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お念仏を申す生活法話

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「わかきとき、仏法はたしなめと候」

2021-10-22
 蓮如上人のお言葉です。

 「わかきとき、仏法はたしなめと候。
としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。
ただわかきとき、たしなめ」と
よくお寺のお話で引用される有名なお言葉です。

 仏法は若い時にたしなめと聞いて
年輩の方が「若い時に聞いておけばよかった」と
歳をとったらもう遅いとでも受け止めたのでしょうか。

 若い時というと、すぐ年齢のことを思って
20代30代の時と思うのでしょうが
若い時といって今なのです。
今ほど若い時はないのです。

 過去の時を思っても
若い年齢の私に返ることはできないのですから
どうしようもないことです。

 仏法に遇うのは早ければ早いほどいいです。
若ければ若いほどいいのです。
 だからといって
年老いたものは仏法を聞く必要がない
ということではありません。

 阿弥陀さまのご本願のおはたらきがすごいのは
若い時も老いた時も健康な時も病気の時も
私がどんな状況にあっても
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏となって
私とご一緒してくださる仏さまに成ってくださったのです。

 確かに歳をとると
足が痛くてお寺に参れない
参っても足が痛くて座れない
座っても居眠りが多くなります。

 そうしたことからも
一時も早く仏法聴聞のご縁に遇ってほしいとの
蓮如さまのお勧めといただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.22)


親鸞聖人の御罰

2021-10-21
 私たち複数の人間が社会生活をしていると
どれほど仲のいい人間関係でも
時にはぶつかることがあります。

 人人の思いはそれぞれ違います。
だからぶつからない方がかえって問題で
ぶつかることでお互いの胸の内がわかり
理解を深めることにもなります。

 ただぶつかった後で
自分の悪かったところを素直にあやまらないばかりに
人間関係がこじれてしまうこともあるようです。

 私たち人間のやることに
一から十まで正しいということもなければ
一から十まで間違っているということもないのですが
自分の非は認めず相手の非を責める私たちがいます。

 蓮如上人のお言葉に
「たれのともがらも、われはわろきとおもふもの
ひとりとしてあるべからず。これしかしながら
聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり」
<誰も自分が悪いと思うものはいないというのは
 親鸞聖人から罰を受けているすがたです>
とあります。

「親鸞聖人のお念仏のみ教えに遇って
自らを振り返る目を恵まれたら
このようなことにはならないだろう」と
蓮如上人は厳しく教えてくださったのです。

 人と人との関係はお互い相手に向き合う時もあれば
背中合わせになる時もあります。
 お念仏のみ教えに遇って
私たちは共々に阿弥陀さまの大悲の中に
生かされていることを聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.21)


世間話とご法話

2021-10-20
 ご法話は仏德讃嘆のお話です。
阿弥陀さまの本願念仏のお心南無阿弥陀仏のおはたらきを
よろこびほめたたえるのがご法話です。

 一方世間話は人のうわさ話が中心です。
私たちの興味をそそる話で
ついつい耳をそばだてて聞き入ります。
 
 話し合い法座で仏法の話がいつのまにか
世間話に変わってしまうことがあります。

 蓮如上人の頃もそういうことがあったようで
「仏法のことをいふに、世間のことにとりなす人のみなり」
<法話であってもすぐに世間話に変えてしまう人がいる>
と言われています。

 仏法のお話が世間話になると
嫌気がさして投げ出してしまいそうですが
蓮如さまは
「それを退屈せずして、また仏法のことにとりなせ」
<世間話になったからと投げ出せば
 話はいつも世間話で終わってしまいます。
 それをもう一度、仏德讃嘆の話に引き戻すように
 仕向けるのが、み教えに遇った者の務めです>
とお示しくださいました。

 ご法座の最後に蓮如さまがお届けくださった
御文章さまを拝読させていただきます。
 世間話で終わりそうなところを仏法の話に戻し
「聖人一流のご勧化の趣は」と浄土真宗の肝要を
聞かせていただくのです。

 ご法座にお参りされた皆さんの心が落ち着き
安心のなかに仏さまのご縁をいただいて
それぞれの生活に帰るのです。

 世間に生きる私たちの話は専ら世間話です。
そのなかに仏法の話を聞かせていただくことの有難さです。
 私たちの生きる依りどころ死して帰するところを
聞かせていただきます。

 お念仏を申す生活です。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
阿弥陀さまの大きなお慈悲のお心おはたらきの中に
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.20)


