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お念仏を申す生活法話

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「聴聞はかどをきけ」

2021-10-17
 昨日に続いて蓮如上人と同じ時代を生きた
法敬坊さんの言葉です。

 90歳まで生きられましたが
この歳まで何度聴聞申されても
阿弥陀さまのお心を知ってこれで大丈夫ということではなく
まだまだとあきることなく聞かせていただきますと
言われてその後に
「讃嘆のとき、なにも、おなじようにきかで
聴聞はかどをきけと、まうされさふらふ。
詮あるところをきけとなり」
<仏德讃嘆のお話ご法話を聞くときは
 初めから終わりまで同じように
 のんべりだらりと聞き流すのではなくて
 ここだけは、このことだけはと
 お話くださる肝要なところを
 しっかりと聞かせてもらいましょう>
と言われました。

 ご法話を聞く人の中に
阿弥陀如来の「どんなことがあってもあなたを捨てない」
という大悲のお心を聞かないで
ただ例話やたとえだけを聞き覚えている人がいます。

 そして「今日のお話は分かりやすくてよかった」とか
中には「面白かった」と感想をもらす方がいます。
 どんな話を覚えているのかというと
例話やたとえ話です。
 「今日のお話は有り難かった」ではなく
「よかった」のです。

 仏法聴聞とはただ一つ
阿弥陀さまのご本願のお心おはたらき
南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただくのです。
 ここが肝要なのですが
そのことはもう聞いたとばかりに
胡坐をかいて座り込んでしまっていませんか。

 90歳になっても幾つになっても
今聞かせていただく仏法聴聞の大事です。

 「かどをきけ」と言われます。
南無阿弥陀仏の肝要です。
 大事な肝要を聞かずじまいに
今日は面白い話だったというのなら
お寺に落語でも聞きに行っているのでしょうか。

 お寺参りは阿弥陀さまのお浄土参りに通じることです。
お浄土の阿弥陀さまの御尊前に座らせてもらって
救われ難い煩悩具足の凡夫の身を生きるこの私が
唯一救われていく本願念仏の道を聞かせていただく
私のために開かれた仏法聴聞のご縁に
遇わせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.17)


法味無尽~阿弥陀さまの大悲のお心の深さ尊さ

2021-10-16
 「仏法は聴聞に極まる」と
阿弥陀さまの本願成就の南無阿弥陀仏のお心を
聞かせていただくことが
浄土真宗の肝要といわれます。

 仏法を聞くとは
学校の勉強のように聞いて知って覚えることではなく
阿弥陀さまのお心をたずねていくということなのですが
ちょっと仏法をかじり聞いた人に限って
仏法がわかったようなことをいいます。

 仏法はそんなに底の浅いものではありません。
聞いても聞いても奥深くあきることのないものです。

 もう何回も聞いて知っていますというのは
あまり聞いていない証拠です。
 聞けば聞くほど阿弥陀さまのお心の深さ大きさが
途方もないものと知らされ
まだまだお聞かせにあずからねばとなるのが仏法聴聞です。

 蓮如上人と同じ時代に生きた法敬坊というお方は
90歳まで生きられましたが
「この歳まで聴聞まうしさふらへども
これまでと存知たることなし、あきたりもなき事なり」と
言われたそうです。

 90歳になるまでお聴聞させていただいたけれども
まだまだあきたということはないと
いよいよお聴聞させていただくことを
よろこんでいかれたのです。

 お念仏に生きた先人のすばらしさを思うとともに
阿弥陀さまのお慈悲のお心の深さ尊さを
あらためて有難く味わわせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.16)


「我が心にまかせずして、心を責めよ」

2021-10-15
 蓮如上人のお言葉です。

 阿弥陀さまのお救いはそのままの救いといわれます。
阿弥陀さまが先手で一方的に必ずこの私を救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 「あなたはあなたのままでいいから力いっぱい生きなさい
どんなことがあっても私はあなたを捨てません」と
私の「いのち」の全体をつつみ支えてくださる
阿弥陀さまのあたたかいお心にあって
小さな「我」の殻に閉じこもって冷えきっている
私の「いのち」を解きほぐしてくださる
阿弥陀さまのお救いです。

 ところが「そのままの救い」と聞いて
「このまま」何もしなくても救ってくださると
横着な私が自分の横着に合わせて受けとりますと
横着がますます横着になって
勝手気ままな生き方になります。

 そんな姿を他の教えに生きる人が見たら
「何もしないのが他力本願」となって
浄土真宗の要である他力本願の教えが
誤解されることになってしまいます。

 蓮如上人は「我が心にまかせずして、心を責めよ。
仏法は、心のつまる物かと思へば信心に御なぐさみ候」
<横着な心にまかせず、心をひきしめ、たしなみなさい。
そういうと仏法は堅苦しいものだと思うかもしれませんが
阿弥陀さまのあたたかい心にふれて、常に慰められるので
本当は堅苦しいものではないのです>
と教えてくださったのです。

 昨日はお念仏に生きる者のたしなみをお話しましたが
これは阿弥陀さまのお慈悲のお心を聞かせていただく
私がたしなむということで
他の人にこうしなさいということではありません。

