

 「私阿弥陀はあなたのいのちを
そのまま丸ごと引き受けたからね。
そんなにがんばらなくてもいいんだよ」
と聞かせていただきます。

 何もがんばらなくてもいいと聞くのではありません。
私たちは頑張って生きているのです。
生きていること自体が実は頑張っているのです。

 でも頑張れないんです。
頑張れなくなるのです。

 頑張ろうと生きるなかに
頑張れない自分を見させてくださるのです。

 高校の時の英語の先生の話です。
授業で「スタディ ハード」頑張って勉強しなさいと
大きな声で言った後に
小さな声で「ア リトル」ちょっとねと
言葉を添えて言うのです。
 英語が得意でなかった私には
何かちょっと救われるような思いがしました。

 ちょっとねと
一生懸命頑張れればいいのですが
そんなにいつも頑張れません。

 頑張りながら、頑張らない。
いつも私のことを心配して見守ってくださる
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中で
私にできる精いっぱいのことを頑張って
ちょっとだけさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.5)


円光寺
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