お念仏よろこび申す身にさせていただく

2021-10-19
 人の話を聞いて「わかった」といっても
いろんなわかり方があります。
 頭で理解できたというわかったもありますし
心で共感できたのもわかったということでしょう。

 仏教では領解(りょうげ)という言葉で
わかったと味わいます。
 領解とは頭でも心でもなく
身に受けとめることができたということです。

 頭の理解は、上手な説明があればできますし
心の共感は、上手なお話にあえば生まれてきますが
身の領解は、み教えを身にかけてよろこんでいる人の
よろこびに遇わなければ開けてこないようです。

 仏法聴聞は頭でも心でもなく身にうけとめて聞くことで
お念仏を申す身にさせていただくのです。

 口先でお念仏を申すことではなく
声に出さずに心の中でお念仏を申すという
ことでもありません。

 お念仏を申す身になってお念仏に生きる
お念仏を申す生活です。
 縁にふれてこの口からお念仏が出てくださいます。
仏さまのお喚び声を聞かせていただきます。

 蓮如上人は
「御一流の義を、承はりたるひとは有とも
 聞うる人は少なりといへり。
 信をうる機まれなりといへる意なり」
<ご法義の言葉の表面だけを聞いている人はあるが
 その言葉の奥にあるこころといいますか
 よろこびを受けとる人は少ない>
と言われました。

 阿弥陀如来の大悲のお救いのお心を領解する人
真に受けとる人信心の人は稀であるといわれたのです。
 頭で心で分かったという人がいるけれども
この身に受けて聞かせていただく人は少ないというのです。

 お念仏を申す身にさせていただくことの有難さです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に日暮らしさせていただき
お念仏申す身のままに命終えて阿弥陀さまのお浄土に
南無阿弥陀仏となって生まれさせていただけると
よろこばせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.19)


「仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめと御掟なり」

2021-10-18
 「いつまでも暑いですね」などと言っていたら
昨日から急に寒くなりました。
 急遽衣替えをしました。
今日から冬の布袍です。
 夏が過ぎて秋になって冬支度ということですが
近年秋が本当に短く感じます。

 日々季節の移ろい中にのなかに
今日から御和讃が最初に返って
「弥陀成仏のこのかたは」で始まりました。
 気持ちも新たに
お念仏申す生活です。

 蓮如上人のお言葉です。

 私たちの仏法聴聞は
阿弥陀如来の本願念仏のお心
南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただくことです。
 阿弥陀さまのお救いはそのままの救いといわれ
この私を条件なしにそのまま救うてくださるといいます。

 どんな人も無条件で救われると聞いて
身で行ってはならないことを行い
口で言ってはならないことを言い
(こころ)で思ってはならないことを思って
こんなつまらない私をお救いくださる阿弥陀さまと
よろこんでおられる人がありますが
勝手気ままな人間が自分の勝手気ままを全部許し
勝手気ままに振る舞ってよろこんでいるだけで
周りの人にとってはどうにもならない
困った存在でしかありません。

 これは阿弥陀さまのそのままのお救いを
横着者が自分の横着に合わせて受けとめた結果でしょう。

 こうした人たちの姿を蓮如上人は
常日頃から見てらっしゃったんでしょうね。
 蓮如さまのお傍にいたお子さんで
本願寺第九代宗主の実如上人は
「仏法のこと、わがこころにまかせず
 たしなめと御掟なり。
 こころにまかせては、さてなり。
 すなはち、こころにまかせず
 たしなむ心は他力なり」
<仏法の日暮らしは
 自分のお粗末な心のおもむくままにまかせて
 勝手気ままに振る舞う生活を送ることでなく
 お粗末な自分を知らされれば知らされるほど
 気をひきしめ、たしなまねばならない>と
たびたび注意されたといわれます。

 勝手気ままな心に日々の生活をまかせず
お念仏申して阿弥陀さまのお心を仰ぎつつ
気をつけて慎んでいきたいものです。

 仏法にわが身を煩悩具足の凡夫と知らせてもらい
この私をこそ必ず救うとおはたらきの阿弥陀さまが
いつでもどこでもご一緒してくださってあると
お聞かせいただきます。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲のお救いの中に
生かされる私は何ができるかといって
今の私にできることってそんなにありませんが
仏さまの御恩に感謝する思いいっぱいに
今日一日もお念仏申して
日暮らしさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.18)


円光寺
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