 私たちはそれぞれ生活ぶりが違うように
お念仏申す生活たしなむあり方も
それぞれ違ってくると受けとめましょう。

 阿弥陀さまのあたたかいお心にふれて
氷が融けて水になるように
氷のような固く冷たい心が水となって広がるのです。

 阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきで
小さな狭い私の世界から大きな世界に生れるのです。

 私が私がと小さな世界に閉じこもって
自己中心にはからい生きるこの私に
「大きな広い阿弥陀の世界に生まれて来いよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞かせていただき
お念仏にたしなむ生活をさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.15)


お念仏に生きる者のたしなみ

2021-10-14
 私たちの阿弥陀さまのお救いは無条件の救いです。
「こうしなさい、こうしたら救うよ」というような
条件が全くありません。

 何の条件も出さず「あなたをあなたのままで救う」と
いってくださる阿弥陀さまのお心が本当に受け取れたら
「私にできるだけのことはさせていただきます」と
いうことになるのが本当だと思いますが
「そのまま救う」といってくださるのをいいことに
「このままでいいのだ」と胡坐をかいて
座り込んでしまう聞き方をする人がいます。

 阿弥陀さまのお心を聞かせていただくほどに
御恩報謝の行いを精いっぱいさせていただくのが
お念仏に生きる者のたしなみですよと
教えてくださるのが今日の言葉です。

 これは蓮如上人のお言葉ではなく
越中五箇山の赤尾の道宗さんが常日頃言っていた言葉で
『蓮如上人御一代記聞書』に収められています。

 「一日のたしなみには
朝つとめにかかさじとたしなむべし。
 一月のたしなみには
ちかきところ御開山様の御座候ところへ
参るべしとたしなめ。
 一年のたしなみには
御本寺へ参るべしとたしなむべし」
<「そのまま救う」という阿弥陀さまの
 深く大きなお心おはたらきに
 遇わせていただいたよろこびの上からは
 朝夕のおつとめをさせていただこう。
 月一度は親鸞聖人のみ教えをよろこぶ法座に
 参らせていただこう。
 一年一度は親鸞聖人のまします本願寺に
 参らせていただこう>と
道宗さんは自らに言い聞かせて
一日を、一月を、一年をすごしておられたのです。

 何か救いの条件のようにも聞こえますが
人にこうしなさいと言っていることではなくて
この私がさせていただくことと受けとめてください。

 一日のたしなみはお家のお仏壇にお参りしましょう
一月のたしなみにはお寺のご縁にお参りしましょう
一年のたしなみにはご本山にということですが
近くの本願寺のお別院にお参りしましょうと
聞かせていただきます。

 皆さん私たちの一日のたしなみは
お寺のお朝事参りから始まります。
 お念仏申す生活ですが
その生活ぶりは人それぞれ違います。

 今は毎朝ご飯を炊くところが少なくなりましたが
ご飯を炊いたときはお仏壇にお仏飯をお供えしましょう。
御仏前に座ってお灯明をつけお線香を焚いて
手を合わせ南無阿弥陀仏とお念仏申して
仏さまにお礼をさせていただく生活のたしなみです。

 人それぞれのお念仏を申す生活ぶりですが
「そのまま救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
欠かさず聞かせていただくお聴聞が肝要と
今朝の言葉をいただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.14)


同座平座のお心

2021-10-13
 蓮如上人はお念仏のご法座で
お参りの皆さんとご一緒に同じ場に座る同座
それぞれの立場に関係なく平たく座る平座ということを
実践され私たちに勧められました。

 私たちは人と人との関係で
先輩後輩であったり、会社では上司と部下
学校では先生と生徒という関係で
座る場所も違ったり、話しぶりも立場の上の者が
上から目線で話したり言葉遣いにも気を配ったりと
何かと大変です。

 ただ仏法の場では同座平座といって
私たちは同じ阿弥陀さまの御前に座らせていただき
等しく阿弥陀さまの真実信心を賜る御同朋
お念仏のお仲間といいます。
 
 蓮如さまは「身をすててをのをのと同座するをば
聖人のおほせにも、四海の信心の人はみな兄弟と
仰せられたれば、我もその御ことばのごとくなり」
<自分の立場や身分を捨て、みんなの人と同座するのは
 親鸞聖人の「この世でお念仏をよろこぶ人はみな兄弟です」と
 言われたお言葉のように生きようと思ってのことです>
と言われました。

 そして「同座をもしてあらば、不審なることをもとへかし
信をよくとれかしと、ねがふばかりなり」
<こうして皆さんと同じ場に座り、ひざをつきあわせて
 いるのですから、どうか日頃み教えを聞きながら
 わからないところ、疑問に思うところ
 もうひとつはっきりしないところがあったら
 どうぞ遠慮なく尋ねてください
 と願うばかりです>と言われたのです。

 ご法座でお坊さんが一方的にお話をするばかりではなく
同座の皆さんからもお話を聞かせていただくことの大事です。
 阿弥陀さまの御仏前にお同行の皆さんが
車座になってお聴聞のご縁をいただく
話し合い法座です。

 蓮如さまの同座平座のお心です。
このお朝事のご縁もそうです。
 阿弥陀さまの御尊前に同じく座らせていただき
阿弥陀さまのお浄土に向かって阿弥陀さまのお徳を讃嘆し
親鸞さま蓮如さまのお言葉をいただいて
阿弥陀さまの大悲の中にお念仏を申す生活を
始めさせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.13)


円光寺
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